2015東京 春から夏へ
~ ブリヂストン美術館 ~
ベスト・オブ・ザ・ベスト
5月10日(日)
パブロ・ピカソ 1923年 京橋・ブリヂストン美術館
《腕を組んですわるサルタンバンク》
東京駅近くのブリヂストン美術館が、
ビル新築工事のため 休館すること
になった。
ブリヂストン美術館に 『海の幸 』 が
来ている ! 残すは5月17日(日)まで
あと1週間 !!
今を逃すと、天才青木繁のこの名画
は、ブリヂストン発祥の地・久留米市
の「石橋美術館」に、帰ってしまう。
浜に溢れる大漁の歓び!
原始人のような人々の、生へのむき
出しのエネルギーが、画布を突き抜
け画の外に溢れ返っている、力強い
タッチのあの画。
ポール・セザンヌ 1904~06年頃
《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》
やはり、本物の 『海の幸』 をこの目で確かめなければと、神田祭の帰り
道、急いで寄ってみた。
近代洋画の充実したコレクションを誇る石橋財団美術館(福岡県久留米市・
石橋美術館&東京・京橋のブリヂストン美術館)であるが、今回の 「ブリヂストン
美術館ベスト・オブ・ベスト」 のマイベストは 「青木繁・海の幸」。
(展示期間3/31~5/17)
照明を落とした展示室の中で、思ったより暗いトーンの 『海の幸』 に
出会った。
重要文化財 青木 繁 『 海の幸 』 1904(明治37)年
油彩カンヴァス 70.2×182.0㎝
こんな感じかと思っていたが、100年以上の歳月を経た名画の歴史を思うべきであった。
青木 繁(1882~1911)
明治15年、福岡県久留米市の旧有馬藩士の長男として生まれ、1900(明治33)年、
東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科選科に入学し、黒田清輝から指導を受ける。
「海の幸」は、1904(明治37)年、東京美術学校を卒業した夏、千葉県・房総半島布良(めら)
海岸に一ヶ月あまり滞在したときに描かれたもの。 この短い絶頂期の後は画業にも私
生活にも恵まれず、放浪のうちに28歳の短い生涯を終えた。
幼少期、父から長男として厳しい学問の訓練を受けた青木繁は、中学までは学業成績
はきわめて優秀、早熟な文学少年でもあった。「古事記」を愛読していた繁の作品には、
古代神話をモチーフにしたものが多い。
(参考:Wikipedia)
美術学校を卒業した22歳の青木繁が、同郷の竹馬の友、かつ終生の親友でありライバ
ルであった坂本繁二郎、恋人の福田たねらとともに、房総半島布良海岸で過ごしたひと
夏。 明治期洋画の記念碑的作品「海の幸」は、この時生まれた。
坂本繁二郎が、前日見てきた浜での大漁のあまりに感動的な光景を、興奮冷めやらぬ
まま繁に話して聞かせた。 繁二郎がすぐに筆を取らなかったため、彼の許可を得て繁
が想像のままに、一週間あまりで描いてしまった。 大漁に沸く浜の漁師たち・・・繁が実
際に目にした光景ではないにも拘らず、獲物を背負い、担ぎ、モリを肩にして夕陽を浴び、
さながら凱旋行進のように二列縦隊で進む漁師たち。
その中にただ一人、画に向き合っている鑑賞者に強い視線を投げ
かけている人物がいる。 この人物のモデルは、恋人の福田たね
だということである。 ↓
「海の幸」の前に立つと、天才的な感性と想像力、描写力を駆使して、青木繁が古代
神話や伝説の中に生へのエネルギーを溢れさせたのだろう、と次第にわかってくる。
漁師たちを描くにあたっては、神輿を担ぐ姿勢を参考にしたとも言われている。
神様へ五穀豊穣・大漁・安全祈願をして神輿を奉納し、祭りを催す、、、古代から現代
まで願い事は同じ、人の営みは変わらず、、である。
まだ下書きの線の跡も残るような、油絵としては未完成ともいえる薄い仕上がりなのに、
この力強さと溢れる生へのエネルギー。
大魚を背負い、しなる漁師の身体、裸の男たち、 見る者を射すくめるように向けられる
恋人の強い視線を描いたのは何故? 力強くて生へのエネルギーに溢れているようで、
それでいてミステリアス、、向かってくるエネルギーに圧倒されそうになるものの、やはり
その秘密を解明したくて、覗き込みたくなるように惹き付けられる画である。
重要文化財 『わだつみのいろこの宮』 1907(明治40)年
油彩カンヴァス 180.04×68.3㎝
「古事記」上巻、海幸彦・山幸彦の物語の一場面、綿津見の宮の
物語をモチーフにした作品。
兄の海幸彦から借りた釣り針をなくした山幸彦。 同じものを返せと
どうしても兄が許してくれないので、 釣り針を探して海底へ下りて
いった弟の山幸彦。 蒼い光に満ちた海の底で、銀鱗のように立ち
並ぶ壮麗な宮殿。 清く涼しげな水の湧く泉に水汲みに来た侍女(右)
が、若く美しい山幸彦に気づき、山幸彦が海神の娘・豊玉姫(左)と
出会うシーン。
この画が海底の設定であるから、まるで海の
混沌のあぶくから女神が誕生するギリシャ神
話 《ヴィーナス誕生》 のようでもあり、壮麗な
宮殿で3年を過ごす山幸彦と豊玉姫は、竜宮
城の物語のようでもある。
ボッチチェリ《ヴィーナス誕生》
(女神ヴィーナスは、西風に吹き
寄せられて浜に着くのだが、、、)
美しい男性の神と、ゆらめく海底で薄衣をまとった優美な二人の女性。 絡み合うよう
な視線の、山幸彦と豊玉姫。
「古事記」の神話が、こんなにもロマンの薫り高く、まるで生命誕生のファンタジーの
ように描けるものであったなら、日本神話の読み取り方、国生みの物語も随分と違っ
たものになっていたことだろう。 日本書紀、古事記は、古代のロマン、ファンタジー
として読めばよかったのに、、と戦後生まれの団塊の世代は、今、思う。
明治の少年時代、「古事記」の神話の世界に自由に遊び、読み耽っていた青木繁は、
想像を膨らませていたこのようなシーンを表現する画術を、英国の画家などから天才
ならではの短時間のうちに習得していったのだろう。
日本神話をモチーフとした作品を、ロマン豊かに油絵で描く・・・
青木繁の「遠きものへの憧れ」・・・
『海の幸』 で絶賛された青木繁も、しかし『わだつみのいろこの宮』では、中央画壇に
評価されなかった。1907年、中央画壇における飛躍を期して『わだつみのいろこの宮』
を東京勧業博覧会に出品するも、結果は三等賞の最末席。 彼にとっては惨憺たる結
果であった。 失意のまま、郷里の父危篤の報で帰郷したあと、もはや画家としてのピ
ークは過ぎていたのか、中央画壇へ復帰することなく放浪の末、福岡の病院で28歳8
ヶ月の生涯を閉じた。
若くして日本美術史上に残る名作を書き上げた夭折の天才・青木繁。 破滅型天才の
波乱の生涯、伝説に満ちたエピソード・・・没後、同郷の親友・坂本繁二郎が遺作展の
開催や、画集の刊行に奔走した。 青木繁が、愛する日本神話から幸彦と名づけた、
福田たねとの子(石渡幸彦)は、ラジオ草創期に尺八演奏家、作曲家として才能を開花
させた福田蘭堂氏、 孫はクレイジーキャッツメンバーだった石橋エータロー氏。
ブリヂストン美術館と青木繁
ブリヂストン美術館は、かつて図画教師であった坂本繁二郎が、教え子の郷土の実業
家、ブリッヂストン株式会社創設者の石橋正二郎氏と再会したことから始まる。
青木繁の作品が散逸するを惜しんだ坂本は、正二郎に青木の作品を集めて美術館を
作って欲しいと語った。 感銘を受けた正二郎は、 青木を中心として日本近代洋画の
収集を始め、 およそ10年間で 《海の幸》 など、 青木の代表作を購入、 コレクションを
形成していった。 (参考: ベスト・オブ・ザ・ベストパンフレット)
その他、青木繁作品で展示
されていたのは、
「海景(布良の海)」
1904年
油彩・カンヴァス
展示期間
3/31~5/17
残念ながら展示期間
終了だったのは、
「天平時代」
1904年
油彩・カンヴァス
展示期間
1/31~3/29
休館前に、選りすぐりの収集作品を展示している、「ブリヂストン美術館ベスト・オブ・ザ・ベスト」。
展示作品のうち、「海の幸」「わだつみのいろこの宮」はチケットホルダーにもなりそうな
クリアファイルで、4点を記念の絵葉書として購入した。 (他にもお気に入りはあったが、
展覧会閉幕間際であったため、売り切れの作品が数々あった。)
《オーケストラ》 ウラル・デュフィ 1942年
こんなにステージ上の団員を軽やかに大勢描い
ているオーケストラの画は無いと思って、、。
”どうよ、どうよ、” と自慢しまくりで見せたら、
《薔薇》 安井 曾太郎 1932年 絵画教室に通っている友人が、”あ、デュフィの
もちろん、舟木さんのカバー曲 作品だ” と手放さず、持っていってしまった!
「五月のバラ」にちなんで、、。 よって今手元にナシ、 グスン!!
《ピアノを弾く若い男》
ギュスターヴ・カイユポット
1876年
<もう一人の印象派>画家として、
ブリヂストン美術館が2011年に
購入したカイユポットの作品。
映画「戦場のピアニスト」の感動
的なシーンを連想して、、。
《黄昏、ヴェネツィア》
クロード・モネ 1908年ごろ
たそがれは 夕風は
あおざめた こころの挽歌
たそがれが 好きだったから
たそがれの 美しい日に
逢える気がする あの人
ヴェネツィアの黄昏は~~~
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
江戸っ子の気風と威勢の良さを今に伝える神田祭には「おみこし野郎」と平次親分。
エネルギーとロマン溢れる22歳の青木繁の名画を訪ねた後は、地綱を引く若い衆の
歌を。 地引きの網においらの夢を手繰り寄せれば、恋ももうじきやってくる、磯浜育
ちはまだ二十歳。
浜の若い衆
NHK「きょうのうた」 昭和40年8月
作詞:安部 幸子
作曲:山路 進一
網を一打ちゃ 朝やけ磯に
大漁願いの はたが出る
親の代から地網を引こと
おいらにゃおいらの夢がある
浜の浜の若い衆 眼が光るよ
束ね髪したあの子がくれた
涙色した 貝のくし
何であの時 好きだといって
都に行くのを 止めなんだ
浜の浜の若い衆 気にかかるよ
あすの日和の 潮鳴りきけば
村は夕げの 灯をともす
引いた地網に あしたの恋も
つないで涙は すてていこ
浜の浜の若い衆 まだ二十才よ
磯浜そだち
昭和40年8月
作詞:安部 幸子
作曲:山路 進一
沖に白々 朝ひが昇る
地引き網引く 瀬に昇る
昇るよ
地引網引く 影なら一つ
好きよと云えずに 別れりゃ一つ
一つよ
束ね髪した 素足が冷えた
はなれ住んでは 心も冷えた
冷えたよ
潮が光るよ 心も光る
夢をたぐった 地網に光る
光るよ
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
ブリヂストン美術館1F玄関の大理石彫刻 「勝利の女神」
(これのみ撮影OK)
・・・きりりと引き締まった美しい表情は、いざ勝利の花の冠を投げよう
としているところか。
願わくは、舟旅のゴールには彼女が穏やかな微笑みを浮かべながら、
花の冠はキャプテンへ向けて力強く投げ上げ、乗客には静かに全員
の健闘を称えてくれますように、、。