アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチが生まれた当時、カラジョルジェ家の最大のライバルであったオブレノヴィッチ家がセルヴィアの政権を握っていたため、彼は父ぺタールの亡命先であるぺテルブルクの宮廷で育てられた。
そこで彼はロシア・ロマノフ帝政末期のツァーリズムの専制的資質や、革命の過激的要素を目の当たりにしてきた。
そして、1903年の青年将校団によるアルクサンダル・オブレノヴィッチ国王の暗殺の結果、父ぺタールが国王になると、祖国の軍部や政党の影でそれらに多大な影響をあたえている過激分子の存在に度々気づくようになった。
ロシア時代に過激分子の恐怖を直に感じてきた彼にとって過激分子の根絶と、国王の専制に基く完全な中央集権体制を敷くことは重要な政治理念であり、祖国繁栄の絶対条件であると考えていた。
であるから、「ツルナ・ルカ」の指導者であり、当時軍の最有力者と目されていたディミトリエヴィッチ大佐の危険性を素早く察知すると彼はただちに自ら行動に出た。
1916年彼は「ツルナ・ツカ」を糾弾して指導者を一斉検挙し、これらを早々に処刑したのである。
一方、国内情勢は大変逼迫しており、同国は1913年末以降、三国同盟軍の占領下に置かれており、1918年に首都奪還を果たすまでは厳しい状況にあった。
しかし、これとは裏腹に全南スラヴ系民族による単一連邦制国家建設の気運が高まりつつあった。
ダルマチア出身のクロアチア人トルンビチによるユーゴスラヴ委員会もこの気運を盛り上げたが、何よりも皇太子アルクサンダル自身がこれをもっとも望んでいた。
こうしてこの年の4月、皇太子は早速当時ロンドンに本拠地を移していたユーゴスラヴ委員会の面々とパリで会見をおこなった。
そしてこのことが大スラヴ主義者であったセルヴィア首相パシチを後押しすることとなり、翌年7月には彼自身がトルンビチを当時セルヴィア軍の本拠地であったコルフ島に招くことになった。
そして長い協議はあったが、戦後カラジョルジェヴィッチ朝のもとで立憲君主制をおこなうことを条件に単一南スラヴ系国家が建設されることになった。
そしてさらに1918年の10月末にはジュネーヴにおいてバシチ首相、トルンビチ、そしてザグレヴで統一運動を行い事実上政権を掌握していた三民族評議会の指導者であるコロシェツの三人が集まり「ジュネーヴ宣言」を採択した。
宣言では、「単一国家にするが単一の立法議会が開かれるまではそれぞれの領域において主権を行使する」という内容が盛り込まれたが、のちにそれは統一後ただちに国民議会が開かれることになった。
そして、1919年1月に新政府が発足し、国家元首にアレクサンダル・カラジョルジェヴィッチが、首相にはセルヴィアからプロティチが、副首相にコロシェツが、外相にトルンビチがそれぞれ就任した。
新政府はこの年の2月に戦後の事態収拾のためまず土地改革を実行し、翌20年12月には初めての選挙を行った。
しかし、この選挙結果は新政府にとって満足のいかないものであった。
国民、とくにクロアチア人は連邦制を強く望んだのである。
であるからこの選挙で連邦制を要求していたラディチ率いるクロアチア農民党は意外に議席を伸ばした。
これに危機感を抱いた政府は中央集権制を強化するための新憲法の作成を急いだ。
しかし、この憲法作成に第一党の民主党の多数派と農業党が反対し、クロアチア農民党にいたっては議会そのものをボイコットした。
これによって政府は窮地に立たされたが、イスラム党とスロヴェニア人民党を抱き込んでようやく成立に漕ぎ着けた。
新憲法は1921年の聖ヴィドの日に発布したことからヴィドヴダン憲法と名づけられ、圧倒的なセルヴィア人贔屓のものとなった。
そのためクロアチア人をはじめ多くの非セルヴィア人は次第に反中央反セルヴィアを掲げるようになった
。そして1924年には民主党多数派とクロアチア農民党が結束してパシチ率いる急進党政権と闘う姿勢をあらわにした。
そのため与党はラディチの転覆を模索し、彼がモスクワでコミンテルンと接触したことを槍玉に挙げて彼を投獄し、党を解散させた。
しかし、パシチが1926年に死ぬと、ラディチらは再び攻勢に出、旧民主党少数派を吸収して完全に急進党・スロヴェニア人民党連立政権との二極化構造を作り上げた。
だが、1928年突然この構造は崩壊する。同年6月20日、議会中にモンテネグロ出身の急進党議員が突然農民党議員を発砲、これによってラディチは凶弾に倒れ帰らぬ人になった。
この事件は党派間を超えてナショナリズムに火をつけクロアチア出身の議員が一斉に郷里に戻って反セルヴィアを掲げることになってしまった。
国王はこれに危機感を感じ、ラディチの後継者であるマチェクと協議して、与党の譲歩を模索することになった。
しかし、与党がこれを拒否したため、国王は突然憲法を廃止し、議会を解散させ、全政党を禁止して、自らの独裁体制を樹立。
国名をユーゴスラヴィア王国とした。
この意図は第三者的自分が強い独裁を敷くことによって国家を一体化し、愛国心を育もうとするところにあったが、結果的に反って大セルヴィア主義を助長させることになってしまう。
さらに彼の制定した憲法や実施した選挙も圧倒的なセルヴィア人有利をひきだしてしまい、さらに憲法の圧制的な要素はセルヴィア市民の反感をも募らせた。
そのため国王があれだけ恐れていた過激分子へ刺激を与える結果となってしまい、1934年10月9日にマルセイユで彼はフランス外相バルドゥーとともにマケドニア出身のヴラーダ・チェルノザムスキーに暗殺されてしまったのである。
この暗殺にはマケドニアの独立と、反大セルヴィア主義の過激派組織IMROまたは、クロアチア人系のファシズム組織ウスタンの関与が濃厚だといわれているが定かではない。
因みにチェルノザムスキーは暗殺実行後、付近の観衆や警官のリンチに遭い殺された。
