インターネット上で「パラレルワールド(異世界)から迷い込んだ人物の証拠」として、世界中で長年語り継がれてきた有名な都市伝説があります。それが「タウレド(Taured)事件」です。
1954年の東京・羽田空港に、地球上のどこにも存在しない「タウレド」という国から来たという白人男性が現れ、精巧なパスポートを所持していたものの、警察に監視されていたホテルの密室からこつ然と姿を消した――。
オカルトやミステリーを好む人々にとって、これほど想像力を掻き立てられる話はありません。
しかし、近年になって当時の新聞報道(日本の地方紙や海外の英字新聞)や裁判記録などが発掘・検証された結果、この話は超常現象でもなんでもなく、一人の大胆不敵な「国際詐欺師」が引き起こした現実の事件に、後年になって大量の尾ひれが付けられたものであることが完全に解明されました。
本稿では、オカルト的な都市伝説としてではなく、「事実は小説よりも奇なり」を地で行く現実の犯罪事件としての真相に重きを置き、その全貌を詳細に解説します。
1. 謎の男の正体と事件の正確な発生時期
まず、事件が起きたのは伝説で語られる「1954年」ではありません。
実際の事件は1959年(昭和34年)10月から1960年にかけて発生しました。
ホテルの密室から煙のように消えたとされる男は、現実には警察に逮捕され、裁判にかけられています。当時の日本のメディアによって「ミステリー・マン」と報じられた彼の名前(自称)は、ジョン・アレン・クチャー・ジーグラス(John Allen Kuchar Zegrus)。
年齢は当時36歳とされていました。
彼は異次元のトラベラーなどではなく、韓国人の妻を伴って日本に入国した、極めて生々しい現実の人間でした。
2. 「タウレド」という国の真実と、彼が語った壮大な経歴
ジーグラスが所持していたパスポートに記されていた国名は、厳密には「Taured(タウレド)」ではなく、「Tuared(トゥアレド)」または「Tuarid(トゥアリド)」でした。
彼は日本の入国管理官や警察に対し、この国について次のように説明しました。
「トゥアレドはサハラ砂漠の南に位置する、人口200万人の独立国である。首都はタマンラセットだ」
実際にはアルジェリア南部に「タマンラセット」というオアシス都市が存在し、周辺には「トゥアレグ族(Tuareg)」という遊牧民が暮らしています。
ジーグラスは実在する地名と民族名をもじって、自分自身の脳内に「トゥアレド」という架空の国家を建国し、パスポートを自作していたのです。
さらに、彼の経歴はスパイ映画さながらのスケールででっち上げられていました。
警察の取り調べに対し、彼は「自分はアメリカで生まれ、チェコスロバキアやイギリスを経て、第二次世界大戦中はイギリス空軍のパイロットだった。その後ラテンアメリカで暮らし、韓国でアメリカのスパイとして活動した」と主張。
最終的には「アラブ連合共和国(当時のエジプトとシリアによる国家)のナセル大佐直属の諜報員として、日本で義勇兵を募る極秘任務を帯びて来日した」と語りました。
冷戦下の当時、スパイが暗躍しているという背景を利用した非常に手の込んだ設定でしたが、当然ながらこれらはすべて彼の妄想と虚言でした。
3. 逮捕と捜査、そして暴かれた偽装
都市伝説では「男は入国審査で止められた」とされていますが、驚くべきことに、ジーグラスは台北の日本大使館(現在の日本台湾交流協会)で本物のビザを発給させ、見事に日本の入国審査を突破していました。
さらに彼の自作パスポートには、東アジア各国の入国スタンプがいくつも押されており、彼はそれまでこの手作りパスポートで世界各国を本当に渡り歩き、各国の審査官を騙し通してきたのです。
彼が逮捕された理由は、異世界人だったからではありません。「お金」です。
1960年初頭、彼はチェース・マンハッタン銀行の日本支店などで偽造した小切手(約20万円と140ドルのトラベラーズチェック)を換金し、さらにお金を騙し取ろうとした詐欺の容疑で、警視庁公安部によって逮捕されました。
この事件の捜査を担当した中には、後に「あさま山荘事件」などで知られる初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏もおり、彼の回顧録にもこの「ミステリー・マン」の記録が残されています。
警察が関係各国に照会をかけた結果、彼が語った経歴や「トゥアレド国」に関する情報はすべて虚偽であり、パスポートのスタンプもすべて彼自身が偽造したものであることが科学的に証明されました。
4. 法廷での凶行と事件の結末
1960年8月10日、東京地方裁判所でジーグラスの裁判が行われました。密室から消えるどころか、彼は日本の法廷の被告人席に座っていたのです。
裁判長から「懲役1年」の実刑判決が言い渡された直後、法廷内で予期せぬ騒動が起きます。
判決を聞いて取り乱したのか、ジーグラスは隠し持っていたガラス片を用いて、法廷内で突発的に自ら命を絶とうとする行動に出たのです。
予想外の事態に、現場は一時騒然となりました。
幸いにもすぐに病院に搬送されたため一命は取り留めましたが、このショッキングな出来事は当時の日本の新聞でも大きく報じられました。
その後、彼は服役を終えた(あるいは刑の執行を免除された)後に、香港に向けて強制送還されたと記録されています。
その後の彼の足取りは、現在に至るまで誰にも分かっていません。
5. なぜ「パラレルワールド伝説」にすり替わったのか?
ただの国際詐欺事件が、なぜ世界的なオカルト伝説へと変貌したのでしょうか。
発端は、当時の海外メディアです。
カナダの英字新聞などが、架空の国のパスポートを持った彼を「ミステリー・マン」としてセンセーショナルに報じました。
そして1980年代になり、イギリスの超常現象研究家であるコリン・ウィルソンらが、著書の中でこの事件を取り上げました。
その際、読者の興味を惹きつけるために「ホテルの密室からパスポートごと消え失せた」「1954年の出来事である」といった、事実無根のフィクション(尾ひれ)を意図的に付け加えたのです。
インターネットが普及すると、この「脚色された魅力的なストーリー」だけが言語の壁を越えて世界中に拡散され、事実確認が行われないまま「タウレドの男」というパラレルワールド伝説として固定化されてしまいました。
おわりに
「タウレド事件」の真相は、異次元からの来訪者というロマンティックなものではありませんでした。
しかし、一人の男が実在する地名をもとに架空の国家を創造し、自作のパスポートと堂々たる態度、そして巧みな話術だけで、冷戦下の世界中の入国管理官を騙し続けたという事実は、ある意味で超常現象以上に奇妙であり、人間の底知れぬ執念と図太さを感じさせます。
都市伝説のベールの奥には、世界をまたにかけた稀代の詐欺師、ジョン・アレン・クチャー・ジーグラスという、あまりにも人間臭く、そして不可解な男のリアルな生き様が隠されていたのです。
