一個の人間
自分は一個の人間でありたい。
誰にも利用されない
誰にも頭をさげない
一個の人間でありたい。
他人を利用したり
他人をいびつにしたりしない
そのかわり自分もいびつにされない。
一個の人間でありたい。
自分のもっとも深い泉から
もっとも新鮮な生命の泉をくみとる
一個の人間でありたい。
誰もが見て
これでこそ人間だと思う
一個の人間でありたい。
一個の人間は
一個の人間でいいのではないか
一個の人間
独立人同志が
愛しあい、尊敬しあい、力をあわせる。
それは実に美しいことだ。
だが他人を利用して得をしようするものは、
いかに醜いか。
その醜さを本当に知るものが一個の人間。
人間にとって最も大切なものは、個人の尊厳が守られ尊重されることである。
当たり前のことではあるが、果たして本当に各々の尊厳が守られてきただろうか。
自分が自分のことを尊重するだけではなく、他者の立場もしっかりと尊重していくことが大事である。
武者小路実篤のこの詩には、一個の人間が当然の権利としてその個性や思想が尊ばれるべきだと高らかに主張しているわけである。
翻せば、当時はそれだけ個人の権利が尊重されにくい事情も多く存在していたということである。
時には権力によって蹂躙されて、矯正を余儀なくされたこともあったに違いない。
また、みずから阿諛追従の徒となって、ややもすれば没個性的な生き方に齷齪していないか。
これらの事は現代社会においても多くの場合、当てはまることのように感じる。
武者小路実篤は、この詩にうたわれている思想を体現すべく、1918年(大正7年)、同志とともに「新しき村」という実験的集落を宮崎県児湯郡木城町に開設し、彼自身もそこに6年ほど住んでいたのである。
晴耕雨読そのままに、農作業に汗を流しながら、文筆活動を続けてきたのであるが、壮大な理想とは裏腹に、世間からは金持ちの道楽趣味に過ぎないと散々叩かれ、同集落の大半がダム建設により水没することになると、同地を離れて埼玉県毛呂山町に引っ越すことになったのだ。
武者小路によって提唱された理想郷建設の夢は現代にも受け継がれ、「新しき村」は今も存在し続けているのだという。
ともあれ、この詩の中に謳われる自主自彊の精神は、現代に生きる我々にも心強く響くものがある。
とくに、「自分のもっとも深い泉から、もっとも新鮮な生命の泉をくみとる 一個の人間でありたい。」という一文は個人的に好きである。
私という人間がもっと私らしくあるために、心強く前を向いて生きていきたい。
評点
★★☆☆☆
