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私の幻聴体験をお話しします。
恐怖を煽るような表現はなるべく避けたいので一部だけ書き留めます。
幻聴初期
声の主は神様だと信じていました。
頭の中から聞こえますが、口から発すると
私の声ではない、発したことのない威厳のある声でした。
言葉遣いも違います。普段使わない言葉です。
自分でも何か特別な事を知っているのではないかと思うようになりました。
私の知識では到底敵わない存在であり、全てに従っていました。
幻聴中期
声の主は神ではないと言い出しました。
私はその当時、酒さ様皮膚炎や人間関係の問題を抱えていました。
「この先にどうしても変えたい未来がやってくる
その未来の私が、自分を変える為に私達に頼んだのだ」
と幻聴が言いました。
声は性別、人格、声質、口調が異なり
5人ほどが入れ替わり、同時に話すこともありました。
無数に声が聞こえてくる時もあり、
そして書記係がいて全てを記録しているようでした。
「私たちから声を止めることはできない
自力でこの声を離すことが試練だ
自分で頼んだことだ」と。
それから壮絶な揺さ振りが続きました。
決して誰にも言ってはいけない、狂うことも許されません。
潜在意識の中の不安やトラウマ、子どもの頃から現在に至るまでの罪悪感や、自分のしてきたこと
まるで死後に見せられる自分の人生のようでした。
自分の身に起こった出来事で、その時何を思ってそう行動したか問い詰められ、
答えていなくても、頭の中に浮かぶ僅かな記憶や感情を読み取り、
私の考えや行動は一寸の狂いもなく裁かれていきます。
自分が抱えている自分像というものは、
持つことでとても耐え難い、捨ててしまいたいものになります。
ただ捨てるには、自分の良心や清らかな部分も同時に捨てることになりました。
それも含めて自分像だったからです。
「なぜ捨てるのだ、自分を保てなくなるぞ」
自分を決めつけないのなら、そこに留まらなくていいと答えました。
それでも揺さ振りは終わりません。
未来にすべきことを教えられることもありました。
しかし知ってしまうとそれを消さなければならず、
聞いた後必ず反対の事を言われ、私は何をすべきか判断できなくなります。
その度に
「自分が頼んだことだ、未来が変えられなくていいのか」と。
もし声を離せなかったら、頼んだ代償に
死後私がこの揺さ振り屋をやることになる。
私にはできるはずがない、心底無理だと思いました。
そうまでして私にはどうしても変えなくてはいけない未来だったのです。
考えていること、行動全てに声がつきまといます。
ほとんど眠れない日々が続きました。
私が一番恐れていた存在は、声は電子音のように高く冷酷で、
今まで声を聞き続けた人の、末路の残酷さを何の感情もなく聞かされ、恐怖は加速していきました。
特に深夜には幻臭、幻触もあり
幻視は強くありませんでしたが怖い映像が浮かぶとなかなか離れません。
冬だというのに体が燃えるように熱くなり、
ベッドに体がめり込むように身動きができなくなりました。
恐怖で狂いそうです。
「今すぐ自死しなければ最も恐れることがやってくる」
精神が破壊される恐怖です。
その時未来を変えることも諦め、
今まで聞き続けていた声を聞かないために(この時体は動かない状態です)
呼吸に全て集中しました。
目を閉じても映像が浮かぶため、天井の僅かに見える線だけを見つめて
息を吸えるか吸えないかくらいの細く短い呼吸にすると、
声が途切れます。
それでも隙間から聞こえてきますが、無視して続けました。
一晩中続けて、起き上がるとすぐにテレビをつけて声を意識しないように見ていました。
恐怖が薄れてくると、
「ここはどこだ?知らない、分からない」
と聞こえてきました。
私は声を離せたかもしれないと思いました。
それから幻聴を意識しないように、本を読んだり自分の考えに集中しました。
そしてこの幻聴は自分自身の意識から出ているものであり、
恐怖は自分が作り出しているものと気づくと、
幻聴の声は消えました。
(この詳しい経緯はこちらにまとめています。↓)
「統合失調症を解き明かす」
この時頭の中に自分の意識、考えが声色のない言葉として流れてくる瞬間を体感したことで、
幻聴は自分の意識だと確信を得ました。
恐怖が強まると、脳の扁桃体が今すぐ行動せよと信号を出すため幻聴が命令的になります。
その時衝動的にパニックになってしまうと余計に事態を悪化させます。
心拍数、緊張、興奮状態を極力下げるためにも
呼吸に集中します。
呼吸に集中することで、感情や思考から離れます。
そうすることで幻聴は落ち着いてきます。
幻聴=脳=自分の意識は連動しています。
自分自身の意識と自覚することで調和され、
声は消滅します。
錯覚しているためです。
もし理解できなくても、この呼吸法は覚えておいてください。
災害時に薬が供給されないこともあります。
パニックに陥らないために自分を守る手段です。
統合失調症は無意識を体感する人達です。
人の脳で自我を認識できるのは、ほんの一部です。
幻聴として表れている意識はより広範であるため、
本来認識している自分より遥かに潜在意識まで深く広がります。
幻覚は五感を通して表れるため、過敏になり
意識がむきだしのような状態です。
一度取り入れた知識、忘れていた出来事も記憶に残っています。
感情や感覚に囚われると飲み込まれてしまいます。
幻聴に表れる錯覚意識は思考力や理性で統合しなければ、意識を調和できません。
広範な無意識を統合させるには、
自我(私)が無意識をも納得させる認識を持たなければなりません。
自分の中にある善と悪を理解し、
錯覚意識が自分の意識だと自覚し統合させます。
内言のない人でも、認識していないだけです。脳で認識できる意識はほんの一部だからです。
統合失調症になり、無意識を認識したことで意識は思考を止める事の方が遥かに難しいことが理解できます。
真の無意識は、五感を感じることも、身体を動かすこともできません。
頭の中の思考は言語化されますが、
私が体感した、意識から脳に流れ込んだ言葉は内言にもなっていないものです。
内言がなくても思考は止まっていません。
外言の前に内言があり、内言の前に言語化されていない感情や思考があります。
それが幻聴、幻覚、妄想として表れています。
統合失調症は恐怖に追い詰められ、死と直面する過酷さがあります。
しかし自殺することは自分にとって最も苦しい現実となります。
希死念慮も漠然とした不安の中に
現実から逃げたい、楽になりたいという心理から湧いてくるものですが、
死後は心の状態です。
苦しみから逃れるわけでもなく、
その状態が変化することもなく(時間は存在せず)
途方もなく苦しみが続きます。
生きることは心の状態をより良くし、
年と共に欲望が減少し
苦しみから離れていきます。
その自然の生を終え、成し遂げることが〝死〟です。
心の状態が自分を判断します。
心の状態は過去の自分の行い、
心の傷、トラウマ、罪悪感、依存心、不安が影響しています。
心の状態を良く保ち、安定させることが重要です。
皮膚炎や精神疾患などの病は、心と体を守るための反応です。
私は統合失調症になる前に多くの問題を抱えていました。
今まで蓄積された不安や歪み、心の問題を浮き彫りにされることで、
私自身が正常になるための機会だったのです。
とても強烈な体験です。
今まで形成されてきた自我が破壊される通過点を越えることで、
自分を縛り付けてきたものだと分かります。
他人からどう思われているかよりも
固執することなく、
心の安定を保つことが本来の姿であると考えています。
他力でもなく乗り越えられるのは自分自身です。
別の視点からお話しします。
この世に自分一人しか存在しないとしたら、
自分という存在は認識できません。
他者の存在があるからこそ、自我が形成され認識しています。
自分一人だとしたら、欲望や苦しみ、喜びや悲しみも生まれません。
私の幻聴を解明します。
まず声を聞いたことで他者だと錯覚します。
私の中の特別な存在でありたいという意識が神様だと錯覚し、
その錯覚意識が独り歩きし、誇大化しました。
これは私の中の善である側面です。
一人の人間の中には善人、悪人であっても
その中には様々な側面があります。
私の善性は悪だと捉えているものがあるからこそ認識しています。
善である側面の反対である、
自分の中の罪悪感や劣等感、不安やトラウマが浮き彫りになったのです。
普段考えていることや、行動一つ取っても、
無意識の中で自分を判断しています。
それが錯覚した人格の幻聴により、
常に声として聞こえてくることで追い詰められていきます。
それは自分の意識の中にある、善と悪、偏った考え方です。
善性を強く意識すれば、罪悪感や欠落した部分が自分を責め立てます。
反対に悪性に偏ると、善性も強調され
利己的である傲慢さをとことんまで批判し、罵倒されます。
どうしたら苦しみから離れられるか、
他者の存在のない、何者でもない自分を想像します。
そうすることで、苦しみは自分が作り上げてきたものだと気づきます。
自分でさえ、他者の存在であるように見えていたものです。
心の傷や依存心、我欲や執着から離れます。
それを苦しみが襲ってきた時に繰り返し続けます。
人生の中で様々な困難、うまくいかない事、立ちはだかる壁が何度も訪れます。
それらにどう対処するか、
原因を突き止め、固執してきたものを捨て去り
自力主体となることで人生は変わります。
なぜ人の苦しみは絶えないのか。
それは本質が隠されている為です。
本質に気づけず、目の前にある利己主義や依存心に囚われ奪い合い、傷つけ苦しみ続けます。
苦しみの果てに、否定し尽くされても決して変わらないものを自覚します。
形あるものは全て変化し、変容します。
相反する目に見える苦しみから、
不変であるものを自覚します。
完全な不変なる本質はなく、進歩し続けます。
進歩に限界はありません。