2007.10.11 (水)~10.13 (金)
10月11日(水) 【10回目】
『橋幸夫さんが「フナキカズオ」?』
10月12日(木) 【11回目】
『着る物ないから詰襟歌唱』
10月13日(金) 【12回目】
『「高校三年生」で世界が変わった』

『橋幸夫さんが「フナキカズオ」?』
舟木さんの本名は上田成幸。 生れた時に何か考えこんでいるような顔をしていたからという
ことで、尊敬する戦国の知将、楠木正成と真田幸村から1字ずつ取ってお父さんがつけた。

デビューにあたり、曲と同じく大事なものが芸名。舟木さんの場合は、レコーディング前、
拍子抜けするほどあっさり決まった。杉並の遠藤実先生のお宅に出向いた時、いきなり
「君の名前はフナキカズオだよ」 といわれた。
「舟木和夫」・・・縦に長くて横倒しになりそうな名前だったので、”つっかえ棒”を入れたい
とお願いして「舟木一夫」にしてもらった。

芸能界では水に関係ある名前は縁起がいいとされ、
”長谷川一夫”、”橋幸夫”、”西郷輝彦”さんなど。
”舟”なんて思いっきり水に浮いているわけだし、みんな
結構、験を担ぐ。
「舟木和夫」は、橋さんがつけるはずだったとか。15歳のときから遠藤先生に育てられ
た橋さんは、 コロムビアの新人オーディションに合格しなかったことで、 吉田正先生に
預けられ、ビクターレコードから「潮来笠」でデビューし、その年のレコード大賞新人賞を
受賞した。
舟木さんのデビュー後、二人で笑いあった会話。 「俺が舟木一夫だったら、あなたは何だったろうね。」
~もし、橋さんがコロムビアに合格して「高校三年
生」を歌い、舟木さんがビクターで「潮来笠」を歌
っていたら~
「両方、売れてなかったね。」
橋さんとは長くお付き合いさせていただいていますが、デビュー前から因縁めいているのも
巡り合わせ。 単なる偶然で済ますにはもったいない。何か見えない力に操られていたという
ほうが、ちょっと色っぽいじゃないですか。
「舟木一夫」という名前とともに、ボクの人生は大きく変わっていきました。 ただ、振り返ると、
ボクもよく言ったと思いますね。 普通なら、 これからデビューする18歳の新人が大先生が
つけてくれた名前に注文などつけません。でも、そういう性格なンです。 裏表を使い分ける
のはイヤだと根っから思っていますから。 そうでなければ、男同士、付き合えなくなってしま
いますからね。
『着る物ないから詰襟歌唱』
黒い詰襟姿のデビューは、実は偶然の産物。 「高校三年生」の発売は1963年6月。
「もう夏が近いから、白いサマーセーターに紺のパンツ姿 で爽やかにいった方がいい」 の声が大勢を占めた。
少数派ながら詰襟を押す声もあり、レコードジャケットは2
パターン撮影。 舟木さんは、サマーセーター派。
デビューの2週間前に急きょ、 

フジテレビ 「歌の饗宴」 の生
出演が決定した。
サマーセーターの準備は出来
ていないから、
「とりあえず今回は詰襟でいっ
ちゃえ!」 となった。
番組終了後は、テレビ局の電
話がパンクするほどの問い合
わせ。
「あの詰襟で歌っていたのは誰だ」。
日本コロムビアなどが 「もう詰襟でいくべきだ」 となり、舟木さんの衣装が決定。
ジャケット撮影も含めて、自前の詰襟だったから、衣装代はゼロ。 デビュー1ヶ月半くらいは
ずっと冬物で着替えなし。 上着の中にはランニングシャツ、汗取り、ワイシャツ。 ワイシャツ
はコットンのいいものだと首元が膨らんで見た目が悪くなるので、あえて安物を着用。

詰襟を着て歌う姿が舟木さんのイメージとして定着したが、様々な偶然は必然だったと思え
るくらい、いろいろなことが重なっていた。 当時、舟木さんは痩せていたので、鶴首で詰襟
が似合うタイプ。 もしも首が短かったら、それだけでダメだった、、。

60歳の還暦を迎えたときは一年間、シャレで赤い
詰襟でコンサートをやった。 20代の頃、 当時の
マネージャーと万一、 60歳になっても歌えていた
ら、赤い詰襟で歌うのも面白いだろうと話していた。
そういうシャレでいくと、最期のときは白い詰襟か
な(笑い)。
その前に例えば77歳、 喜寿のときにもしも現役
で歌っていたら、ある公演だけ詰襟をちょっとだけ
着てみることもあるかも知れないですね。
色はそうだなあ、白の手前だからグレーでしょうか
(笑い)。
『「高校三年生」で世界が変わった』
「高校三年生」 1963年(昭和38)6月発売
初回プレス 40,000 枚・・・当時のデビュー曲発売枚数の相場は5000枚
発売 1ヶ月 11万枚 

発売 3ヶ月 41万枚
発売 6ヶ月 100万枚 ミリオンセラー
「修学旅行」 1963年(昭和38)8月発売
1963.12 50万枚突破

「学園広場」 1963年(昭和38)10月発売
わずか半年の間にシングル5枚、アルバム1枚を発売。
デビュー2年目には、シングル15枚、アルバム2枚を発売。
今じゃ考えられない数字。 そしてどういうことが起きたかというと、 

自分でも驚いたンですが、プレス工場
の機械を独占しちゃったンです。 ほか
の歌い手さんの生産はストップ。
そうしないと全国のレコード店からの注
文に対応できなくなっていたそうです。

デビュー1ヶ月目、東北での仕事を終えて上野駅に着いたとき、
日本コロムビアのスタッフ4,5人が待っていて車に乗せられ、
歌詞と譜面を見せられた。 すぐにレコーディングしないと間に
合わないと、スタジオに入り吹き込み。
歌い手が新曲を見る前に発売日が決まっているなど今では考えられないでしょう。 もう笑
い話ですけどね。







平均睡眠時間は2時間半ほど。 食事は7割が移動の車中。 お母さんに握ってもらった
おにぎりやお弁当。 ご飯の真ん中に梅干1個、かまぼこ、キンピラゴボウなど。
テレビ出演のオファーが次々舞い込む。
早朝から2,3本の番組収録~午前中1回の公演終了後、再び数本の収録~その後2回
目の公演というスケジュール。 1日12本の収録をした日もあり。







デビュー3ヶ月後の9月、「高校三年生」の映画化決定。
姿 三千子さん、高田 美和さん、倉石 功さんら、舟木さんを含め10代の新スターが顔を
そろえた大映の青春路線第1弾。
9月上旬撮影開始、11月全国公開という異例の展開。

それ以上に驚くべきことは、脚本やロケハンを考えたら7月上旬には製作会議をやって
いなければ間に合わなかったはず。デビュー1ヶ月でもう映画出演が決まっていたのです。
こうしてボクを取り巻く環境は一気に変わっていきました。 売れなくてはいけない。 そんな
強い思いで飛び込んだ世界で、ボクは無我夢中に走るしかありませんでした。

遠藤実先生が提案して下さった「舟木和夫」を、横倒しになりそうな名前だからとつっかえ棒
を入れてもらって「舟木一夫」に・・・
痩せて鶴首だったから、詰襟がよく似合った・・・
「売れなくてはいけない」と強い思いで飛び込んだ世界・・・・
まさに、それは ”彗星の如くのデビュー” だった。
もし舟木さんが、詰襟の似合わない「舟木和夫」だったとしたら、、、、
はにかんだ表情の下にうかがい知れない強い気持を宿していた若者には、偶然さえも味方
した必然のデビューであったとしか言いようがない。必然のデビューに出会った自分の偶然
を、これも必然と、やっぱり高らかに喜びの杯を掲げよう!!
