今日はポーランドが生んだ巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「コルチャック先生」をご紹介したい。
「コルチャック先生」についてはご存知の方も多いかと思うが、第2次世界大戦中ナチスによる凄惨なホロコーストの渦中にあって、子供たちの人権を守るために最後まで戦い抜いた偉大な教育者として今やその名は世界中に知られている。
彼は、第2次大戦前から本国ポーランドはもとより隣国ドイツでも名の知れた教育者、小児科医であり、慈善活動家でもあった。
「ヤヌシュ・コルチャック」という名前は実はペンネームであり、本名はヘンルィク・ゴールドシュミット博士といった。
しかし、彼が最も力の入れたのは当時ワルシャワ市内にあったユダヤ人孤児院の院長としての活動であった。ユダヤ人であった彼は貧しくまた差別の対象とされてきた子供たちに常に手を差し伸べようと尽力したのである。そして、自らの執筆活動で得られた収入はすべて孤児院の子供たちのために充てられたのである。
また、映画の冒頭シーンにあるように、当時ワルシャワで放送されていた子供向けの連続ラジオ番組「老博士のお話」のホスト役としても多くの子供たちに親しまれる存在であった。
そんなある日、ラジオ局の部長から突然番組の打ち切りを打診される。
コルチャック博士がユダヤ人であることを理由に経営陣や出資者からクレームがついたのである。
1936年当時、ポーランドは隣国ナチス・ドイツの不気味な影に脅かされていた。それまでポーランドは歴史的に見てもユダヤ人に寛容な国であると言われており(例:カリシュの法令)、ユダヤ系住民と非ユダヤ系住民は長年手を取り合って共存を図ってきたのだが、ここにきてその関係に亀裂が生じようとしていたのである。
そして1939年9月のドイツ国防軍によるポーランド侵攻が開始されると、ユダヤ人の社会的立場はいよいよ窮地に立たされるのであった。
占領後間もなくナチスの秘密警察であるゲシュタポの主導でユダヤ人たちはワルシャワ市内に置かれた人種隔離区域(ゲットー)への移住を強要される。
コルチャックは200人の子供たちとともにゲットー内に移動するが、その途中でドイツ兵に大量のジャガイモを積んだ荷馬車を奪われてしまう。
このジャガイモは2週間分の子供たちの食糧であり、コルチャックが懸命に探し回ってようやく確保した貴重な食糧であった。
この理不尽きわまりない仕打ちに対しコルチャックはドイツ兵の上官に必死に返還するよう強く訴えるが、逆に生意気だと言われ散々に足蹴にされた挙句、留置場に入れられてしまう。
留置場では、かつてコルチャックをクビにしたラジオ局の部長も収監されており、思わぬ場所で二人は再会することになる。部長が自分のことを恨んでいるのではないかと訊いたのに対し、コルチャックはそれを否定。「強くなりなさい」と語り最後まで彼を励まし続けたのである。
その後、コルチャックは彼を尊敬するドイツ人軍医の取り計らいによって釈放されるが、コルチャックは最後までドイツ語で話すことを拒否した。
また、コルチャックはゲットー生活を通して、ユダヤ人であることを示す腕章を付けることを拒否し、士官用の軍服を着込んでいた。
敵が理不尽に強要するものにはことごとく反発し、ユダヤ人を裏切ったポーランド軍の軍服を着込むことによって、「この裏切りを忘れまじ」との強い反骨精神の意思を表したのである。
一方、コルチャックは子供たちにとって最大の理解者であり続けた。夜に突然銃声が鳴り響くと、これに怯えて寝ることができない子供を安心させるために子守唄を歌い、手を優しく握るのであった。
ワルシャワゲットーでは食糧の配給が行われていたが、一日に配給される食糧はわずか180キロカロリー。つまり成人が必要とする摂取量の10分の1にも満たないというものであった。
ゲットー内のユダヤ人は慢性的に飢餓と伝染病に苦しんだ。
ドイツ兵たちはワルシャワゲットー内に入ってはユダヤ人たちが苦しむ様子をカメラで撮っては記録していた。
これらの映像はドイツ国内で流すプロパガンダ映画用のもので、ドイツ国民に対してユダヤ人がいかに不潔で生きるに値しない民族であるかを喧伝するために撮影したのである。
このような過酷な環境にあって、コルチャックは子供200人分の食糧を確保するために毎日朝から晩まで大きな布袋を担いで、ゲットー中を回っては食糧を求め歩いたのである。
小柄で年老いた体。しかも心臓病を患っており、本来であれば無理をすることのできない体である。
しかし、コルチャックは常に子供たちの事を最優先に考えていた。
子供たちを守ることに必死だったのである。
戦争だとか、人種差別だとか、こうした事は大人たちの身勝手によって作り出された理不尽な秩序である。
子供たちの罪なき世界とまったく相容れない愚かな秩序である。
コルチャックは愚かな大人たちが子供の領域に土足で踏み入れようとするのを、身を挺して守り続けたのである。
実際、孤児院の子供たちの生活は喜びに満ちていた。コルチャックは子供の自治を大幅に認めていたのである。
月に一回、「子供裁判」が開かれ、子供たちが裁判官や陪審員に扮して民主的な裁判が行われたのである。時には、女の子を叱ったコルチャックに「有罪判決」が下されたこともあった。コルチャックがこの判決に服したことは言うまでもない。
子供たちの間では、日常的に無邪気な喧嘩や時には恋愛とかもあった。
それは今の平和の時代の日常とほとんど変わりのない風景である。
こうして、「何気ない平和の日常」はコルチャックの陰の努力によって守り抜かれたのである。
ある日、孤児院に新しく入ってきた少年が「コルチャック博士ってどんな人なの?」と年長の少年に尋ねる。
すると年長の少年は「コルチャック博士は最も偉大なポーランド人」だと胸を張って答えるのである。
しかし、その偉大なコルチャックとて、神様ではない。時々、一人の時に酒を飲んで心を落ち着かせるシーンがあった。
たしかに、人間の弱さを描くことも、生身の人間性を出すためには必要なことであると思う。
また、ユダヤ人の中には、民族を裏切って影でゲシュタポと密通して羽振りのいい生活をする「芸術家集団」と呼ばれる人たちもいた。
コルチャックの知り合いのシュミットという男も「芸術家集団」の一人で、彼の口利きによりコルチャックは一夜にして多くの寄付金を手に入れることになる。
その後、それを見ていた「抵抗組織」の活動家たちは、裏切り者から施しを受けていたコルチャックを糾弾するが、これに対しコルチャックはこう答えるのである。
「子供たちを救うためなら、私は悪魔にも会う」と。
そして、運命の日がいよいよ訪れる。
1942年8月6日。
コルチャックと200人の子供たちは、ドイツ兵の命令により、孤児院から強制収容所へと移送されることになった。
コルチャックと女性教師のステファは、これがどのような事を意味するかわかっていたが、ステファは努めて平静を装い、子供たちにこう言い聞かせるのである。
「みんな、これから遠足に出かけます。一番いい服を着て、カバンを背負ってね」と。
強制収容所に連行されるとき、周囲のユダヤ人たちは動揺や恐怖によって押し合いへし合いするが、コルチャックと子供たちの一団は「ダヴィデの星」が描かれた旗を掲げ堂々と行進してゆくのである。
先頭には軍服を着込んだコルチャックが子供たちの手を取りながら、時に子供たちを宥めながら前を進んでいった。
彼らは「集荷場」と名付けられた駅から家畜専用の貨車に乗り込み、「トレブリンカ抹殺キャンプ」と名付けられた収容所へと向かって行ったのである。
そして最後のシーンである。
収容所へと向かう途中で突然貨車の連結部が外れて、一台の貨車が野原の真ん中に取り残される。
そして、笑みを浮かべた子供たちが貨車から次々と飛び出していく。
「解放された」コルチャックと子供たちは喜びに満ちた表情で光の導かれるままに彼方へと歩いてゆくのである。
このシーンついては、一部の批評家から歴史的事実を歪曲するものだとしてクレームがついたようである。
これに対しワイダ監督は、コルチャックと子供たちの最期については誰もが知っている悲惨な事実である。しかし、そんなシーンを作る勇気など私にはなかったと、話している。
このことについては、多くの人がきっと監督の立場に同意するであろう。
一体、誰が子供の悲惨な最期を望むというのか。
我々はナチスという巨悪によって多くの罪なき子供たちが殺害されたという否定しようもない事実を知っている。
しかし、子供たちの魂までナチスが奪い得なかったことは明白であるし、それを望み続ける事がせめてもの生き抜いた人々の思いでもある。
一方、映画ではユダヤ人を救い出そうと努力する名も無き人々の姿も描かれている。
ジャガイモを積んだ荷馬車を引いていたザレフスキはポーランド人であり、コルチャックの孤児院に20年以上務めていた。
彼は実在の人物であり、その後ユダヤ人に不要な恩を尽くしたとしてドイツ兵によって射殺されるのである。
また、監視兵の目を盗んでユダヤ人のためにパンを配っていた路面電車のポーランド人車掌は、ドイツ兵に呼び止められると散々殴打された上に射殺された。
ワイダ監督自身ポーランド人であるが、こうしたユダヤ人のために命懸けで助力した少数派の人々の存在も描き出したかったに違いない。
多くの悲劇を生んだ凄惨きわまるホロコーストの渦中にあって、人間の尊厳を守るために立ち上がり、抗議し、苦しむ人々のために命懸けで手を差し伸べた人々の事を決して忘れてはならないと思うのである。
「コルチャック先生」についてはご存知の方も多いかと思うが、第2次世界大戦中ナチスによる凄惨なホロコーストの渦中にあって、子供たちの人権を守るために最後まで戦い抜いた偉大な教育者として今やその名は世界中に知られている。
彼は、第2次大戦前から本国ポーランドはもとより隣国ドイツでも名の知れた教育者、小児科医であり、慈善活動家でもあった。
「ヤヌシュ・コルチャック」という名前は実はペンネームであり、本名はヘンルィク・ゴールドシュミット博士といった。
しかし、彼が最も力の入れたのは当時ワルシャワ市内にあったユダヤ人孤児院の院長としての活動であった。ユダヤ人であった彼は貧しくまた差別の対象とされてきた子供たちに常に手を差し伸べようと尽力したのである。そして、自らの執筆活動で得られた収入はすべて孤児院の子供たちのために充てられたのである。
また、映画の冒頭シーンにあるように、当時ワルシャワで放送されていた子供向けの連続ラジオ番組「老博士のお話」のホスト役としても多くの子供たちに親しまれる存在であった。
そんなある日、ラジオ局の部長から突然番組の打ち切りを打診される。
コルチャック博士がユダヤ人であることを理由に経営陣や出資者からクレームがついたのである。
1936年当時、ポーランドは隣国ナチス・ドイツの不気味な影に脅かされていた。それまでポーランドは歴史的に見てもユダヤ人に寛容な国であると言われており(例:カリシュの法令)、ユダヤ系住民と非ユダヤ系住民は長年手を取り合って共存を図ってきたのだが、ここにきてその関係に亀裂が生じようとしていたのである。
そして1939年9月のドイツ国防軍によるポーランド侵攻が開始されると、ユダヤ人の社会的立場はいよいよ窮地に立たされるのであった。
占領後間もなくナチスの秘密警察であるゲシュタポの主導でユダヤ人たちはワルシャワ市内に置かれた人種隔離区域(ゲットー)への移住を強要される。
コルチャックは200人の子供たちとともにゲットー内に移動するが、その途中でドイツ兵に大量のジャガイモを積んだ荷馬車を奪われてしまう。
このジャガイモは2週間分の子供たちの食糧であり、コルチャックが懸命に探し回ってようやく確保した貴重な食糧であった。
この理不尽きわまりない仕打ちに対しコルチャックはドイツ兵の上官に必死に返還するよう強く訴えるが、逆に生意気だと言われ散々に足蹴にされた挙句、留置場に入れられてしまう。
留置場では、かつてコルチャックをクビにしたラジオ局の部長も収監されており、思わぬ場所で二人は再会することになる。部長が自分のことを恨んでいるのではないかと訊いたのに対し、コルチャックはそれを否定。「強くなりなさい」と語り最後まで彼を励まし続けたのである。
その後、コルチャックは彼を尊敬するドイツ人軍医の取り計らいによって釈放されるが、コルチャックは最後までドイツ語で話すことを拒否した。
また、コルチャックはゲットー生活を通して、ユダヤ人であることを示す腕章を付けることを拒否し、士官用の軍服を着込んでいた。
敵が理不尽に強要するものにはことごとく反発し、ユダヤ人を裏切ったポーランド軍の軍服を着込むことによって、「この裏切りを忘れまじ」との強い反骨精神の意思を表したのである。
一方、コルチャックは子供たちにとって最大の理解者であり続けた。夜に突然銃声が鳴り響くと、これに怯えて寝ることができない子供を安心させるために子守唄を歌い、手を優しく握るのであった。
ワルシャワゲットーでは食糧の配給が行われていたが、一日に配給される食糧はわずか180キロカロリー。つまり成人が必要とする摂取量の10分の1にも満たないというものであった。
ゲットー内のユダヤ人は慢性的に飢餓と伝染病に苦しんだ。
ドイツ兵たちはワルシャワゲットー内に入ってはユダヤ人たちが苦しむ様子をカメラで撮っては記録していた。
これらの映像はドイツ国内で流すプロパガンダ映画用のもので、ドイツ国民に対してユダヤ人がいかに不潔で生きるに値しない民族であるかを喧伝するために撮影したのである。
このような過酷な環境にあって、コルチャックは子供200人分の食糧を確保するために毎日朝から晩まで大きな布袋を担いで、ゲットー中を回っては食糧を求め歩いたのである。
小柄で年老いた体。しかも心臓病を患っており、本来であれば無理をすることのできない体である。
しかし、コルチャックは常に子供たちの事を最優先に考えていた。
子供たちを守ることに必死だったのである。
戦争だとか、人種差別だとか、こうした事は大人たちの身勝手によって作り出された理不尽な秩序である。
子供たちの罪なき世界とまったく相容れない愚かな秩序である。
コルチャックは愚かな大人たちが子供の領域に土足で踏み入れようとするのを、身を挺して守り続けたのである。
実際、孤児院の子供たちの生活は喜びに満ちていた。コルチャックは子供の自治を大幅に認めていたのである。
月に一回、「子供裁判」が開かれ、子供たちが裁判官や陪審員に扮して民主的な裁判が行われたのである。時には、女の子を叱ったコルチャックに「有罪判決」が下されたこともあった。コルチャックがこの判決に服したことは言うまでもない。
子供たちの間では、日常的に無邪気な喧嘩や時には恋愛とかもあった。
それは今の平和の時代の日常とほとんど変わりのない風景である。
こうして、「何気ない平和の日常」はコルチャックの陰の努力によって守り抜かれたのである。
ある日、孤児院に新しく入ってきた少年が「コルチャック博士ってどんな人なの?」と年長の少年に尋ねる。
すると年長の少年は「コルチャック博士は最も偉大なポーランド人」だと胸を張って答えるのである。
しかし、その偉大なコルチャックとて、神様ではない。時々、一人の時に酒を飲んで心を落ち着かせるシーンがあった。
たしかに、人間の弱さを描くことも、生身の人間性を出すためには必要なことであると思う。
また、ユダヤ人の中には、民族を裏切って影でゲシュタポと密通して羽振りのいい生活をする「芸術家集団」と呼ばれる人たちもいた。
コルチャックの知り合いのシュミットという男も「芸術家集団」の一人で、彼の口利きによりコルチャックは一夜にして多くの寄付金を手に入れることになる。
その後、それを見ていた「抵抗組織」の活動家たちは、裏切り者から施しを受けていたコルチャックを糾弾するが、これに対しコルチャックはこう答えるのである。
「子供たちを救うためなら、私は悪魔にも会う」と。
そして、運命の日がいよいよ訪れる。
1942年8月6日。
コルチャックと200人の子供たちは、ドイツ兵の命令により、孤児院から強制収容所へと移送されることになった。
コルチャックと女性教師のステファは、これがどのような事を意味するかわかっていたが、ステファは努めて平静を装い、子供たちにこう言い聞かせるのである。
「みんな、これから遠足に出かけます。一番いい服を着て、カバンを背負ってね」と。
強制収容所に連行されるとき、周囲のユダヤ人たちは動揺や恐怖によって押し合いへし合いするが、コルチャックと子供たちの一団は「ダヴィデの星」が描かれた旗を掲げ堂々と行進してゆくのである。
先頭には軍服を着込んだコルチャックが子供たちの手を取りながら、時に子供たちを宥めながら前を進んでいった。
彼らは「集荷場」と名付けられた駅から家畜専用の貨車に乗り込み、「トレブリンカ抹殺キャンプ」と名付けられた収容所へと向かって行ったのである。
そして最後のシーンである。
収容所へと向かう途中で突然貨車の連結部が外れて、一台の貨車が野原の真ん中に取り残される。
そして、笑みを浮かべた子供たちが貨車から次々と飛び出していく。
「解放された」コルチャックと子供たちは喜びに満ちた表情で光の導かれるままに彼方へと歩いてゆくのである。
このシーンついては、一部の批評家から歴史的事実を歪曲するものだとしてクレームがついたようである。
これに対しワイダ監督は、コルチャックと子供たちの最期については誰もが知っている悲惨な事実である。しかし、そんなシーンを作る勇気など私にはなかったと、話している。
このことについては、多くの人がきっと監督の立場に同意するであろう。
一体、誰が子供の悲惨な最期を望むというのか。
我々はナチスという巨悪によって多くの罪なき子供たちが殺害されたという否定しようもない事実を知っている。
しかし、子供たちの魂までナチスが奪い得なかったことは明白であるし、それを望み続ける事がせめてもの生き抜いた人々の思いでもある。
一方、映画ではユダヤ人を救い出そうと努力する名も無き人々の姿も描かれている。
ジャガイモを積んだ荷馬車を引いていたザレフスキはポーランド人であり、コルチャックの孤児院に20年以上務めていた。
彼は実在の人物であり、その後ユダヤ人に不要な恩を尽くしたとしてドイツ兵によって射殺されるのである。
また、監視兵の目を盗んでユダヤ人のためにパンを配っていた路面電車のポーランド人車掌は、ドイツ兵に呼び止められると散々殴打された上に射殺された。
ワイダ監督自身ポーランド人であるが、こうしたユダヤ人のために命懸けで助力した少数派の人々の存在も描き出したかったに違いない。
多くの悲劇を生んだ凄惨きわまるホロコーストの渦中にあって、人間の尊厳を守るために立ち上がり、抗議し、苦しむ人々のために命懸けで手を差し伸べた人々の事を決して忘れてはならないと思うのである。