2007.10.8 (日)~10.10(火)

10月8日(日) 【8回目】
『運命の曲調変更「高校三年生」』
10月9日(火) 【9回目】
『初球勝負がつかんだ奇跡』
10月10日(水) 【番外編】
『五輪の記憶 長野のフナキ』

『運命の曲調変更「高校三年生」』
1963(昭和38)年1月、デビューに向けた動きが本格化する。
担当ディレクターは栗山章さん。 新人ディレクターとしては勝負どころ、「上田成幸」という
素材に懸けていたんだと思う。 ある日、候補の詞10編を見せられ、まず選んだのは「水色
の人」。 残り9編から悩んで選んだのが 「高校三年生」。
ボクは元々ブルースが歌いたかったので、 全く振り向きもしないようなジャンルでしたが、
歌詞も行間も何もかも、まとまっていると感じました。 いずれも丘 灯至夫先生の作品でし
た。

松蔭学園の「高校三年生」歌碑
丘先生が世田谷区の松蔭学園高校文化祭を取材されたことで生れた「高校三年生」。
2000(平成12)年、歌碑が学園内に建立された。
丘先生は、日本コロムビア専属の作詞家であり、東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者でも
あった。「高校三年生」の詞は、ある高校の文化祭を取材したとき、男女がフォークダンスを
踊る姿に衝撃を受けたことから生れた。実は「高校三年生」は、7年前に岡本敦郎さんが歌
う予定の別の詞があったが、岡本さんには合わないということで、お蔵入りになっていた。
もしもこの時、世に出ていれば、ボクの「高校三年生」はありませんでした。
もう一つの 「高校三年生」
日付 : 昭和30年5月11日
筆名 : 「灯至夫」に改名する以前の「十四夫」
作曲者: まだ決めてなかったとみえて、記入なし

紺の制服 ギャザアのひだに
若く明るい 陽がのぼる
ああ 高校三年生
鐘も鳴ります カレッジの
鐘はふくらむ 胸に鳴る
リラの咲く朝 ラケット握り
星の降る夜に 涙ぐむ
ああ 高校三年生
鐘も鳴ります カレッジの
鐘は乙女に 揺れて鳴る
残り少ない 校舎の窓に
友の倖せ 祈る歌
ああ 高校三年生
鐘も鳴ります カレッジの
鐘は未来の 夢に鳴る
ポプラ並木を 肩よせあるく
黒い瞳よ いつまでも
ああ 高校三年生
鐘も鳴ります カレッジの
鐘はあこがれ 秘めて鳴る
丘灯至夫著 「『スズメのお宿』歳時記』 ~丘灯至夫92年の足跡~」 (P54~55より)
「高校三年生」は作曲の遠藤実先生にとっても衝撃的であり、舟木さんより先に栗山ディレク
ターから10編の詞を見せられた先生は、迷わずデビュー曲に選んだということである。 もう
1篇は「水色の人」。
順番こそ違うものの、ボクが後日選んだものと遠藤先生の選択は同じでした。

貧しくて中学にも進めずに悔しかったという遠藤先生。その
思いが込められ 「高校三年生」 は最初、美しい風景が浮か
ぶようなメジャーのワルツだった。 しかし、翌年は東京五輪
、、、もっと明るく元気な曲にしたほうがいい。 ということで
急きょあのメロディに。
ワルツのままだったら、舟木一夫はどうなっていたのか。
人生というのは面白いですよね。
それでも、 レコーディングの日に初めてアレンじを聴いて戸
惑いました。 「 カレッジソングの詞に、なぜこういうメロディが
ついているのか」。これが最初に思った正直な気持ちです。
でもボクは何でもよかった。 どんな歌を歌わせられようが売れ
ればいい。 その思いだけでした。
『初球勝負がつかんだ奇跡』
1963年(昭和38)2月3日、デビュー曲「高校三年生」録音の日。
内幸町・日本コロムビアのスタジオ。
いわゆる”同録”(オーケストラの演奏とコーラス、歌唱を同時に録音するやり方)で、
本番2回目でOK。
まさに一発勝負ですから、同録を経験した歌い手はライブに強い。 だからボクは今でも皆
さんの前でなンとか歌えているンだと思います。

カレッジソングの詞に、あの軽快なイントロ。 ある意味ミス・マッチ。 でも、、不思議なもので
リハーサルで歌った瞬間、~~インパクト×10ぐらいの感じで、~~「この歌は売れる!」と
思いました。 レコーディングの帰り道、ホリプロダクションの堀 威夫社長(当時)も鼻息荒く言
いましたからね。「この歌、ヒットする気がするぞ」 と。
4ケ月後の6月5日に発売。
年末には100万枚突破。
今振り返ってみても、なぜあれほど支持されたのか分からない。
あえて言えるとすれば、作品と歌い手がトータルで新鮮だったこと。

当時の流行歌を聴いている人たちには
経験のない世界だったし、カレッジソン
グを耳にしたことはあっても、、それは
「鈴懸の径」 の世界だったわけだから。
デビューした時期は、高校進学率は70
%近くに上がり、 高校生活がより身近
なものになっていました。 また当時、
先輩方の歌っていた大人度の高いラブ
ソングからの世代交代の時期だったの
かも知れません。
”遠藤学校”の若い歌い手たち→
橋 幸夫さん、松島 アキラさん、守屋 浩さん、、、、ボク個人の歌い手の器量技量というより、
(「涙の川を渉るとき」P157)
時代の流れが来ていたのでしょう。
とはいえ、当時そんなことは分からず、どんな 人たちのほうを向いて歌おうなどと考えたこと
もありません。
とりあえずプロとしてデビュー曲をもらった。
あとは必死で歌い、売れなくてはいけない。
野球に例えるなら、 バッターボックスに立っ
たら1球目をひっぱたくしかなかった。
ストライクだ、ボールだなんていっていられ
ない。 ただ、その思いだけでマイクを握って
いたんです。
『五輪の記憶 長野のフナキ』
1964年(昭和39)・・・日本中に「高校三年生」が流れ、舟木フィーバーが起きていた。 アジアで初めての東京オリンピック。
しかし、舟木さんは全然見ていない。 デビュー2年目で目の回るような忙しさ。寝るヒマ
さえない。 翌朝のスポニチを開いて、ワクワクしながら日本選手の頑張りを読んだ。
東京オリンピックで鮮明に思い出すのは、競技自体よりも町の風景。

上京後住んでいた新宿区四谷のアパート 「 青葉荘 」
から近くの3階建てマンションに移っていて。 3階の
自分の部屋から千駄ヶ谷駅近くの国立競技場が、~~
ずいぶん近くに見えました。 窓を開けて「ああ、オリン
ピックだ」 なンて思いながら見ていました。
そんな風景の中で、 みんながひたむきに生きていま
したね。 四谷若葉町の人たちがスターへの道を支
えてくれたことは今でも忘れません。

↑ デビュー1周年の御礼は”梅の
新人賞受賞のとき、巨人軍の私設応援団長・関矢 湯”で ↓
さんが駆けつけて下さった。


銭湯「梅の湯」で出会った
仲間の縁で野球に誘われ
たこと・・・デビュー後には
自分のチームを持って野
球と関わったし、高校時代
は水泳部で・・・スポーツを
通じて得た経験は僕の人
生観にも通じている。


(国立競技場)
3年後には2度目の東京オリンピック。 ボクはそのとき75歳。
現役の歌い手として迎えられそうなのは嬉しい限り。


ボクにとっては、98年の長野五輪がちょっと特別。ジャンプ団体で金メダルを決めた船木和喜選手の
飛躍には日本中が感動。
当時、周囲からよく冷やかされてね。顔が少し似ていたこともあって「息子が頑張っている
じゃないかって」。 おいおい、同じフネでもあちらは大きい「船」でしょって言ったもンです
(笑い)。
それにしても、あれがチームプレーの良さですよね。

悪天候の中で結果を残せなかった原田雅彦選手の分を
全員で取り返し、最後は船木選手が見事に締めくくった。
仲間がミスしたら、じゃあオレがと。 失敗や成功なんて、
いつ逆になるか分からないンですから。
想像しがたい重圧の中で飛ぶ姿に「フナキーッ!」。
あんな大声で自分の名前を叫んだのは初めてだったかも
ね(笑い)。
どんな歌を歌わせられようが売れればいい。 その思いだけ、、、。
バッターボックスに立ったら1球目をひっぱたくしかなかった。 ストライクだ、ボールだ
なんていっていられない。 ただ、その思いだけでマイクを握っていた・・・。
舟木さんは、 「 若者の思い込みは、ひたむきで激しかったのだ 」 と書いておられるが
(『怪傑!! 高校三年生』P40)、プロ歌手を目指して17歳で上京した成幸少年の固い決
意と、弟の将来や家族の生活までを自分が背負おうとしている強い意志に驚かされる。
強さだけでなく、家族を思う暖かさも責任感もけなげさも全部ひっくるめて、今、この連載
を読むファンの心は、ひたむきな成幸少年に限りなく寄り添っているのではないだろうか。
新橋演舞場12月公演の開幕までに、ご無理は承知ながら ” もっと静養して頂きたい”
との思いも込めて。