今日は和辻哲郎著「面とペルソナ」をご紹介したい。
この話は、普段我々が何気なく持ち歩いている「面」について、その人格との結びつきを様々な文化の事例を挙げながら考察している文章だ。

ここでいう「面」とは、人間が持つ生身の「顔面」と、人工的に形造られた「仮面」についてである。
我々は平素、無意識のうちにあの人が誰であるかを認識するときにその人の顔を見ている。顔は人間の肉体の表層的な一部分に過ぎないにもかかわらず、その人を識別するうえで最も重要な部分となっている。

ネット社会の現代において、顔の知らない人物とネットを介して会話をしたりゲームをしたりすることが当たり前の状況になってきている。しかし、我々はそんな会ったこともない人について思い浮かべる時も、相手の態度や口ぶりから推察し、心の中でその人の顔を思い浮かべるのである。

一方、人を思い浮かべるときに顔以外の部分を真っ先に思い浮かべるということはまずない。その人に尻尾が生えているといった珍しい要素が存在しない限り・・・。

また、「顔」をその人自身と捉える認識法は芸術分野においてもごく普通の表現方法となっている。西洋絵画における肖像画の描き方や浮世絵における大首絵などはまさに良い例である。芸術家は「人」を表現するのに「顔」の周縁部を切り取り、「顔」だけに切り詰めて描くことにより対象人物そのものを表現するのである。

一方、人物の胴体部に着目し、敢えて首から上を切断した状態で表現する方法にトルソーというものがある。和辻はトルソーの表現について、ある特定の「人」を表現するものではなく、人の肉体を通して自然美を見出そうとする表現であるといっている。

もしくは、古代希臘や古代羅馬の遺構から発掘された「首なし」の石像に対する考察については、そこにある種の「断片の美」を見出すべきであると述べている。たとえば、ルーヴル美術館に所蔵されている「サモトラケのニケ」の美しさはその極致というものであろう。

ただ、それは翼を持った女神の首がないという状況にある種の神秘的な美を求めるものであり、むしろ我々にとってより身近な地蔵の首がないという状況を見た場合の反応はどうだろうか。


本来あるべきはずの首が存在しないという状況にはっきりとした喪失感と悲壮感を感じるに違いない。
それは、首がないという状況が見る者に対し何よりも断片的な喪失感を与えているからだろう。


そして、顔面の作用を最大限に活用した造形こそが「仮面」である。
仮面の起源は人類文化の発祥とともに誕生したとも言われている。はじめは祭祀用に使用されてきた仮面であるがやがて庶民の文化に根付き始めると舞踊等の各種芸能において用いられるようになった。


和辻の弁によれば、古代希臘当時に作られた仮面は芸術的な要素こそあれまだ未完の美といったところらしい。
これに対し、日本で古来用いられてきた「伎楽面」と「能面」には優れた独特の造形美が存在するという。


「伎楽」は厳密にいえば大陸渡来の文化である。伎楽は中国の江南地方から日本へ伝えられた仮面舞踊劇であり、滑稽な所作を伴う無言劇であった。


その起源については、使用される仮面の民族的特徴に、中国人よりはアーリア系の要素が色濃くみられることから、西域方面で発祥し、シルクロードを経て中国江南地方で完成されたものと推定されている。
実際に奈良・正倉院に収蔵されている大陸伝来の貴重な品々の中に多くの伎楽面が含まれている。


伎楽面の特徴は、喜怒哀楽の表情が積極的に表現されているということだ。
人物や鳥獣の顔を大胆にデフォルメすることにより、大げさな表現を演じることが可能となる。また、伎楽面は、能面などにみられる顔をおおうだけの形態とちがって、頭からすっぽりかぶるものであった。この特徴から希臘悲劇の仮面との共通性が指摘され、伎楽の伝来が希臘であるという説もとなえられたが、詳細は不明らしい。


他方、能面は日本で生み出された完全オリヂナルな仮面である。
和辻によれば、能面の特徴は、面から「人らしさというもの」を消去した部分に独特の造形美があるという。


例えば、能面に「尉(じょう)」と「姥(うば)」という面がある。
尉は年老いた男性を、姥は年老いた女性を表した面とされるが、いずれの面も虚ろな表情をしていて生気がない。


この面相に感じる不可思議な感覚は、とにかく筋肉の生動が注意深く徹底的に洗い去られているためである。
和辻はこの面の表情を「死相」と譬えたが、半眼半口の生気のない表情はまさに死に顔そのものだ。喜怒哀楽の一切を、つまり人らしい表情の一切をそぎ落としたところに能面独特の造形美があるのだ。


この点で、積極的に表情を加えていった伎楽面と対蹠を成していると考えられ、「引き算の美学」とされる日本独特の美の特徴が能面にも表れているのである。


しかし、この能面の持つ劇的な効果を知るのは、能面を付けたシテ方が動作した時である。
これまで表情をとり去った筈の能面が実に豊かな表情を見せ始めるからだ。


手で涙を拭う仕草をすれば、面の表情が本当に泣いているような表情を見せるのだから不思議である。能面により自由自在に心の陰影の機微に至るまですべてが表現され得るのだ。


すなわち演者の動作を恰も面が吸収しているかのように思えるのである。和辻はこれを「面が肢体を獲得した」と表現している。そして今度は面があらゆる動作を支配するようになる。面のチカラがいよいよ発揮されるところである。こうして肢体の表現が面の表情となり、もはや演者は「面の人物」そのものになるのだ。


面の持つ不思議さというか、面の魔力というのはここにあるのだ。


すなわち、肉体の表層的な一部分に過ぎない面がその人全体を表現することができる理由は、面だけ切り詰めても面自体の持つ表情の豊かさによって容易に肢体を獲得でき、あらゆる動作を支配することができるのである。


それこそ、面が持っている大きな特性、すなわち、肉体を従わせる主体的なるものの座、人格の座であると述べている。とどのつまり、顔イコール人格というわけだ。


そこで、西洋圏で使われるペルソナというキーワードがはじめて登場してくる。ペルソナとは、もともと西洋の古典劇で使われる仮面の事である。しかし、今では原義から派生して様々な意味を持つようになった。特に日常生活においては、自分の演じる役割の意味で使われる。


例えば、他人の仕事や役割を担う事になれば、その人のペルソナを務めるといった具合に表現できる。社会の中で人はたったひとりで様々な役割を担い、そのたびに様々なペルソナを被って役割を演じなければならない。


そこで演ずるべき役割と己の本心とのあいだに乖離が生じる場合、外的側面としてのペルソナの存在がクローズアップされてくる。
カール・グスタフ・ユングが唱えたペルソナという意味はまさに外的側面という意味を表している。


中国四川省の古典芸能である川劇の中に
「変臉」という演目がある。演者が顔を手で覆うたびに一瞬にして仮面が次から次へと変化していく。この魔術のような仮面の早変わりは中国国家第一級の機密であると言われ、長い歴史の中で密かに受け継がれてきた秘術なのである。


考えてみれば、我々も日常の中でこの仮面の早変わりよろしく表情をいろんな色に形に様変わりさせながら生きているような気がする。


面が見せる表情そのものが、その人の人格を如実に表しているとするならば、私も自分の表情にもっと責任を持っていかなければならない。


そして、幸いにも面というのは容易に外せるものである。長年被り続けてきた「顰(しかみ)」や「
癋見(べしみ)」の面をそろそろ外してもっと爽やかな面をつける事にしよう。