長崎県の佐世保市でまたしても悲しむべき事件が起きてしまった。
女子高生が友人を殺害し、死体を損壊したのである。

この異常な事件は全国を震撼させたが、何故少女はこのような残忍な犯行に及んだのだろうか?

少女は長崎県内でも有数の進学校に通っていた。また、スケート競技で長崎県代表として国体にも出場した経験もあるという。
このように文武両道に秀でた優等生タイプの女性が何故未曾有の犯罪に手を染めたのか、たしかに理解しがたい部分がある。

一説には実母が病死してから幾ばくも経たないうちに、父が新しい女性を連れて来たことに対し、激しい怒りの中で自己を喪失していったとも言われている。

まったく、若い頃というのは精神的に揺れ動きやすい時代である。
不安定であるがゆえに、周囲の状況によっては善にも染まれば悪にも染まる。憑かれたように流行を追いかけたり、はたまた刹那的な衝動に駆られたりする。

結局、それは大なり小なり皆が似たような経験をしていくわけであるが、ごく稀に大きく道を外れて曲線状に逸れて行くものもいる。

それにしても、誰も少女に正しい道を示さなかったのだろうか。それともひたすら耳を塞ぎ続けたのだろうか。

いつもの友情の直線中であっても、或るきっかけで一瞬にして長年の信頼が失われ、やがて疑念に変わり、さらに怒りや恨みに増幅してゆく。

相手との距離感が近ければ近いほどに感情の振れ幅が大きく揺れ動くわけである。
そして、一人に対するひとつの不信感から、やがて社会全般に対する恨みへと昇華していくとき、ちょっとした衝動で思いもしないような罪深き行動へと突き動かされていくのだろう。

いずれにしてもこれこそ不幸の連鎖に相違ない。

しかし、ここで少し落ち着いて考えてみるのだが、そもそも、われわれは他人についてどれだけの事を知っているのだろうか。

おそらくは全体の10パーセントも知らないはずである。

一瞬一瞬に変化していく人の心というものを、ましてや他人の心の動きを瞬時に読み取れると一方的に確信したところで、それは思い込みに過ぎないはずである。
多くの期待を背負った者というのは、その反動で多くの期待を他人に向けるものなのかもしれない。

また、過去にいかに不幸な経験をしたとしても、人によって経験をバネに前進する人もいれば、それに囚われて後退し続ける人もいる。

トラウマという言葉が安易に使われているけれど、そもそもトラウマは実際に存在するのだろうか。

トラウマにしても自らに立ちはだかる壁にしても、己のニーズに応じて作り出された虚構と捉えるべきであろう。

自分を解放し、他人をも解放する事。

あの青い澄み渡った青空を見ていると何だかできそうな気がするではないか。

いずれにしても、自分の力で前進する勇気と、他人に踏み込みすぎない心の優しさを持つことが大切であると思う。

自分の周りに一本一本、丁寧に花を植えるような気持ちで。