広島東洋カープ全盛期を支えた名バッター衣笠祥雄氏が亡くなられた。

鉄人衣笠の愛称はもともと背番号が28だった事に由来するようだが、大リーグの英雄ルー・ゲーリックの連続試合出場記録を塗り替えると、その強靭な体力とメンタリティを讃えて人々は鉄人と呼ぶようになったのである。

デッドボールの受けた数は歴代3位ということであるが、どんなに苦痛を感じても笑顔を見せて周囲を心配させないように配慮されていたという。

1979年日本シリーズ広島対近鉄の第7戦、9回の裏を任されたのは伝説の投手・江夏豊であった。

しかし、ノーアウト満塁の絶対絶命のピンチを迎えると広島カープの古葉竹識監督はピッチャー交代を視野に入れて控え投手にウォームアップを命じた。

監督のこの対応に信頼されていないと感じた江夏投手は怒りに打ち震えたというが、そんな彼の表情を察して近づいてきたのが衣笠さんだった。

衣笠さんは江夏さんに「お前が辞める時は俺も一緒に辞めてやる。しかし、このピンチを抑えられるのはお前しかいない。」と語って勇気付けたという。

そこから先の江夏投手の活躍は俗に「江夏の21球」と呼ばれる日本プロ野球史に残る名シーンであり、一死からのスクイズを冷静に見抜くなどして近鉄の反撃を鮮やかに断ち、広島を日本一に導いたのである。

この名シーンを陰で支えていたのが衣笠さんだったのである。

一匹オオカミで近寄りがたい江夏氏だったが、衣笠氏とは無二の親友であり、晩年まで交流が続いていたと言われる。

今回の衣笠さんの訃報に接し、江夏さんは「しょうがない。順番だから…。一つ言えるのはいいやつを友人に持ったなということ。本当に俺の宝物だった。こんなに早く逝くとはね…」と言葉を絞り出した。

続けて「どっちみちワシもすぐ追いかける。向こうの世界で野球談議でもするよ」とも語り、静かに戦友の死を悼んだそうである。

誰よりも野球を愛するがゆえに最多出場記録を抜い変えたのみならず球界の模範を示された衣笠さん。

のちに彼の記録を塗り替えた大リーグのカル・リプケン・ジュニアも衣笠さんを尊敬していたという。

奇しくも赤ヘル黄金時代の広島の地にて生を受けた私だけに、また当時住んでいた広島の家の近くに衣笠さんが住まわれていたという話を親から聞いたこともあり、衣笠さんの死を深く悼みたいと思います。