少年期に読んだ書物の記憶が、時を経て突如として生々しい輪郭を帯びて現代の事象と結びつくことがある。


夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場する「トチメンボー」の逸話は、まさにその最たるものである。


​作中きっての奇人であり、悪戯好きの美学者である迷亭が、知人を伴い西洋料理店を訪れた際のことである。

迷亭は給仕をからかう目的で、献立には存在しない「トチメンボー」なる架空の料理を注文する。

西洋料理の知識がないと思われたくない給仕は、素直に無知を認めることができず、厨房へ確認に行くふりをして「本日は材料が揃いませんで」と、もっともらしい嘘をついて取り繕うのである。

​この滑稽な喜劇の裏には、極めて高度な言葉遊びが隠されている。

「トチメンボー」とは仏蘭西料理などではなく、日本の古語「栃麺棒」のことだ。

乾燥しやすく固まりやすい栃の実の麺を打つ際、大急ぎで麺棒を振るわねばならないことから、転じて「慌てふためくこと」を「栃麺棒を振る(または食う)」と言う。私たちが日常的に使う「面食らう」という言葉の語源ともされる。

​つまり迷亭は、「慌てふためく」という意味の日本語を意図的に西洋の料理名のように発音し、知ったかぶりをした給仕を見事に「面食らわせた」のである。

これは、文明開化という時代の熱病に浮かされ、西洋文化を上辺だけ取り繕って得意顔をしていた当時の浅薄な人々に対する、漱石からの痛烈な皮肉に他ならない。

​しかし、この構図は百年の時を超えた現代においても何一つ変わっていない。

いや、溢れ返る情報という新たな熱病に浮かされる現代のほうが、事態はより深刻である。

横文字のビジネス用語や、検索エンジンで数秒で得ただけの俄か知識を振りかざし、さも自身の深い見識であるかのように装う現代人。

分からないことを「分からない」と素直に言えず、知ったかぶりをしてその場をやり過ごす姿は、明治の西洋料理店で狼狽し、虚勢を張ったあの哀れな給仕と完全に重なり合う。

​私たちは今もなお、見栄と虚栄心という名の「トチメンボー」を日々注文し、そして注文され続けている。

情報が容易に手に入る時代だからこそ、自身の内なる無知と虚栄に無自覚であってはならない。

漱石の冷徹な眼力は、時代を超えて現代社会の薄っぺらさを静かに、そして鋭く射抜いているのである。