真夜中の街角は、時に巨大な海溝のように息苦しい静寂を湛えている。
全10回で綴る『ナイトホークス』の思索。
連載第8夜となる今宵は、この無機質なダイナーという舞台装置から視点を移し、そこに座る「生身の俳優たち」の背景へと踏み込んでみたい。
彼らは一体、どのような時代を歩み、どのような価値観を享受して、この深夜のダイナーへと流れ着いたのか。
日本の偉大なミステリー作家、松本清張は、犯罪や人間の深い絶望の背景には、常に「時代と社会の歪み」が潜んでいることを冷徹に見抜いていた。
個人の人生は、社会という巨大なうねりから決して逃れることはできない。
その「社会派ミステリー」の視座を借りてこのカンヴァスを眺めた時、彼らの背負っている目に見えない重荷の正体が浮かび上がってくる。
エドワード・ホッパーがこの絵を完成させた1942年。
ダイナーのカウンターに座る20代から40代の男女は、アメリカ近代史において最も過酷で、最も極端な「時代の振り子」をくぐり抜けてきた世代である。
彼らの青春時代は、1920年代の「狂騒の20年代(Roaring Twenties)」と重なっている。
第一次世界大戦の勝利による未曾有の好景気。
ジャズの熱狂、大量消費社会の幕開け、そして禁酒法という皮肉な法律がもたらした、もぐり酒場(スピークイージー)での享楽。
F・スコット・フィッツジェラルドが『グレート・ギャツビー』で描いたように、当時の若者たちは、永遠に続くかと思われるような黄金の繁栄と、甘美なデカダンス(頽廃)の只中にいた。株価は上がり続け、誰もが明日は今日よりも豊かになると信じて疑わなかった時代である。
しかし、その黄金の夢は、1929年の「暗黒の木曜日(ウォール街大暴落)」によって、文字通り一瞬にして粉砕される。
昨日まで高級車に乗り、シャンパンを空けていた人間が、翌日には一文無しとなり、街角でリンゴを売り、スープの配給の列に並ぶ。
世に言う「世界大恐慌(The Great Depression)」である。
1930年代の10年間、彼らは自分たちが信じていた「アメリカン・ドリーム」という価値観が、いかに脆く、残酷な砂上の楼閣であったかを骨の髄まで思い知らされることになった。
20年代の甘い夢から、30年代のどん底の絶望へ。
この凄まじい「時代の落差」は、彼らの人間性や価値観に決定的な影響を与えた。
希望を持てば持つほど、失った時の絶望は深くなる。
だからこそ彼らは、過度な期待を抱くことをやめ、世界に対してシニカル(冷笑的)に振る舞うすべを身につけた。
他人の不幸に無関心になり、ただ今日一日を生き延びることだけを考える。
レイモンド・チャンドラーやコーネル・ウールリッチの小説に登場する主人公たちが、一様にタフで、冷ややかで、どこか虚無的なのは、彼らが皆、この「大恐慌という名の地獄」を這い上がってきたサバイバーだからである。
そして今、1942年。
大恐慌の傷がようやく癒え、軍需産業によって経済が息を吹き返した矢先、彼らは真珠湾攻撃(1941年12月)の報を聞き、恐るべき第二次世界大戦の渦中へと放り込まれたのである。
かつての狂騒を味わい、どん底の貧困を知り、そして今度は「戦争」という死の影が街全体を覆い尽くしている。
徴兵の足音が近づき、灯火管制によって夜の街からネオンが消え、明日の命すらどうなるか分からない。
この過酷な時代背景を踏まえて、改めて『ナイトホークス』の二人の男女を見てほしい。
彼らの顔に張り付いている倦怠感や、二人の間に横たわる重苦しい沈黙。
それは単なる夜更かしの疲労でも、恋人同士の痴話喧嘩でもない。
「時代」という名の暴力的な濁流に翻弄され続け、すっかり魂が摩耗してしまった者たちの、深く静かな諦念なのだ。
社会派ミステリーにおいて、人間を凶行へと走らせるのは、個人の悪意だけではない。
過去の消せない傷跡や、理不尽な社会のシステムが、人間をじわじわと追い詰めていく。
このダイナーに座る彼らもまた、ある意味で「時代に何かを殺された」被害者であり、同時に、冷酷な都会を生き抜くために何かを捨て去らざるを得なかった共犯者でもあるのだ。
フェドラハットを目深に被った男の背中は、こう語っているように見える。
「夢を見るのはもうたくさんだ。昨日までは金持ちでも、明日は塹壕の中で死ぬかもしれない。信じられるのは、今この手の中にある冷めたコーヒーの苦味だけだ」と。
赤いドレスの女が、男と触れ合おうとしないのにも理由がある。
この激動の時代において、他人に深く依存することは、致命的な弱点になることを彼女は知っているのだ。
愛も富も、明日には消えてなくなるかもしれない。
だからこそ彼女は、自分の輪郭を保つための鎧として、あの鮮烈な赤いドレスを纏い、決して誰も踏み込ませない完璧な孤独を維持している。
彼らがこの深夜のダイナーに集まっているのは、ここが「時代の嵐」をやり過ごすための、わずかな防空壕だからだ。
外の世界では、戦争という巨大な狂気が進行している。
しかし、この蛍光灯の下でコーヒーのアーンがシュンシュンと音を立てている間だけは、過去の恐慌の記憶からも、未来への恐怖からも、一時だけ逃れることができる。
彼らは何かを待っているのではない。
ただ、「何も起こらないこの無機質な時間」を消費することで、すり減った神経を休ませているのだ。
ホッパーの絵が、時代を超えて私たちの心を締め付ける理由。
それは、このカンヴァスが単なる風景画ではなく、1942年という残酷な時代が人間に強いた「魂の渇き」を見事に定着させた、一枚の心理的な見取り図だからである。
時代は常に、音もなく人間の背後に忍び寄り、その価値観や人間性を静かに書き換えていく。
それは松本清張が描いた、どんな残忍な殺人犯よりも恐ろしい「見えざる暗殺者」である。
チェリーウッドのカウンターに落ちた水滴は、暗い時代の染みのように見えるかもしれない。
しかし、彼らは決してただ絶望の底に沈み込んでいるわけではないのだ。
私はふと、オー・ヘンリーの短編『ラッパの響き』を思い出す。
この作品もまたニューヨークのカフェを舞台に、夕刻から宵の口、深夜そして明け方に至るまでの息の詰まるような一対一の人間劇の攻防が繰り広げられるのだ。
かつての親友であり今は犯罪者となった男を追う刑事のウッズは、過去の恩義と己の職務の間で板挟みになり、暗い絶望の袋小路に追い詰められていた。
しかし、夜のどん底で苦悩する彼の前に、突如として一本の明確な道筋が示される。
それは暗闇を切り裂き、再び己の足で立ち上がる力を与えてくれる、鮮烈な「ラッパの響き」のような希望の訪れだった。
この無機質なダイナーに座る彼らもまた、ただ運命に流されているだけではないのだろう。
大恐慌や世界大戦という過酷な時代の夜をじっと耐え忍びながら、心の中では、自分を再び外の世界へと呼び戻してくれる「ラッパの響き(Clarion Call)」を待っているのではないだろうか。
夜明けが来れば、彼らもまたこのガラスの防空壕を出て、現実の街へと歩み出さなければならない。
しかし、この残酷なまでに明るい空間で共に孤独を分け合ったという事実が、すり減った彼らの魂に、明日を生き抜くためのささやかな熱を与えてくれるはずだ。
全10回で綴るこの連載も、いよいよ終盤へと差し掛かっている。
明日の第9夜、私たちがこの静寂のどこへ視線を向けるかは、夜の街角に吹く気まぐれな風に任せておくことにしよう。
マスター、すっかり冷めきったこのカップを下げて、とびきり温かいコーヒーをもう一杯淹れてくれないか。
窓の向こうの暗闇はまだ深いが、よく見れば遠くの空はほんの少しだけ、白々と夜明けの気配を帯び始めている。
どんなに長く冷たい夜であっても、明けない夜はない。
彼らの耳に、そして私たちの耳にも、いつか必ず新しい朝を告げるラッパの音が響き渡るのだから。








