シャーロック・ホームズの生みの親であるサー・アーサー・コナン・ドイルは、生涯60篇もの本編を世に生み出した。
今では彼の名はシャーロック・ホームズの名とともに世界中に知れ渡るまでになったが、デビュー当時から人気作家であったわけではなかった。
実は最初の作品である「緋色の研究」(1887年出版)と、二番目の「四つの署名」(1890年出版)は不発で、ようやく売れ始めたのは1891年7月号の「ストランド・マガジン」に掲載された「ボヘミアの醜聞」からであった。
とにかく最初の2作品は書評家の槍玉にも上がらず黙殺という形で闇に葬り去られた。
彼はやがて一人の同じ中心人物をめぐって一連の短編を書くという斬新な趣向を思いつき、これを実践した。
これが「シャーロック・ホームズ」シリーズとなってその後流行作家となったわけであるが、当の本人は始めから連載には乗る気ではなかったらしく、最初の短編集「シャーロック・ホームズの冒険」の最終編で早くもホームズを殺そうと考えていたのである。
この時は実母の説得で回避されたものの、翌1892年に「最後の事件」という作品で、とうとうホームズを抹殺してしまう。読者は茫然自失となって、涙を流し、お堅いシティーの金融マンまでもが帽子に喪章をつけて通勤する騒ぎとなった。
読者のこの反応に一番驚いたのは作者本人であって、こういう形で初めてこの作品の盛況ぶりを実感したのである。
しかし、彼はこれほどの読者の反応にもかかわらず、8年後の1901年になるまでホームズを復活させなかった。
その理由とは、彼にとってホームズという存在は新しい分野で想像力を発揮するための大きな障害であったからである。
そしてその意志はとても固く、高価な誘惑や読者の嘆願をも跳ね返したのである。
こうして時は流れて20世紀、彼はようやく自分の意志で「ホームズ物語」を復活させる気になり、1901年8月号の「ストランド・マガジン」に復活第一号である「バスカヴィル家の犬」を発表した。
これはシリーズ最高の売上を記録し、発行部数も3万部にまで跳ね上がった。
しかし、これは本当のホームズの復活ではなく、飽く迄「死ぬ前に取り扱った事件」という名目であった。やはりドイルは心から復活させようという気にはならなかったのである。
ここには確かにサー・アーサーの強い意志が感じられるが、それでも着実にその意志は時が経つにつれて弱まっていた。事実1901年8月31日号の「ハーパース・ウィークリー」の中で彼はこのように言っている。
「私の友人ワトソン博士が絶対に信頼のおける人物であることはよく知っていますから、スイスのある惨事の物語に絶対の信頼を寄せていました。もちろんワトソン博士が間違っていることもあり得ましょう。
絶壁から落ちたのはホームズ君ではなかったかもしれません。あるいは、すべては幻覚の所産だったかもしれません。」
そしてついに1903年10月、「空家の冒険」が発表されてホームズは復活した。
当然ファンは狂喜するが、筆者はこのファンの期待に束縛されて1927年に引退するまでのべ60編の物語を書くことになる。
「60篇」とは偏に言うもののシリーズものでここまでロングランになった小説は現在でもそう多くないだろう.。
言うまでもなく、ここには筆者の多大な努力と熱意、そしてファンに対する愛情が如実に現れている。
小生はこの世に素晴らしい主人公と物語を生んでくれた偉大なる筆者に心から感謝したい。
