昨日は久しぶりに東京を訪れて、運動がてら様々な風景を眺めてきました。

はじめに降り立ったのが南千住駅。駅周辺は10年以上前から再開発が進み、タワー型の高層マンションやショッピングモールが建ち並び、新興住宅地となっておりました。

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写真の通りの南側はJR貨物の隅田川駅となっており、一大貨物ターミナルとなっております。

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この貨物基地を迂回するようにして、南に進んでいくと、有名な泪橋の交差点に出ました。

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江戸時代から明治初期まで南千住にあった小塚原刑場。
安政の大獄で処刑された吉田松陰や橋本左内、桜田門外の変の実行役となった水戸藩士たち、さらには鼠小僧次郎吉や高橋お伝などがここで処刑されたという。
泪橋は刑場近くの思川に架かっていた橋で、刑場へと連行されていく囚人が家族たちと涙の別れをした場所であったことから、泪橋という名が付いたそうです。

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この周辺を歩くと、多くの簡易宿泊所が軒を連ねている事に気がつきます。
表通りはもちろんの事、裏通りにも多くの簡易宿泊施設が林立しているのです。

ここが所謂、山谷と呼ばれる地域で、日本有数のドヤ街を形成しています。
もともと、江戸時代よりこの地域には木賃宿が多かったようで、最近では安く宿泊できることからバックパッカーも多く利用しているのだとか。

この日は日曜日の朝でしたが、それでも労働者と思しき人々が大きな荷物を担いで簡易宿泊所から出て来る光景を見ました。
簡易宿泊所はこうした労働者の皆さんの貴重な居住空間でもあるわけです。

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さて、山谷といえば、かつてこの周辺に山谷堀という水路が存在していたそうです。

これは江戸時代初期に荒川の氾濫を防ぐ目的で人工的に開削した堀で、三ノ輪から隅田川に繋がる今戸にかけて堀が築かれました。また同じく治水事業として堀の南側に築かれた長い土手の事を日本堤と呼び、こちらは現在でも地名として残っております。

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この付近には、紙洗橋や地方橋(じかたばし)のように、橋に関する地名が多く存在しますが、これらは山谷堀にかつて架かっていた橋の名前がそのまま地名になったものです。

写真のように、地方橋の親柱の跡が残されていますが、堀自体は昭和初期から埋め立てられて、今では山谷堀公園という長細い公園として整備されているわけです。

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写真はかつての山谷堀に架かっていた今戸橋の風景

かつて堀の周辺には船宿や料理屋が建ち並び、隅田川から吉原大門まで遊客を乗せた猪牙舟が往来するなど、繁栄していたそうですが、吉原の衰退とともに寂れていき、堀も埋め立てられて、かつての栄華の跡も殆ど存在していません。

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さて、地方橋の交差点を北に進むと見えてきたのが吉原大門。
江戸時代に幕府公認の遊廓として、この地に設置されたのが明暦の大火後の事。
それまでは今の日本橋人形町辺りにあったのだとか。
吉原遊廓は四方を高い塀とさらに外側をお歯黒ドブという溝渠によって厳重に囲まれており、吉原大門からでないと中へ入れない仕組みになっていました。
いわばこの閉鎖された空間が遊里と呼ばれる周囲と隔絶されて独特の楽園を醸し出していたわけであるが、遊廓内で火事が発生すると、周辺地域から消火の応援を得る事ができないのため、吉原は江戸時代の間だけでに22回も火事に見舞われ、死者は千数百人に及んだとされています。

その後、明治5年に太政官達として出された芸娼妓解放令は、人身売買を禁止することにより娼妓を解放する目的で出されたものでありますが、娼妓の生活を保障する内容ではなかったことから、結果的にお上より鑑札を交付された娼妓が自由意志によって、遊廓で座敷を借りる形で春を鬻ぐという建前のもと、公娼制度は事実上存続することになります。

しかし、明治以降紳士たちの遊びの中心地は郊外の吉原から山の手内の新橋や赤坂、神楽坂などの花街へと移っていくと、吉原は次第に衰退していくことになります。

また、火事との縁も明治以降も続き、映画にもなった明治44年の吉原大火や、大正12年の関東大震災、さらに昭和20年の東京大空襲により、吉原は甚大な被害を受けて街は焼失してしまいます。

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写真は関東大震災後の吉原の様子。死体が累々と積み上げられている。

しかし、その度に吉原は自力で立ち上がりたくましく不死鳥の如き復興を果たすのでした。

戦後は連合国軍総司令部の通達により、公娼制度は廃止されたが、特殊飲食店街という形態で存続することとなった。
いわゆる赤線地帯となったわけです。

この頃より西洋風の建物でカフェーと呼ばれた娼館も吉原で見られるようになり、中には現存する建物もあります。

しかし、昭和33年の売春防止法により、赤線は廃止されることになった。こうして大っぴらに春を鬻ぐことは禁止されることとなり、吉原の栄華がここに極まったかに思えましたが、その後もトルコ風呂やソープランドと名前を変えて、合法的な範囲内で現在もこの周辺で多くの店舗が風俗営業している状況です。

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吉原一帯には吉原弁財天や吉原神社といった遊女にゆかりある場所が今も存在しています。特に吉原弁財天では、関東大震災の折、燃え上がる火災旋風から逃れるため多くの遊女が池に飛び込んだという事実があります。結果的に490人もの遊女が火災で亡くなったとされています。

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また、吉原大門付近に立つ柳の木、いわゆる見返り柳が現存しています。今立っている木は何代目かわかりませんが、以外にか細く弱々しい感じでしたね。

遊客にとっては柳を振り返りながら、後ろ髪引かれる思いでこの地を後にしたことでしょう。しかし、遊女にとっては大門の結界から外に出ることは許されなかったわけで、籠の中の鳥の如く一生を吉原の中で過ごすことになったわけです。

今では簡単に行き来できる場所になっていますが、色々考えさせる散歩となりました。