シジミ 石垣りん
夜中に目をさました。
ゆうべ買つたシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。
「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクツテヤル」
鬼ババの笑いを
私は笑つた。
それから先は
うつすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかつた。
寝苦しい夜にとつぜん起きて、台所へ行って水を飲むことがよくあります。
作者もきっとそのような理由で夜中に台所へ行ってみると、生きたシジミたちが水を張ったボールの中で静かに息づいている様子が目に入ります。
シジミは口をうっすら開けてまだ生きている。
そんなシジミたちも朝になれば、ぐつぐつ煮立った鍋の中に放り込まれる運命にあるのです。
鬼ババの笑いとは作者自身の笑いでもある。
しかし、それでいてシジミたちとも、この夜中にあっては同じ空間で生存を共有している仲でもある。
食う側と食われる側の殺伐とした見えざる攻防も、作者の手に掛かれば、アニメーションのようなコミカルな構図に仕立て上げられてしまうのだ。
私とは私ではないものに生かされている。
こうした構図は食物連鎖においても厳然と存在している事に気付かされる。
眠気まなこの中でちょっとした感傷に浸ったとしても、シジミと同様に口を開けて寝なければならない自分が存在するということ、それこそ生活と呼ばれるものの実相なのである。
生活詩人と呼ばれた石垣りんは、何よりも日常生活の実感というものを大切にしてきた。
鬼ババとしての私も、シジミと同様に口を開けて寝ている私も、すべて偽らざる私そのものである。
そんな不思議さと同時に不思議の無さを感じる、愛すべき詩というわけだ。
評点
★★★☆☆