
あらすじ
夕方の、なんということもない一室から物語は始まります。
夫が電話を受け、ひとこと返事をして受話器を置く。妻が声をかけても、夫は答えません。
そのまま逃げるようにして部屋を出ていってしまいます。
そのとき妻の胸をよぎったものは、言葉でも身振りでもありませんでした。
眼です。
何年も見慣れてきたはずの夫の眼の奥に、見おぼえのない何かがひそんでいる。説明のしようがありません。
説明のしようがないから、妻は怖いのです。湯呑みの水面がわずかに揺れる、その程度の違和ひとつを起点にして、物語はしずかに動きはじめます。
やがて場面は、男たちの長い対話へと移ります。
語るのは宇宙研究所につながる科学者、聞くのはその旧い友人です。
科学者の口から出てきたのは、途方もない話でした。
地球への侵略はすでに始まっている。ただし、円盤の艦隊が空を覆うのでもなければ、光線が街を焼くのでもない。
Σ(シグマ)星人と呼ばれるものたちは、人間と見分けのつかない姿と体をこしらえ、社会の内側へそっと入り込んでいるというのです。
似せてあるのは表面だけではありません。
生理も、体をかたちづくる化学の組成までも、地球人に合わせてあります。
ですから、どのような検査にもかかりません。
かつて彼らは火星に手を伸ばして失敗しました。
地球にしたところで、大気も、酸素も、金属を錆びさせるこの環境も、彼らには決して住みよい場所ではないのです。
それでもこの星が選ばれました。
石油や鉱物質を糧とし、電気を通わせ、機械の構造を内に抱えた体で、人の顔をして暮らしている。
説明が積み重なるほどに、聞き手の足もとは崩れていきます。
見分けがつかないのなら、隣にいる者は誰なのか。
会社の課長も、役場の職員も、電車で新聞を広げている男も、みなそうではないのか。
追いつめられた男は、DDTの瓶とガスマスクと石灰を抱えこみ、自分の手ですでに一人を始末してきたのだと叫びます。
その叫びが正気なのか妄執なのか、読んでいるこちらにも判じかねます。
そうして最後の数行が来ます。
ある体の内側から、歯車の噛み合うようなかすかな音が響きます。
境の扉が開きます。
その向こうから、男がじっとこちらを見つめている。
物語は、そこでふつりと途切れます。
あとには何も書かれていません。
書かれなかった空白のほうが、書かれた頁よりも重く残ります。
作者の経歴
今日泊亜蘭(きょうどまり・あらん)は、1910年7月28日、東京市下谷区上根岸に生まれました。
本名を水島行衛(みずしま・ゆきえ)といいます。
父は画家であり挿絵画家でもあった水島爾保(みずしま・におう)で、その家には武林無想庵や辻潤、長谷川如是閑といった人々が出入りしていました。
世間の物差しをそのまま信じようとしない大人たちの声を聞きながら、少年は育ったわけです。
のちに今日泊亜蘭自身が、この人たちに大きな影響を受けたと語っています。
彼は尋常でなく早熟な子どもでした。
府立第五中学校(のちの都立小石川高等学校)の頃には英語、ドイツ語、フランス語に加え、独学でラテン語、ロシア語、ギリシャ語まで学んでいます。
それでも足りず、ヘレス語という架空の言語をひとりで作り上げてしまいました。
誰も話さない言葉を、誰に頼まれたわけでもなく作る少年。
この人の資質は、すでにそこに出そろっていたように思われます。
長じては30か国語以上を操る在野の言語学者として知られました。
「完璧な侵略」の紙面に、意味を拒むアルファベットの群れが置かれているのは、偶然ではありません。
学校という制度とは、終始そりが合わなかったようです。
府立五中を中退し、上智大学付属の外国語学校も途中で去りました。
学ぶ気に乏しかったからではありません。
むしろ逆で、教室の枠のほうが、この人の渇きに追いつかなかったのです。
ドイツで語学を学びたいと願いながら旅券が下りず、ハルビンから満鉄とシベリア鉄道を乗り継いで密航を企て、失敗して送還されています。
手もとに卒業証書は残りませんでした。
残ったのは言葉のほうです。
帰国後はアテネ・フランセでラテン語とギリシャ語を学び、同じ教室にいた日影丈吉と親しくなりましたが、校主と衝突して退学しました。
高等遊民と呼ばれるような日々を送ったのち、通訳などの職に就いています。
若い頃はルパシカに片眼鏡という西洋趣味でしたが、泉鏡花に傾倒してからは和服を通したといいます。
少年の日から一貫してアナキストを名のり、それでいてテロリズムは終生否定しました。
すなわち、彼は文士の矜持を持った非暴力のアナキストだったのです。
小説家としての出発は遅く、1953年、佐藤春夫の推薦で「文芸日本」に「桜田門」を発表したのが最初です。
同誌に載せた「河太郎帰化」は1958年上半期の直木賞候補に推されました。
1957年には日本最初のSF同人誌「宇宙塵」に客員として設立から加わり、渡辺啓助や矢野徹らとおめがクラブを興しています。
柴野拓美の家が近かったせいか、同人たちはよく今日泊の家に集まりました。
星新一が英語を習いに毎週通っていた時期もあるといいます。
野田昌宏は、和服姿で床柱を背負い、煙草をふかしながら海外SFを語るその姿を、江戸の講釈師のようだったと回想しました。
私はこの証言に、「完璧な侵略」という作品の秘密がひとつ隠れているように思います。
1962年に長編『光の塔』を刊行し、これが戦後日本SFの古典となりました。
「SFマガジン」の初代編集長福島正実とは折り合いが悪く、長いあいだ同誌に書けませんでした。
それでも筆は衰えず、77歳から3年をかけて『我が月は緑』を連載しています。
そして、2008年5月12日、97歳で世を去りました。
ほとんど一世紀を、この人はひとりの歩幅で歩き通したことになります。
「完璧な侵略」は、1974年に早川書房から出た第一短編集『最終戦争』の巻頭に据えられた一編です。
世に出たのはそれよりずっと前、空飛ぶ円盤の話題が新聞や雑誌をにぎわせていた時代でした。
本論
音のしない敗北
この短編の急所は、題名そのものに置かれています。侵略が完璧であるとは、いったいどういうことなのか。
ふつうの侵略小説であれば、艦隊が来て、都市が焼かれ、人類が立ち上がります。
ウェルズ以来、私たちはその型を繰り返し読んできました。
ところがΣ星人は、社会を壊しません。
壊す代わりに、社会の内側へ溶けこみ、そこで人間の役をつとめます。
開戦の合図もなく、前線もなく、戦況を伝える号外も出ません。
作者がここで問うているのは、抵抗という行為が成り立つための、いちばん手前の条件です。抵抗するには、まず敵を敵として認めなければなりません。
認めることのできない相手に、人はどう身構えればよいのでしょう。
答えは、どこにも用意されていません。だからこの侵略は完璧なのです。
負けた側が、自分が負けたことを知らないまま日々を送っている。そこにいたって、Σ星人の方法は仕上がっています。
短編集の巻頭にこの一編を置き、表題には「最終戦争」を掲げた配置には、しずかな皮肉が漂います。
最終戦争という言葉がまとう轟音の、そのいくらか手前に、音のしない敗北がすでに置かれているからです。
講釈師の饒舌
この作品の大半は、説明の台詞で占められています。
科学者が語り、聞き手が問い返し、また科学者が語る。
大気の組成、金属を錆びさせる酸素、火星での失敗、石油と鉱物質による代謝、電気を通わせた体の仕組み。
今日の目で読めば、疑似科学まがいの思弁も混じっています。
人物が設定を運ぶ器になっている、という批判も成り立つでしょう。
けれども私は、この饒舌を欠点として片づける気になれません。
ひとつには、これが芸としての饒舌だからです。
先に触れた野田昌宏の回想のとおり、今日泊亜蘭は語りの人でした。
ここに書かれているのは論文ではなく、講釈です。
聞き手を退屈させぬために、話者はつぎつぎと新しい事実を繰り出し、そのたびに相手の常識を一枚ずつ剥がしていきます。
読んでいるうちに、私たちもいつのまにか同じ座敷に座らされている。
座らされたことに気づいたときには、もう腰が上がりません。
いまひとつには、この分厚い説明が、最後の数行を支える土台になっているからです。
長い説明のあいだ、読者は聞き手と同じ場所に立たされます。
科学者の発見なのか、憑かれた男の妄想なのか、どちらとも決めかねる。
その宙吊りが、頁を繰るごとに重くなっていきます。
そこへ、歯車の音が来る。
判断は、一瞬にして要らなくなります。
饒舌の厚みがなければ、この転回はこれほど深くは刺さりません。
眼と、音と
作品が問うているのは、突きつめれば、人間とは何かということです。
姿かたちも、体の構造も、化学の組成までも同じであるなら、私たちは何を頼りに人間を人間と呼ぶのでしょう。
Σ星人は、人間を殺して席を奪うのではありません。人間の輪郭そのものを借りて、そこに住みつきます。
美しいのは、作者が最後になって科学の言葉を手放すところです。
あれほど精密な生理学的説明を尽くしておきながら、決定的な瞬間に差し出されるのは、たったふたつの感覚にすぎません。
妻が夫のなかに見た眼と、体の内側から漏れた歯車の音です。
眼と、音。
どちらも、いかなる検査にも引っかからない、証明のしようのない徴候です。
作者はここで、私たちが目の前の相手を人間だと信じている根拠が、じつはこれほど頼りない感覚の上に乗っているにすぎないことを、そっと示してみせました。
理屈でその根拠を確かめようとした男は、確かめきれずに壊れていきます。
何ひとつ分析しなかった妻だけが、いちばん先にそれを感じ取っていた。
この配置には、SF作家というより、文学者としての勘がはたらいています。
正しさが狂気と見分けられなくなるとき
作中の科学者は、科学の手続きによって侵略を発見しました。
ところが相手は、その手続きの基準そのものを模倣しています。
検査に引っかからぬように作られた体を、検査で見破ることはできません。
証明の道具のほうが、先回りして無効にされているのです。
ここから、この作品でいちばん苦い場面が生まれます。
真実を掴んだのかもしれない男が、証拠を示せないというだけの理由で、妄想に憑かれた者として扱われる。
そして彼自身も疑いに耐えられなくなり、DDTの瓶と石灰を抱えて、隣人を手にかけに出ていきます。
読者は立ちすくみます。
彼は正しいのかもしれません。
かりに正しかったとしても、その正しさは狂気と見分けがつかないのです。
カサンドラの悲劇に似ていますが、今日泊はそこにもう一段の残酷さを加えました。
カサンドラは信じてもらえずに終わりました。
この男は、信じてもらえないうちに、自分の手で誰かを殺してしまうのです。
侵略者は一発の弾も撃たず、人間の側に人殺しをさせました。
完璧という言葉は、ここにきて底が抜けます。
隣人という不安
Σ星人のやり方は、軍隊よりも諜報のそれに近いものです。
潜り込み、身分を得て、要所に配される。この構図が背筋を冷やすのは、それが虚構の外にも実在した不安だからでしょう。
書かれた時代を思い返さねばなりません。
冷戦のただなかであり、隣の人が誰かの手先ではないかという疑いが、洋の東西を問わず社会の底に沈んでいました。
同じ地層から、海の向こうではジャック・フィニイの『盗まれた街』が生まれています。
日本にはさらに、隣組と非国民という戦中の記憶が重なっていました。
誰が味方で誰が敵か、その線が外から与えられ、しかも一夜のうちに引き直された経験を、当時の読者は身に覚えとして持っていたはずです。
生涯アナキストを名のり、群れることを好まなかった作者にとって、社会とはもともとそういう場所だったのかもしれません。
人々が同じ顔をして同じ言葉を口にすること自体が、この人の眼には、どこか不気味なものとして映っていたのではないでしょうか。
そう思って読み返すと、この短編の恐怖は、宇宙から降ってきたというより、はじめから足もとに埋まっていたもののように感じられます。
語らずに終える勇気
結末で何が起きたのか、作者は書きません。
扉が開き、男がこちらを見つめたところで、文章は途切れます。
殺されるのか、連れ去られるのか、体を調べられるのか、それとも入れ替わられるのか。
どれとも読めます。
短編の閉じ方として、これは見事というほかありません。
もし作者が結末を説明していたら、恐怖は物語の内側で片づき、頁を閉じた瞬間に消えていたでしょう。
説明しないことによって、恐怖は本の外へ出ていきます。
読み終えた者は、作中の誰が人間だったのかを確かめる術を持たぬまま、その不安を抱えて自分の日常へ帰されるのです。
読めない文字の美しさ
最後に、文章そのものに触れておきます。
今日泊亜蘭の文は硬質で、会話の切れがよく、古風な語彙と俗な口ぶりが同じ行に同居しています。
久生十蘭を思わせるという評もありますが、私にはむしろ、江戸の話芸が近代の科学用語を面白がって噛みくだいているように読めます。
字面の趣向も見のがせません。
Σという記号が地の文に立ち、意味を拒むアルファベットの群れが並びます。
読者はそれを読むことができません。
読めないという事実そのものが、異質さを目に伝えます。30か国語を操り、架空の言語まで作り上げた人が、あえて解読の叶わぬ文字列を紙の上に据えたのです。
ここには、言葉という道具の限界を知り尽くした者だけが遊べる余白があります。
結び
「完璧な侵略」は、空飛ぶ円盤が話題をさらった時代の、娯楽として書かれた一編です。派手な事件は起こりません。世界は最後まで、いつもどおりに回っています。
それでも、この短編は古びていません。むしろ今のほうが、深く胸に届くのではないでしょうか。本物と区別のつかない偽物が作られ、人の声も顔も再現され、目の前の相手がほんとうに人間であるかを確かめる手立てが、日ごとに細くなっていく時代です。作者が半世紀以上も前に置いたあの歯車の音は、いま、別の響き方をして私たちの耳に届きます。
読み終えたあと、疑いは作中の誰かにとどまりません。
矛先はやがて、こちら側へも向いてきます。それでもなお、この短編を読み返したくなるのはなぜでしょう。
おそらく、人が人を人と信じるとき、そこにあるのは証明ではなく、まなざしと沈黙だけなのだと、この作品が教えてくれるからです。
見分けられない敵を描きながら、今日泊亜蘭は、見分けようとする心のほうを静かに照らしてみせました。
夜、隣の部屋から物音が聞こえたとき。ふと、耳を澄ましたくなる。
この短編が残していくのは、その一瞬のためらいです。