
一 まくらとしての笑い
小説は笑いから始まる。
「嘉吉もなか子もあはあはあはと笑ひあつた」――この開幕の笑いは、しかし、どこか空洞のひびきを持っている。
笑いが声に出されるとき、その内側では、まったく別の感情が動いているのだ。語り手はすぐに言い添える。
「嘉吉の心の中には、ゆきなりとは云ひぢよう、ゆきなりの事だと云ひきれないものがあつたし、なか子の心のうちには、これからひとり者になつてゆく淋しさを愉しんでゐるふうな、そんな吻(ほ)つとしたところがあつた」。
声の笑いと、心の複雑さ。
この二層構造が、「朝夕」という短篇の基本的な調べである。
林芙美子は、感情を一本の直線で語らない。
登場人物の言葉と内面はつねにわずかにずれており、そのずれの隙間から、物語の本当の温度がにじみ出る。
神楽坂の裏路地で洋品店を営む嘉吉と、その内縁の妻なか子。
店は傾き、借金だけが積み上がり、別れ話がくり返しくり返し浮かんでは沈む。
筋を要約してしまえばそれだけのことだが、「朝夕」の魅力はストーリーの外側にある。
それは時代の気配であり、生活の手触りであり、男と女がたがいに傷つけ合いながらも体温を離せないでいる、その微妙な力学の描写にある。
二 生活という場所
芙美子の筆は、この小説において、驚くほど細密に「物」を描く。
「つるまひおりたよしせ○マル」という店の符丁の場面を読むと、もうそこに、この洋品店のすべてが立ち上がる気がする。
「つる」は亡き先妻の名、「嘉」は嘉吉の一字――死んだ女房と現在の亭主の名を織りこんだ符丁を、後妻然としてなか子に教え込もうとする嘉吉の鈍感さ、そしてなか子が「あんまりひどい」と怒り出す当然さ。
この一場面の中に、三者の関係がすべて凝縮されている。
店の陳列も、時間の経過を雄弁に語る。
「鳥打帽子や、絹ポプリンのY襯衣なぞは、四年の間そこへ飾りつぱなしで……埃つぽくなつてしまつて色褪せてゐる」。
売れない商品は、売れない時間の結晶である。
やがて「自転車にまで手をつけ、売り払つてしまふと、店のなかはひねもの屋の陳列場みたいに、がらんとしてしまつて、メリヤスの空箱ばかりが、整然と並べられ」る。
空の箱だけが整然と並ぶ――この逆説的な光景は、零落の美学とでも呼ぶしかない視覚的な完成を持っている。
外見だけが整い、中身はとうに空になっている。
それは店だけでなく、嘉吉の意地、二人の関係、そして昭和初期という時代そのものの隠喩でもあるだろう。
相場に手を出し、競馬に凝り、高利の金融会社を「眼を皿のやうにして」探す嘉吉の姿は、時代の色を帯びている。
「百貨店がによきによき出来たり」「少しばかりたつぷりした資本でもつて、マアケツトみたいなものをやられたンぢや」誰も来ない、と嘉吉は言う。
個人商店が大資本に押しつぶされてゆく、その波の中に、この二人はいる。
三 なか子という人
この小説の真の主役はなか子ではないかと思う。
嘉吉が「気の小さい男のくせに、意地つ張り」であるのに対し、なか子の造型はずっと複雑だ。
酒を好み、日なかは陽だまりで講談本を広げ、台所仕事だけは手が綺麗で、商売にはまるで向かない。
「どうせ、娘みたいなもンよ、私はまだ子供を生んでないンですもの」という言い返しの中に、この女の本質がある。
子を産んでいない身体という事実を、彼女は一種の自由の根拠として提示する。
夜、酔って「お化けだお化けだ」と唸る場面は、小説の中でもっとも奇妙で、もっとも忘れがたい箇所だろう。
本当に幽霊が見えているわけでも、良心が咎めているわけでもない。
「只酒を飲んで、『あゝいゝ気持ちだわ』と云ふことが、何となく亭主の前では憚ばかられて、口の先では、『お化けだよウ』と呶鳴り、心のうちでは牛の舌のやうな奴をべろんと出していゝ気持に」なっているのだ。
これは笑える場面であると同時に、深く哀しい場面でもある。
女が「いい気持ち」とただ言えない時代と環境の中で、なか子は「お化け」という道化を演じることで、自分の本音を守っている。
芙美子は、なか子のこうした生きる知恵を、笑いとともに、しかし愛惜をこめて描く。
また、先妻つるの気配が鏡台を通じて漂い続ける描写も見逃せない。
「妙に白いお化けが覗きこんで来るやうで仕方がない」と感じながら、なか子はその鏡台の前に何年も座り続けた。
夜に「お化けだ」と叫ぶ行為と、日中つるの霊を感じる体験が、なか子の中で重なり合う。
先妻の残像を「愛称としての夜の道化」に変換することで、彼女はかろうじてこの家に居続けることができたのかもしれない。
四 零落の道行き
嘉吉がなか子に「温泉にでも行つてみるか」と言う場面は、この小説の転換点だ。
財産も商売も底をついたとき、残るのは旅という空白である。
なか子は「娘のやうに眼を晴々とさせて、『まア』と嬌声をあげた」。
何十度もくり返した別れ話よりも、何もない温泉旅行の提案の方が、この女の体を動かす。
物への執着がないのではなく、むしろこの女には「旅」そのものが、生のなかで本物に触れる経験なのだ。
翌朝、二人は屑屋に家財を売り払う。
「いくらに売れたの?」
「るたよまる、さ」――符丁で答える嘉吉。「弐拾七円八拾銭」。
かつては仕入れ値の符丁だったものが、いまは生活の残骸を売った値段を隠すために使われる。
符丁という道具の使われ方の変化が、そのまま二人の境遇の変化を映している。
細部の機能が逆転するこの仕掛けは、芙美子の構成の確かさを示している。
夜逃げの夜、路地を出るときに嘉吉が振り返る場面は、この短篇の白眉だ。
「黄昏の灯火の下の屋根看板が、嘉吉にはおういと手を差しのべて呼び迎へてゐるやうに見えた」。
男が自分で造り上げたものへの愛着と喪失感が、「おうい」という呼び声の幻聴として結晶する。
なか子が「あゝさばさばした」と言う横で、嘉吉は「鼻の裏が何となく熱い」のだ。
この非対称が、二人の関係のすべてをあらわしている。男はいつも一歩遅れ、女はすでに次へと顔を向けている。
五 暴力の後の静けさ
商人宿の場面は、この小説でもっとも激しく、もっとも静かな場面である。
「あなただつて、私のやうなものより、いゝ奥さま貰つて、赤ちやんでも出来たら幸せぢやないのウ」というなか子の言葉に、嘉吉は「起きあがるなり、なか子の胸倉を突いて引き倒ふした」。
暴力は突然来る。
しかし芙美子はその場面を暗くはしない。
「展いた窓から、広告球アドバルンがくるくる舞つてなか子の眼へ写つて来る」。
殴られた女の目に映るのは、空に浮かぶ広告気球だ。
「平手打ちを食つて、頬が焼けつくやうであつたが、なか子は泣かなかつた。眼をつぶつて森としてゐた」。
泣かない。
この一点が、なか子という人間の核心にある。
打たれて泣かないことは弱さではない。
それは、この女がすでに何かを覚悟していることの表れであり、同時に、嘉吉への無言の了解でもある。
やがて嘉吉は「御免よ!」と言って、なか子の首を抱いて優しく起こす。
「男も、こんなになつたらお終ひさ」という嘉吉の言葉は、自分への嘲りであり、告白でもある。
なか子は横になったまま空の広告気球を眺めながら思う。
「別れたところで、本気になつて殴つてくれる男もみつかりさうではなかつたし、抱き起こしてくれる男もなほさら見つかりさうもない」。
この思考の倒錯の中に、芙美子の目が光っている。
暴力を肯定しているのではない。
ただ、この女にとって「本気で殴る」ことと「抱き起こす」ことは、一つの連続した行為なのだ。
本気であることの証として、本気であるからこそその後に優しくなれるという論理。
これは倒錯であるが、同時に、人間の感情の或る真実でもある。
六 散り積もる埃の中で
結末は、静かな和解ではなく、かといって明確な継続でもない。
なか子は「私、帰へるの止めるわよ!」と言う。
「もう、一緒にゐますよ、わかれるにしても、何とか、お互ひがもつとよくなつてからでないと、まるで、お化けの引力みたいに、ずるずる引づりあつてるみたいぢやないの」。
「お化けの引力」――この言葉の選択に、芙美子の才能がある。
夜毎「お化けだお化けだ」と叫んでいたなか子が、別れられない二人の関係をも「お化けの引力」と名づける。
幽霊とは過去のことであり、過去から自由になれない人間たちのことである。この言葉は、一篇の構造をしずかに環状に閉じる。
小説の最後の光景を引く。
「なか子は、明日は明日のことだと、嘉吉の疲れた肩の上にばらばら埃のやうに散りかゝる雲埃の一つ一つをぢつと眺めてゐた」。
嘉吉は窓の手すりに首を垂れ、なか子から借りた小さな束髪の櫛で「がりがり音をたてゝ頭の地を掻き始める」。
この終わり方の、何という質感だろう。
解決は何もない。
明日の見通しもない。
ただ、男の疲れた肩の上に、埃のような塵が、ばらばらと落ちていく。なか子はそれを一つ一つ眺めている。
この「眺める」という動詞の中に、あきらめと愛情が分かちがたく混ざり合っている。
「朝夕」とは、朝と夕方のことであり、日々のことであり、くり返される時間のことだ。
別れようとしながら別れられず、続けようとしながら続けられず、それでも今夜は同じ窓の縁に並んで腰をかけている。
二人の間にあるのは、成就でも破綻でもなく、ただ、生活という名の長い朝夕である。
芙美子は、この二人を裁かない。
哀れまない。
ただ、確かな眼でその生を見つめ、埃の一粒一粒まで、逃さず書き留める。
その眼差しの精確さと温かさの中に、「朝夕」という作品の、静かで消えない魅力がある。