原っぱ
長田弘
原っぱには、何もなかった。
ブランコも、遊動円木もなかった。
ベンチもなかった。
一本の木もなかったから、 木蔭もなかった。
激しい雨が降ると、そこにもここにも、
おおきな水溜まりができた。
原っぱのへりは、いつもぼうぼうの草むらだった。
きみがはじめてトカゲをみたのは、
原っぱの草むらだ。
はじめてカミキリムシをつかまえたのも、きみは原っぱで、自転車に乗ることをおぼえた。
野球をおぼえた。
はじめて口惜し泣きした。
春に、タンポポがいっせいに空 飛ぶのをみたのも、
夏に、はじめてアンタレスという名の星をおぼえたのも、原っぱだ。
冬の風にはじめて大凧 を揚げたのも、
原っぱは、いまはもうなくなってしまった。
原っぱには、何もなかったのだ。
けれども、誰のもの でもなかった何もない原っぱには、ほかのどこにもない ものがあった。
きみの自由が。
この詩を読みながら子供の頃を思い出した。
子供は遊びの天才で、どんなに殺風景で制約された空間でも夢中になって遊ぶことができた。
仲間内で新しい遊びを次々と考え出して、あっという間にそれに熱中できてしまう素直さと無邪気さがあったのだ。
嬉しさも楽しさも悔しさも悲しさも、原っぱというフィールドですべて経験してきたのである。
大人になって改めてその場所に行ってみると、驚くほど狭くて何もない空間だったことに気づくことがある。
なぜ、あの頃は広々と感じたのだろうか。自分の身体が小さかったからだろうか?
それもあるが、僕たちの前には無限大の可能性という原野に包まれていたような気がするのだ。
一言でいえば、それが自由なのである。
握りしめたばかりの自由を指から離して広げてみると、光があっという間に放射状に散乱して、遥か彼方まで広がっていくような気がしたものである。
幻想でもなく、夢にうなされたからでもない。
僕らの自由は、僕らにしか見えない形であの頃、ちゃんと存在していたのである。
あれから幾星霜過ぎただろうか。
それでも、このような詩を偶然読む機会があるたびに、あの掛け替えの無い少年の日の記憶が昨日のことのように甦るのだ。
8月31日の憂鬱を乗り越えて、9月1日には溌剌と駆けって学校に行ったあの頃のように、今ではすっかりオジサンになってしまった私も、いささか溌溂さを取り戻して今日という時間を力の限り楽しんでいきたい。