夜のしじまに包まれ、ふと頁をめくりたくなる時がある。
静かな灯りの下で手にしたのは、寺田寅彦の随筆『どんぐり』である。
亡き妻との何気ない日常の記憶を綴ったこの小品は、哀切でありながらも、それ以上に静謐で透き通るような美しさに満ちている。
自身の命が決して長くはないことを薄々と悟りながらも、決して悲壮感を見せることなく、まるで無邪気な童女のように振る舞う妻の姿。
その健気さが、行間から立ち上り、読む者の胸を静かに打つのである。
同じく結核に倒れた妻との闘病を描いた文学に、横光利一の『春は馬車に乗って』がある。
あちらが病魔に侵されてゆく残酷な現実や、死の恐怖に苛まれる夫婦のヒリヒリとした痛切な心理摩擦を、鋭利な文体で容赦なく剥き出しにしているのに対し、『どんぐり』の手触りはまったく異なる。
凄惨な死のリアリティは、物理学者である寅彦の、静かで客観的、しかし底知れぬ慈愛に満ちた眼差しという真綿によって、柔らかく覆われているのだ。
それゆえに読後の胸には、泥沼のような重苦しさではなく、澄み切った秋の空のような清らかな余韻だけが残るのである。
作中、夫婦で植物園の温室へ赴く場面がある。死の翳りを背負う彼女がそこで探し求めていたのは、ひょっとすると、春の兆しや力強い生命の息吹そのものだったのかもしれない。
しかし、温室の中に咲き乱れる異国の花々は、確かに鮮やかであっても、彼女の心を満たすことはなかった。
遠い国の見知らぬ植物は、彼女のささやかな日常からはあまりに遠く、よそよそしい存在だったのだろう。
彼女が本当に愛着を抱き、心を通わせたものは、もっと身近で、手の届くところにある小さな命の気配であった。
冬の寒さに負けてすっかり枯れ果てた菊の枝に、千代紙で折った美しい菊の飾りをそっと結びつけ、さらには、まだ蕾もほころばぬ冬の梅の枝に、自ら折った梅花の折り紙を几帳面に付けて春を待ち侘びる優しさ。
そして、幼い頃から掌の中で親しんできた、あの「どんぐり」である。
厳密に言えば、どんぐりは秋の落とし物である。
しかし、そのころんと丸くずんぐりとした形や、掌に載せたときのひんやりとした確かな重みの中に、彼女は自分なりの生命感を見出していたのではないだろうか。
硬い殻の奥底で、やがて来る春の芽吹きをじっと待ち、命の力を凝縮させている小さな木の実に、彼女は自身の残り少ない生への愛おしさを重ね合わせていたように思えてならない。
遠くの華やかな温室の花よりも、足元に転がる一つのどんぐりに宿る、力強くも静かな命の輝き。
それを慈しむ妻の指先を、寅彦は静かな悲しみと深い愛情をもって見つめていた。
当時、寅彦は貧しき書生で、妻はまだ十代であった。待望の新しい生命を授かった矢先に不治の病である結核に罹患した妻。若い夫婦にはあまりにも残酷な運命だったに違いない。
そして物語は、彼女がこの世を去った後の情景を静かに映し出す。
妻が残した忘れ形見である幼い子どももまた、亡き母の姿をなぞるかのように、どんぐりを拾い集めて遊ぶ無邪気な子どもへと育っていた。
しかし、母から子へと受け継がれたのは、単なる遊びではない。
それは、足元にある小さな自然を愛し、そこに宿る命の重みを感じ取るという、妻が残した静かで温かい精神の遺産そのものであった。
子どもが掌に握りしめるどんぐりの一つ一つに、亡き母の微笑みと確かな生命の連続性が宿っていることに、寅彦は深い感慨を覚えたに違いない。
今宵も季節はずれに肌寒く、そんな夜気の中、読み終えた本をそっと閉じる。
母と子を繋ぐどんぐりの重みを想像しながら、日常の片隅に息づく、ささやかで愛おしい命の手触りについて、深く思いを馳せていた。
