◆ひどく消耗する仕事を終え、張り詰めた気分を持て余していたら、関わっているマッサージサロンの女の子から誘いの電話があった。

いいタイミングである。

いそいそと誘いに乗って、数人で連れ立ち、最近気に入っている、馬鹿騒ぎのできるショーパブに繰り出した。

満開

夜の12時過ぎに入って、朝5時過ぎまで、飲み、騒ぎ、踊った(写真の男の子はマッサージ店の店員。21歳。いわゆる「夜の店」は初めてだとのこと。このページを現在彼がつきあっているという17歳の彼女が偶然発見することを祈ってアップしておく)。

明け方、始発電車で帰る頃には、神経の緊張もすっかり緩和して、爽やかで明るい気分になっていたのだった。


◆1時間半眠り、企画会社のM社に向かった。今日は、午前中、ある家電メーカーの販促キャンペーンのプレゼンがあったのである。

頭の2割くらいしか働いていない状態だったが、いつもよりむしろ滑らかに話すことができたように思う。

準備さえ万端なら、プレゼン当日については、ほとんど「反射神経」で対応した方がいいのかもしれない。


おれの頭は、常日頃から「膨大な無駄」を抱えて、常時スパークしている状態にある。

無秩序なお喋りには向いていても、ストーリーからはみださないように系統立てて何かを説明をするには、あまり機能的とはいえない代物なのである。


◆夜。某コミュニティサイトで知り合った女の子と、飯を食いに行き、数時間言葉を交わした。会うのは初めてだったのに、言葉を交わしているあいだ、ずっと、とても懐かしい気分を感じていた。

外国で、久しぶりに、自国の言葉を聴いているような気分だった。

彼女は、「こんなに素で話せるのは久しぶり」と言っていた。おれも、同じだ。

おれはコミュニカティブな人間だが、それでも(それゆえに?)友だちになれる相手なんてめったにいない。

彼女は、もしかしたら、とてもいい友だちになれるのかもしれない。そう予感したのだった。

寒い中、少し離れた駅まで歩いて帰った。

別れ際、“じゃ、また遊ぼうね”と、子供のように、そう言い交わした。

◆7時過ぎに目が醒めた。寒い。窓を開けると雪が積もっている。やばい。なんか愉しい。愉しい気分のまま二度寝する。次に目が醒めたときには11時過ぎだった。


雪


◆少し前ならこんな日は部屋でぬくぬく過ごすところなのだが今日はひとつどうしても外せない仕事の予定があった。

某宗教団体の「切り取り」である。

詳細は一切省くが終わったときには数年分の神経が磨り減ったような状態になっていた。

攻撃的な衝動が治まらないまま、現在。さて、これからどうしようか、とすこし途方にくれたような気分でいる。

◆月曜から金曜まで、一週間、沖縄の那覇市に滞在した。恒例になった月1回の出張である。これまではずっと二泊三日に収めていたが、今回は一週間だ。

たいした業務があるわけでもないのだが、せっかく厳寒の名古屋を離れ、南国に行くことができるのだから、できるだけ滞在時間を延ばしてやろうという魂胆である。


中部国際空港から二時間強のフライトを経て、那覇空港。穏やかで温暖な空気に包まれて、一気に気分が高揚した。

名古屋が最低気温マイナス1-3度、最高気温7-8度といったこの時期に、沖縄では最低気温7-8度、最高気温は18度以上にもなる。これは、名古屋でいえばちょうど晩秋くらいの、一年のうちでももっとも過ごしやすい季候になる。

寒さで縮こまっていた心身がフワッとほぐれるような解放感があった。


浮ついた気分になって、「気持ちいいよぉ」という無内容なメールを、誰彼かまわず送りまくった。

勢いにまかせて、一年くらい連絡を取っていない、昔の仕事仲間の女の子にも、こんな文面のメールを送信した―「今週1週間は仕事3割、遊び7割って感じで、沖縄の那覇市に来ています。こっちはちょうど10月くらいの陽気で、涼しくて、とても気持ちがいい。快適で、何もしなくても、なんだか愉しい気分になってきます。名古屋は雪が降ったみたいですね。あたたかくして風邪など引かないように気をつけてね。では」。


10分もしないうちに返信が帰ってきた―「お久しぶりです~!こっちはこの冬一番の寒さですよ~。さっきなんて吹雪いてたし。沖縄なんてうらやましい~。私は相変わらずです。いいな~。ゆっくり満喫してきてください。あ、少しは仕事もあるんだ。危ないことはしないでくださいね!」。

そういえば彼女とよく遊んでいた頃、ちょうど1年位前には、やたら「危ない仕事」が多かったんだよな、と懐かしく思い出した。


◆2日目の夜、那覇に行くたびに通っている、松山のキャバクラに行った。

11月6日の日記に、「松山のキャバクラに、ひとり、とても気に入っている子がいる」と書いた、その女の子に会うためにである。

いまや、おれは、「その子に会うために」、沖縄での仕事を、ほとんどむりやりこしらえているようなものである(まぁしかし、動機は不純であれ、仕事の方もそれなりには形になりつつあるが…)。


今回も、10時に入って、3時まで、ずっと指名を通して、彼女と喋って過ごした。

どれだけ喋っても、飽きることがなく、話が尽きない。疲労を感じることもなく、話せば話すほどわくわくした気分が高まっていく。

おれが話している時間が長いのだが、客という立場を利用して、一方的な饒舌を浴びせているというわけではない。

おれの思い込みによる錯覚でないとすれば、彼女も、接客という枠を越えて、純粋におれとの話を愉しんでくれているようである。


午前3時ちょっと前。

―「また今日もひとりでよく喋っちまった」

―「ううん、愉しかったよ」

―「そう?無理してない?(笑)」

―「してないって。ほんと、すごくいいよ、Mさん(笑)」

―「そうか。おれもさ、一人で喋ってると消耗するんだけど、きみに話してるとぜんぜん疲れないんだよね(笑)」

―「そうなの?」

―「そう。だからさ。おれが一方的に喋り散らしてるわけじゃないんだろうなぁ、と(笑)。おれ、どんなこと話すか、あらかじめ考えてるわけじゃないからさ。きみといると、自動的に、おれときみの間に言葉が発生するっていうか。即興のセッションしてるみたいなもんだよね。そのグルーヴが気持ちよくて、ぜんぜん消耗しないわけさ」


◆内田樹の『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』に「第三者としての欲望」について語られている箇所がある。

おれが喋った「自動的に、おれときみの間に言葉が生まれる」という事況について、ずっと精密な論述がされているので、以下に引用する。


―「対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかし、そんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を、「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。そして、あなたがあるセンテンスを語り終えたそのときに、私はあなたの口からそのセンテンスが語られる日をひさしく待望していた私自身の欲望を発見するのである。


語る側についても同じことが言える。ある論件について、あなたにかねてからの持論があったとする。それをなかば機械的に再生しているうちに、聴き手がその意見に同意していないことがその表情から明らかになってくると、あなたはいささか慌て出す。そして、なんとかこの相手がにこやかにうなずきながら話を聴き終えてくれるように、微妙な「軌道修正」を始める。ことばを選び、音調を変え、緩急の変化をつけているうちに、あなたはいつのまにか「はじめに言おうとしていたこと」からずいぶん隔たった地点でセンテンスを語り終えている自分を発見する。

では、このセンテンスを語ったのは、いったい誰なのだろう?それは厳密に言えば、あなたではないし、むろん聴き手でもない。強いて言えば、それはあなたが「聴き手の欲望」と見なしたものの効果である。


私とあなたの対話において、あなたは「私の欲望と見なしたもの」を配慮しつつことばを調整し、私はあなたのことばのうちに私自身の欲望を発見する。けれども、それは「私の欲望そのもの」ではない。なぜなら、私はそれが「私の欲望」であることを、あなたのことばを通じて教えてもらったからである。

この「欲望」には実体がない。その出自は私のうちにも、あなたのうちにもないからだ。それは、「どこか別のところ」から到来したものである。

だから真の意味での対話における登場人物は二人ではない。私とあなたが対話を交わしているとき、そこには、私と、あなたと、「欲望」の三者が居合わせている。

欲望とは、誰のものであれ、本質的に「第三者」なのである。そして、対話はこの「第三者」を私とあなたが対面している閉じられた状況に外部から呼び入れるためにうやうやしく執行されるのである」。


◆「ふたりでいる」とは、それぞれがそれぞれの「自分」を脱け出て、相手の方へと踏み出していく、その不断の歩みのことをいう。

そして、「ふたりでいる」ことを続けることでのみ、「欲望」という、得体の知れない、途方もない「第三者」と触れ合うことができる。

「ひとりでいる」かぎりけっして味わえない、深い創造性を味わうことができるのである。


中沢新一が『リアルであること』という著作のなかで、すこし違った文脈ではあるが、同じことを言っている箇所がある。これも、引用しておく。


―「普通、ぼくたちは恋人同士になる場合でも、好きとか嫌いとか、そんな程度の意識交換で、相手のことを所有したり縛ったりという関係に入りますけど、本当は「あなた」は、ぼくにとって絶対にわからない存在なんじゃないですか。じつは底知れない、わかりようのないものを目の前にしている。だけど、現代の人間関係というのは、そんな底知れないものを相手にしないようにしているんですね。表面的なところで言葉を交わし、「ぼく」とか「あなた」とか言っているけれど、もしその「あなた」というものの体験を問いつめていったら、深い恐ろしいところにたどりついてしまうんです。

これは意識するしないとにかかわらず、人間ならみんな抱えている問題です。なにか底知れないものが、自分の外にも内にも「あなた」という形で存在しているということ。それが人間の宗教行為の原点で、みんな無意識のうちにそれを感じとりながら、それが見えないようにして日々を生きてる。深みにはまらないようにしてね。

だから、いまの夫婦や恋人、友人、どれをとっても、本質的なつながりをもたない同士がほとんどでしょう。そこには、本質的なつながりがないんです。

だけど、もしも「私」と「あなた」ということばのほんとうの意味をとらえることができたなら、そこにはほんとうに絆ができてくる。そして、このときの「あなた」体験が、じつは「神」の体験ということにつながっていく、自分にはとらえられない絶対的なものが、そこには確実に存在するという感覚、そういうものが人間の意識の根本にはつねにあって、だからこそ、神はなくならない。いつ人とともにあるんですね。

もちろんそれをないものとして生きることだって可能です。けれど、その場合には、人間はことばを交わしていても対話はしていないし、意味のあることばは何一つ語っていないことになる。会話も不可能、恋愛も結婚も不可能。それでいて、ことばはあふれ、みんな恋愛し、結婚している。でも、それは意味のない世界です。もしそこに意味のあるものが必要だと思ったら、自分のなかや眼前の相手にたいして、「あなた」というものの深さを知らなくてはいけない」。


ここで「神」といわれているものは、先ほどの内田樹の文脈でいえば、もちろん「第三者としての欲望」ということになる。

「自分にはとらえられない絶対的なもの」=「ふたりでいる」という深い体験を通してのみ触れることのできる「第三者としての欲望」。


◆沖縄滞在4日目の夜、その子と、その子の友だちと3人で、店外で食事をした。

沖縄の伝統的な舞踏を鑑賞しながら食事ができる「四つ竹」という料亭で、その子が奢ってくれた(食事は伝統的な沖縄料理で、沖縄料理の「健康的かもしれないが美味しくはない」という印象が変わった。美味しかった)。

来年の2月、その子とその友だちとで、沖縄を出て、札幌~東京で暮らす予定を立てているらしく、それで「Mさんの話、その子も絶対興味深いはずだから」というので、場をセッティングしてもらったのである。


しかし、その友だちの女の子は、沖縄を出て、札幌、東京に行くということについて、すこしトーンダウンしている様子で、あまり話が盛り上がらないまま終始してしまった。

ある種の人間にとって、住処を変えるというのは、そんなに重いことなのだろうか。そうなのかもしれないなぁ、などとぼんやり考えた。

時間が短かったこともあって、すこし挑発的な言葉を掛けてみたが、あまりのってくれなかった。

自分の行き方を決めるときには、ひとりのなかに沈みたいときだってあるだろう。あまりしつこくしても鬱陶しがられるだけである。

けっきょく、ほとんど「演奏」できないままタイムリミットが来てしまった。せっかく場をセッティングしてくれた「興行主」にはもうしわけないような思いが残ったけれど、ううん、まぁ、仕方がない。


◆5日目、沖縄滞在最後の日。

那覇空港で、ビールを飲み、煙草を吸って、時間を潰した。

同行していたジョーイと浅野と3人で、下らない与太話を交わして腹を抱えて笑いながら、ふと、ああ、このまま帰りたくないなぁ、という気分になった。

しばらくして、…ああ、そうか、これ、淋しいっていうじゃなかったっけ、とそう気づいた。

そう気づくと、胸に、懐かしい痛みの感覚が広がっていくのを感じた。

厭な感じではない。

しばらく感傷に浸りながら、名古屋、寒いんだろうなぁ、とぼんやり考えていた。


◆じっさい、すっげぇ寒かった(感傷に浸る余裕もぶっとんじまった)……

◆8日(木)

近しい関係にある探偵社の社長が、もうひとり別の近しい関係にある美容室の社長に騙されているという事実を知った。

探偵というのは、職業柄、慢性的な人間不信に陥っている。それにもかかわらず、いつも自分が仕掛ける側にいるのだという根拠のない思い込みをもっていて、騙されていることに気づかないままでいるといった間の抜け方をしている。

さて、その事実を知ったおれはどうするのか。

答えは、「なにもしない」だ。

おれのスタンスはいつも同じで、「誰にも付かず離れず」。おれ自身の利害にかかわりのないことについては、「基本無頓着」を貫いている。

そのスタンスが貫けるように、普段から、誰にどう評価されても関係ないと言い切れるように、自分のライフラインを多重に保持しておくといった「リスク分散」を心がけてもいる。

「あっしにはかかわりのねぇことで」という木枯らし紋次郎。


◆9日(金)

コンサル契約をしているコスプレマッサージサロンの店長と、そこで働いている女の子2人と、4人で忘年会をした。

うちの店(和風料理屋)でコース料理を食べ、ショットバーで飲んで、ショーパブで〆た。

ショーパブはここ最近気に入っているMen's Club。深夜0時のオープンで、客層としてはほぼクラブかキャバクラのアフターがメインの店である。

ショーは、グダグダのショートコントとダンス、客全員を巻き込んでのパラパラで構成されている。

キャストの人数や配置、盛り上げ方が巧妙なのだろう、ショータイムが始まると、客全員がその空気に巻き込まれ、「踊るアホウ」になり下がる。キャバ嬢も、着物を着たママも、会社の社長も、普通のサラリーマンも、やくざの親分も、例外なく立ち上がって踊りだすのだ。

じつに興味深く、また愉しい。

店長は酒は好きだが、馬鹿騒ぎは嫌いなタイプで、行く寸前まで入店を拒んでいた。それをおれと女の子2人で牽引して無理やり連れて行ったのだが、そんな店長もけっきょく店のハッピを着こんで踊っていたのだった。

ただ、慣れないことをやったせいだろう、普段ならありえない程度の酒量で完全につぶれてしまい、2時を過ぎたあたりで、席から姿を消してしまった。上着や鞄は置きっぱなしでである。

“店長、大丈夫ですかぁ?”“ううん、大丈夫、なんじゃない?”“大丈夫ですよねぇ”“うん、たぶんねぇ”と、何の根拠もなく“店長は大丈夫”なことにして、そのまま4時過ぎまで馬鹿騒ぎをつづけた。

4時過ぎに店を出て、“上着も鞄も置いたままどこいったのかなぁ”“あ、店近いし、店で寝てるんじゃないですかぁ?”と相談しつつ、店に向かうと、はたして店長は店のソファーで半目を開けたまま眠っていたのだった。

女の子たちが“きゃあ、かわいそう””ごめんねぇ”などと口にしながら、バスタオルをかけてやり、おれはソファーに置きっぱなしの財布をカウンターの裏に隠してやり、“じゃあねぇ”と店を後にした。


◆10日(土)

内田樹先生のブログの12月9日に、内田先生がゼミ生を選ぶときの選考基準について書かれている箇所があった。その部分を抜粋する。

―“私が重視するのは、「コミュニケーション感度」である。
こちらのモード変換にどれくらいすばやく反応するか、その反応速度でだいたい点数が決まる。
私の出す質問や脱線する無駄話の内容だけでなく、こちらの話し声のピッチやトーンや姿勢やテンションの変化といったシグナルを「どう読んだか」ということを見るのである。
コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。
これは別に私の趣味でやっていることではなくて、この構えは生物の個体としての「生存能力の高さ」に相関するからである”。
なるほど、「こだわらない・よく笑う・いじけない」―まさにそうなんだよねぇ、と強く共感、納得する。

おれなどは、この「コミュニケーション感度が高い」という1点をもって飯を食ってるようなものである。

でも、その1点をもって「飯が食える」=「経済価値が高い」ってことは、「どんな場面においても、こだわらない・よく笑う・いじけない」ってのは、それなりに希少な能力ってことになるのだろうか。

…ああ、そうかもしれない。


◆11日(日)

昨夜はひとりでキャバクラに行き、夜中まで飲み、その後サウナへ行った。

1時間くらい出たり入ったりしていると、体に残ったアルコールもすっかり搾り出される。

そのまま泊まって、眠り続けて、現在。12時間以上眠ったことになる。

爽快感。

今日はこれからどうしようか。

…とりあえず本屋に行こう。

◆さほど酒が強いわけでも、好きなわけでもないのに、ここのところ、毎晩明け方近くまで飲み歩いている。

つきあいで仕方なく、というのでもない。断ろうと思えば断れる。しかし断らないということは、おれは自らすすんで連日の痛飲を受け入れているのである。


◆愉しいといえば愉しいし、しんどいといえばしんどい。退屈といえば退屈だ。そんなことは、でも、どうでもいい。

自らの体感を通して、夜の街の生理をとらえたいという好奇心だけが、際立っている。


◆シュルレアリストで人類学者でもあるミシェル・レリスは、「私は憑かれた巫女を観察したいのではない、私自身が憑かれたいのだ」と云った。

おれも、そうだ。おれは、憑かれたいのだ。そのようにしてしか、わからないことがある。

宗教学者の植島啓司は、「自ら踊りつづけることでしか認識できない事象がある」と云った。


◆自ら夜の街の生理に共振して、「踊りつづけ」なければ、人々の消費行動のダイナミズム、金や女といったフェティッシュのもつほんとうの力は、認識できない。

酒で酩酊して舞い上がり、「仲間」と与太話を交わして引き攣ったように笑い合い、時によっては女の子と数時間の擬似恋愛に落ちる。

そんなことをくりかえしながら、頭のどこかで、おれは「経済の原動力」というものについて考えている。

連日のフィールドワーク。


◆昨日の夜。友だちのかかわっているクラブで、リザーブ席に座って退屈そうにワインを飲んでいた二人連れの女の子に声を掛けた。

話しているうちに、たまたま知り合いのデリヘルで働いている女の子だということが判り、それで共通の話題ができた。


友人のスネオ(仮名)と、4人で、明け方まで飲んだ。


二人連れは、ひとりはかなりの美人、ひとりはかなりの不細工だった。

その不細工な方が、ひどく落ち込んでいた。

「項垂れる」という表現がある。首に力が入らずに頭を支えきれなくなっている様子を指すが、なるほどこういうのを「項垂れる」というのか、といった風情。

大げさにそうしているというのではなく、そうせざるを得ないといった切実さが伝わってきて、ひたすら痛々しかった。


そのデリヘルには「チェンジ」というシステムがある。呼ばれて、現地に行ったとき、客がその女の子を気に入らなければ変更可能というシステムだ。

「不細工」は、よく、そのチェンジを受けるらしい。

ほとんどの客は、彼女に対し、申し訳なさそうにでもなく、無表情に、事務的な口調で、「あ。チェンジお願いします」と告げるのだそうだ。
あからさまに苛立った様子を見せて、「ああ、チェンジチェンジ。早くするように言えよっ」と吐き捨てる客もいるらしい。
噴出すように笑い出して、「まじ?」とだけ言ってドアを閉めた客もいたという。

「今日もチェンジを受けたんだよね。それはべつにどうってことはないんだけど…」

…ただ、現地が遠かったのがよくなかった、と彼女は言う。車で帰ってくるあいだ、無理にはしゃごうとした彼女に対し、運転手の男の子が「ち」と舌打ちをしたきり、黙ってしまったのだそうだ。
重苦しい車内の空気に押しつぶされるような時間が続き、その圧迫感を堪えていたら、ふと「私、何やってんだろ、って。急に限界がきた」。

涙を堪えたのは、そこで泣いたら、「本気で鬱陶しがられて、車から放り出されるかもしれない」と思ったからということだった。

スネオが、

“そりゃね、そこではしゃぐのはNGだよ。うん。そりゃ鬱陶しい、ね?Mさん”と笑って云った。

“うん。きみ、いい子みたいだから、重苦しい空気を緩和しようとして、はしゃぐふりをしたんでしょう?でも、はしゃぐふりをしてるやつって、とにかくうざいんだよね。そういうときはね、本気ではしゃがなきゃ”とおれが受ける。
“本気で?”と「不細工」がけげんそうな顔をする。
“そう。「またチェンジッだよおっ。記録更新だねっ。きゃははっ」みたいな。そんなふうに本気ではしゃいじゃえば、”とスネオにふる。
“殺したくなるでしょうね”―一同爆笑。

“だめじゃないですかw”
“ああ、だめだねぇ。もうね、どうしようもないね。やめたら?w”
“ああ、でもね、やっぱりいちばんお金稼げるし、なかにはいいお客さんもいるんですよ”
“え?お客さん相手したことあるの?”
“ああ。なんですか、それ。ありますよぉ。っていうか、チェンジって、やっぱり多いって言っても、そんなにはないんですよ”
“ああ、そうだよね。そりゃ、言いにくいもんなぁ。おれでも、ドアを開けて、きみがニコッって立ってたら、チェンジとは言わない”
“ほんとですかぁ?いい人ですね、Mさん”
“いい人だからじゃなくてね。おれはできるだけいろんな生き物と交接したいっていう欲望が強いというか”
“生き物ってなんですか!生き物って!w”
生きてるんだろ、おまえ?w”


◆明け方、家に帰り、風呂に浸かりながら、アルヴォ・ペルト『アルボス<樹>』を聴いた。
風呂から上がり、眠たくなるまでのあいだ、本棚の坂口安吾全集から、エッセイがまとまった巻を取り出して、拾い読みした。坂口安吾は、事あるごとに読み返している。読み返すごとに、自分のなかに「食い込んでくる」箇所が異なっているのだが、今日は、「ファルス」と「道化」について書かれた箇所が、特に目にとまった。

自分の置かれた状況を肯定する、ということについて書かれた文章である。


“道化の作者は誰に贔屓も同情もしない。また誰を憎むということもない。ただ肯定する意外には何等の感傷もない木偶なのである。憐れな孤児にも同情しないし、無実の罪人もいたわらない。ふられる奴にも助太刀しないし、貧乏な奴に一文もやらない。ふられる奴は散々ふられるばかりだし、みなしごは叔母さんに殴られ通しだ。そうかと思うと、ふられた奴が恋仇の結婚式で祝辞をのべ、死んだ奴が花束の下から首を起こして突然棺桶をねぎりだす。別段死者や恋仇をいたわる精神があるわけじゃない。万事万端ただ森羅万象の肯定意外に何物もない。どのような不合理も矛盾もただ肯定の一手である。解決もなく、解釈もない。解決や解釈で間に合うなら、笑いの国のお世話にはならなかったはずなのである。“~「茶番に寄せて」


“ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関するかぎりの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言ってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだよを肯定し―つまり全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかしけっして矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである”。~「FARCEに就て」


◆ところで、贋魚さん、私の私的な日本人の作家ベスト3は、川端康成、坂口安吾と、もうひとりはその時どきで変わります。

全集を読んでいる作家でいえば、二葉亭四迷、幸田露伴、夏目漱石。明治の作家ばかりですね。

単に好きということなら、谷崎潤一郎、永井荷風も好きですよ。ベストと訊かれたとき、「単に好きという作家を選びたい気分」のときは、入るかもしれません。

現代の作家も含めるなら、小島信夫、中上健次、村上龍、車谷長吉、保坂和志、高橋源一郎、橋本治、阿部和重、中原昌也。このいずれかになります。

作家を小説家ではなく、著述家という意味で広くとるなら、さらに柳田國男、折口信夫、南方熊楠、澁澤龍彦、種村季弘、松岡正剛、荒俣宏、小松和彦、中沢新一、植島啓司、鷲田清一、伊藤俊治、内田樹、甲野善紀、吉本隆明、栗本慎一郎、柄谷行人。いま思いつくままに挙げましたが、まだ漏れているかもしれません。



◆愛読している内田樹先生のWEB日記(http://blog.tatsuru.com/ )の11月29日分に、“あまり知られていないことだが、忙しすぎると「かえって楽」という倒錯が生じる”とあった。

そうだったのか。ここしばらく「最近なんだか楽…」と感じていたおれはこの倒錯に陥っていたのだ。


◆とにかく時間がまったくない。

基本的に労働意欲がないおれとしては、ちょっとでも「やらなきゃいけないこと」があると、過剰に「忙しい。うう、忙しい」とぼやきまくって周囲の人間に鬱陶しい気分を撒き散らすのが常なのだが、ここしばらくはそうやってぼやく暇もないくらい忙しい日々がつづいた。

どれくらい忙しいかというと、例えば、昨日を振り返ってみる。


◆朝6時起床。6時30分K社に出社。某ゲームメーカーと提携して開発している福祉機器にかかわる助成金申請のためのリポートを作成(1600字を10枚)。これに4時間かかりきる。

10時過ぎから某マーケティング会社から依頼を受けている名古屋の景況リポートの資料の整理。2時間。昼飯はサンドイッチ。10分。

昼食後すぐにフリーのスカウトマンの男の子と面談。30分。

13時過ぎ、悪徳弁護士=Iの事務所に移動。久しぶりに「借金返済カウンセリング」(取立て)の仕事で、「カウンセリングプラン」(取立ての絵図)の相談をする。1時間。

14時30分、ヒルトンのロビーに移動。不動産ブローカーのXと会って京都の地主情報を貰う。ついでに不動産ブローカーという仕事についてのレクチャーを受ける。3時間。

18時、某フレンチチェーンの専務と会食。クリスマス企画のプロモーション、新しく作るスィーツ専門店の事業計画についての話をする。

20時過ぎ、先週オープンしたマッサージ店に移動。女の子たちにスィーツを差し入れつつ、店長に女の子のリクルートについての媒体、施策の指示を与える。1時間。

21時30分、インテリやくざ=Tの事務所に移動。Tと特攻隊長=Xに、某宗教団体の「切り取りプラン」について、説明する。2時間。

23時、制作会社のM社の事務所に移動。溜まっていた雑誌広告の校正。1時間。

24時、某SMクラブへ移動。新しく出店する2号店のコンセプト、オペレーションについてオーナーと話し合う。ついでに女王様=永作博美(仮名)と雑談、向精神性薬物の興味深い情報を貰う。

午前2時帰宅。仕事の必要があって山田昌弘『希望格差社会』にざっと目を通す。1時間30分。午前4時、就寝。……


◆忙殺されるような日々がつづくと、必ず思い出す歌に、ユニコーンの『素晴らしい日々』がある。


―「素晴らしい日々だ/力あふれ/すべてをすててぼくは生きてる/きみはぼくを忘れるから/そのときにはすぐにきみに会いにいける/

なつかしい歌も/笑い顔も/すべてをすててぼくは生きてる/それでもきみを思い出せば/そんなときは何もせずに眠る―眠る/きみはぼくを忘れるから/そのときにはもうすぐにきみに会いにいける」

◆昨日の夜。仕事に強引にけりをつけ(最近では仕事はいくらでもあって強引にけりをつけないと限りがない)、久しぶりに友人のサイコパス=Sと飲みに行った。Sはたいてい女連れなのだが(そして会うたびに違った女を連れているのだが)、昨夜は彼ひとりで、ふたりきりで飲むのはもしかしたら何年ぶりかのことかもしれない。

女=第三者がいると、その第三者=観客を意識して、ふたりで過剰なキャラクターを演じてしまうところがある。「素の」Sと話したのは、だから、ほんとうに久しぶりのことになる。


“さいきん、仕事しててもそうだし、女の子と遊んでても、なんだか退屈でさ。でも、その退屈が、なんてぇのか、ちょっと興味深い感覚なんだよ”とSが言う。

ふたりが「観客」を意識せずに素で話すときは、飛躍や短絡がそのまま通じてしまうせいで、ほとんど暗号の交換のような会話になる。

ふたりとも、別々の場所でまったく異なった生活をしているにもかかわらず、同じ時期に、同じようなことを感じて、同じようなことを考えていることが多い。

同じ時代を生きているかぎり、世界への構えが似ていれば、違った経験からも同じような周波数を拾ってしまうということなのかもしれない。


“退屈っていうのか、なんだか、「肚が据わってる」って感じじゃねぇの?”

“ああ。なんてぇのかな。モルヒネ打ってるみたいな”

“無痛感覚ね。無痛感覚ってさ、椹木野衣が、ロマン・ポランスキーを論じた文章の中で言ってる言葉なんだけどさ。ポランスキーが妻であるシャロン・テートが虐殺された現場をドキュメントフィルムとして撮影するような感覚”

“ああ。わかるね。とにかくさ、すべてがクリアに見えるような気がするんだ。なによりも、自分自身が、ひどくクリアに見える。鏡に映さなくてもはっきりと見えるんだ。ああ、自分ってこんなふうに動く人間なんだ、って。べつにそれが見えたからってどうってことでもない”

“自分探しとか、そんなもんじゃない。ファーブルが昆虫を観察するように、自分を観察してる”

“そう。じっさい、なんだか、昆虫と自分が同じ地平にあるような、フラットな世界に放り出されたような感じなんだな。べつに観察してるって意識もなくてさ。ただフラットな世界に、自分や物や事がゴロッと転がってる景色が広がってる”

“ああ。わかるよ。自分は自分でしかないし、物はその物でしかない。事はその事でしかない。でも自分も物も事もそれ自体としては存在していない。すべて虚構でしかない。虚構の外部に出ることはできないけれど、すべてが虚構であるってことが感覚されてるような状態っていうのかな”

“虚無的というのじゃないんだよ”

“わかるよ。興味深いね。とても興味深い”


◆夜中の2時過ぎまで飲みながら話をし、家に帰った。体は鈍くなっていたけれど、眠気はなく、意識はすっきりとしていた。

シャワーを浴びてから、布団に寝転がって、濃いコーヒーを飲みながら、DVDで黒沢清監督『蜘蛛の瞳』『アカルイミライ』『ドッペルゲンガー』とつづけて見返した。

見終わったときには朝の9時を過ぎていた。

一睡もせずにK社に出勤。不眠気味ではあるのだが、徹夜というのは久しぶりだ。さすがに体が鈍くなっているのがわかる。


◆午前中簡単な企画書を一本仕上げて、午後。

午後の数時間は、普段から苦手な時間帯である。特に徹夜翌日ということになれば、仕事に集中するにはさすがに辛いものがある。夕方からは、女の子の面接が入っている。昼寝した方がいいなと思いつつ、ついだらだらとネットを巡回してしまった。


古谷利裕という人の「無名アーティストのWild Life」というサイトの、「偽日記」というコーナーをずっと愛読しているのだが、ふと何の気なしに、同サイト内の「固有名をめぐって」というコーナーに入ってみると、そこに黒沢清の名前があり、過去の「偽日記」で黒沢清について論じられた箇所がピックアップしてあった。(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/

「蜘蛛の瞳」以降の黒沢清について、“裏切りさえも厭わない「新たなものへの変質」のみを望んでいるかのような大胆な歩みをみせている”と論じられている箇所が印象に残った。


「新たなものへの変質」のみを望む、ということ。……

◆夜。人と会う用事がひとつ流れて時間が空いた。

本屋に寄り、川端康成『みずうみ』を買った。川端康成は10年以上前に全集を読んで、それきり一度も読み返していない。

川端という作家には、何がどうとは言えないが、全体として薄気味の悪い印象が残っていた。

ただ、これは少し前から、いまおれにとって最も重要な作家はきっと川端康成に違いない、という確信めいた予感があって、機会があれば読み返してみようとは思っていた。

◆その“確信めいた予感”は、おそらく福田和也『日本人の目玉』に収録された川端論「いつでもいく娼婦、または川端康成の散文について」を読んだことに触発されてのものだと思う。

福田は、川端のノーベル賞受賞の際の講演である『美しい日本の私』から、川端が一休禅師の「沸界入り易く、魔界入り難し」という一行書きについて語っている箇所を引いている。そのまま孫引きする。

―“私も一休の書を二幅所蔵しています。その一幅は、「沸界入り易く、魔界入り難し。」と一行書きです。私はこの言葉に惹かれますから、自分でもよくこの言葉を揮毫します。意味はいろいろに讀まれ、またむづかしく考へれば限りがないでせうが「沸界入り易し」につづけて「魔界入り難し」と言い加へた、その禪の一休が私の胸に来ます。究極は眞・善・美を目ざす藝術家にも「魔界入り難し」の願ひ、恐れの、祈りに通ふ思ひが、表にあらはれ、あるいは裏にひそむのは、運命の必然でありませう。「魔界」なくして「沸界」はありません。そして「魔界」に入る方がむずかしいのです。心弱くてできることではありません”。

福田は、ここで云われている「魔界」について、次のような解説を加えている。

―“川端の言う「魔界」を、「別の世界」とする見方の、浅さは今さら指摘するまでもないだろう。川端の魔界とは、世界というが如きパースペクティブすら成り立たないような身も蓋もない現実であり、そこでは、あらゆる構築が(小説、禁忌、曼荼羅、論理、観念)成り立たない。それは仏も菩薩もいない世界であり、人間にとって、つまり「生きよ」などという言葉を聞きたがる人間にとって、もっとも油断できない敵地であり、誰の味方でもありえない、誰一人救わないような場所であり、散文なのだ”。

◆あらゆる構築が成り立たない、境のない、限りのない世界のなかで、なんのけじめもなく、ただ連なっていく日日に、身を浸すように生きていく。

―“川端にはあの世がない。あの世がないから、この世もない。ただ無際限に広がっていく連鎖があるだけだ。故に川端は、谷崎潤一郎のように成仏を目指すことが出来なかった。母に、弥勒のような女性に、憧れるようなことをしなかった。そうした川端のリアリティを簡潔に示す言葉こそが「魔界」にほかならない。「魔界」はけしてモノトーンな世界ではない。それはむしろ、碌でもないものがぎっしりと詰まった、賑やかで退屈な場所だ”。

◆福田は、澤野久雄が回想している、あるエピソードを引用する。

―“京の祇園で、舞妓を十何人か集めて、お座敷の一方に一列にならばせる。川端さんは、彼女等の1間半ほど手前に正座して、あの目で舞妓の顔を、姿を、一人ずつ順々にながめてゆく。視線が、彼女等の一人のこらずを十分見きわめると、またもとに戻って、端から順に目を凝らす。その間、何も言わない。娘たちもだんだん、不気味になって来る。しんとしてしまう。やがて、二時間か三時間かの、重苦しい沈黙が積み重なる。と、川端さんは急に微笑を浮かべて、

「ありがとう。ご苦労様。」“

このエピソードに関して福田はこう述べている―“おそらく娘たちは、強姦される以上の屈辱感を味わったに違いない。しかし要点はそのような屈辱や苦しみを相手に与えている事に川端が無頓着であることだ。苦しみを喜ぶのではなく、目を瞑っているのでもない。もっと野太いアパシーのようなもの。

この点で川端康成は、サド・マゾヒズム的な能動と受動の綾を作りあげていく永井荷風や谷崎潤一郎とは遠く隔たっている。川端の視線には、荷風の窃視が秘めている嗜虐の欲求も、谷崎の憧れ、思慕という距離と資格の物語性が織り成す被虐的傾きもない。ただただ冷静な、身も蓋もない肉薄があるだけだ。

それは冷酷と云ってよいかもしれないが、自らの血の冷たさに酔うことのない、平熱の冷酷である“。

◆“ただただ冷静な、身も蓋もない肉薄”。“自らの血の冷たさに酔うことのない、平熱の冷酷”。川端の欲望。それは“書く”という行為を通して、あらゆるこの世の境界を溶解し、そのことによって世界を“けじめのない魔界の広がりに呑み込んでいくこと”にほかならない。

―“自分が他人であり、他人が自分であるようなけじめのない場所を作り出すこと”。

―“川端の欲望はいくことを恐れない。それは、射精を遅延させる演技を持とうとしない、山や谷のような欲である。いくことを恐れず、射精し、いった後の、何とも云えないモノトーンな持続において、つまり終わった後にむしろ勃つ欲望なのだ。

いくことを恐れない、というより、そこに特段の差異を認めないもの、つまり射精に欲望を集約しないものは、人間の自己意識と無縁であるばかりでなく、あらゆるけじめ、人間がこの世に作り出している敷居や境界に頓着しない事になる。

実際川端は、徹底してけじめに無頓着である。

無論、世の中に決着のつくことなど何もない。だがけじめがつかないからこそ、人間たちは秩序を作り、差異を見出そうとしてきた。カオスにけじめを記すのが人間にとって最も基本的な欲望であるとしたならば、そのような努力を放棄している者は、人間にとって不気味な客ではないか。“

―“川端のけじめのなさは、生死という、人間にとっての境をすら軽蔑する程徹底したものだ。その軽蔑は、自殺に際して、もっとも強く表明されている。三島由紀夫の、入念に準備され、演出された最期に比べれば、遺書もなければ、書きかけの万年筆の蓋さえ閉めていない、ふと思い立ってとしか云い様のないあり様で、駆け足で死んでいる。どのような意味づけも拒む、まったく無頓着な死に方。作家という意識的な種族だけでなく、世間一般の自殺者のなかでも、このように自分の生命を気軽に捨てうる者は稀である”。

◆川端の全集を読んでいた頃は、こうした徹底したアパシーが、なんだかひどく不気味なものに感じられた。

あの頃は、生きることは演じることであり、その虚構を媒介して充実を得るということにほかならなかった。

いつか、“ここではないどこか”へ脱出できるものと信じていた。

いつかは必ず救われるものだと信じていた。

人生にはなんらかの形でけりがつくものだと信じていた。

金や女や力に憧れ、死ぬのが恐ろしかった。

いまは……少なくとも、死ぬなら“どんな意味づけも拒む、まったく無頓着な死に方”をしたいと、本気でそう思っている。

この世に救いはない。あの世など存在しない。人生は意味もなくつづいてあるとき唐突に途切れる。それだけだ。

いま、おれには、自分の身が魔界に入っていくことが、ようやく受け入れられるようになってきたのだと思う。

―“この世に滅びぬものはないのです。それよりも、この世にあらはれたからにはなにものも滅びはしないのです。滅びても滅びないのです”。

◆K社を休眠化するので、3人の従業員を、いったんすべて解雇しなければならない。以降、彼らは雇用契約ではなく、業務委託契約を結んで、N社長とおれの仕事に関わってもらうことになる。もちろん彼らがその条件を呑めるならの話だ。

まず最初に、ジョーイ(仮名)に話した。彼については、現在と同じ仕事をやっていれば、それだけで現在より給料が上がる計算になる。そう伝えると、“それはいいですね”とあっさり了承が取れた。

K社はここ2年くらいのあいだ、経営が不安定になるたびに、社員に減らしてコストカットをくりかえしてきた。彼らを“円満に”馘首するのは、いつもおれの役割だった。ジョーイはそれをずっと間近で見てきている。

―“今回は、でも、最後の改変になりそうですね”

―“そうだね。なにしろこれでK社のコストはほとんどゼロになるわけだから、これ以上カットしようがない”

“じゃ、僕は最後まで生き延びたってことになりますね”

“ああ。それは最初からそう言ってただろう?これから全部人切るけどきみはK社が潰れるまで残す最後の一人になるからって”

“ほんとうにそうなりましたね。ううん。でもどうして僕なんですかね?”

“きみは有能だからね(笑)”

“うわっ。止めてくださいよ。怖いなぁ、それ(笑)”

“いや別にきみがどういう人間かは分かってるから。べつに間違った期待はしないからさ。プレッシャーに感じることはない”

“怖いなぁ、なんか(笑)”

“いやね。きみは、なんてぇのかな、基本性能がいいっていうのかな。ルックスがよくて、育ちがいいだろう。女にも金にも愛にも不自由なく生きてきてるから、飢餓感や怨嗟ってものを抱えていない。だから人あたりがよくて、基本的に人に好かれるよね。まぁある意味脆弱だけど、でも自分の弱さを許せるくらいに恵まれていて、卑屈になったり傲慢になったりっていう歪みにならない。根本で自分が大好き。もう臆面もなく自分のことが大好きで、屈託なく人に惚れるけれど、同じように屈託なく人を捨てたりもする。いつも屈託なく、ヘラヘラと軽薄にしてる(笑)”

“ああ、ええ。まぁ誉められてるんですかね()?”

“弱くて冷たくてそれを自分に許してるどうしようもないナルシストだって言ってるんだけど(笑)…でもおれはそういうやつがとても好きなんでね。さっぱりしてて、鬱陶しくないからさ”

“…ええと(笑)まぁとにかく頑張ります(笑)”

◆今日は、浅野忠信(仮名)に話した。

浅野には、少し難しい仕事をやってもらうことになると伝えた。“ああおもしろそうですね。いずれにしろMさんにはまだいろいろ教えてもらいたいんで。近くで仕事ができるなら何でもいいですよ”という答えだった。

“おれはべつに人に教えるようなことはなにもないけど?”と言うと、“いやべつにいいんですよ。近くで仕事してればそれで教えられることが多いんで”ということだった。

仕事の話はすぐに終わった。

それから、ジンギスカンをつついて、ビールと焼酎の水割りを飲みながら、夜中過ぎまで女のことでの与太話を交わした。

浅野は半年前から同僚のgetsと付き合っている。ただ彼の方は最初からずっと冷めていて、getsが一方的に惚れているということのようだ。

―“まぁね。彼女はおれの仕事をサポートするには役不足だし、ジョーイとは相性悪いしね。あとはきみが彼女を個人的に雇うならそれもいいけど、もちろんその場合は、きみの報酬の一部で支払うことになるからね”。

“ううん。そうですね。考えておきます。まぁ、もう、いらないっちゃいらないんですけどね”

“おまえ、ひどいやつだなぁ。おれの周りはどうしてこう情の薄いやつが集まってるんだろうね(笑)”

“類友でしょう。Mさんも情が薄いじゃないですか(笑)”

“いや。おれは情が薄いんじゃなくて、ほとんどの関係に「情を適用しない」だけでね。本当はあったかい人間なんですよ。ほとんど誰にもそのあったかさを向けないだけで(笑)”

“意味ないじゃないですか(笑)”

―“でも、一方的な関係ってのは、けっきょく、より好きな側が得してるんだよ。好きな側は、その関係を通して、とても強烈な体験を味わえてるわけだからね。きみとgetsでも、得してるのは、だから、彼女の方なんだろうな。彼女にとっては強烈なきみとの関係が、きみにはただの退屈しのぎでしかない。つまり、彼女はきみを利用して素晴らしい体験をしてるけど、きみはただそれに使われてるだけ、ってことになるよね()

“ううん。それってでも彼女には通用しない理屈でしょうね(笑)”

“ふ。まぁね。ただいずれ近いうちにきみたちは別れるわけじゃない”

“ああ、まぁ、たぶん(笑)”

“それで、きみはなんでもないだろうけど、getsは傷つくわけだよね。そのとき、おれがさっき言った理屈を受け入れることができるなら、彼女にとって、その経験は、「してよかった」ものになるんだよな。それが受け入れられないのであれば、その経験は、ただトラウマになるだけで終わる”

“ううん。なんか、でも、無理がありますよね”

“無理はあるんだよ。負けてるのをむりやり自分にとってプラスの経験に変換しなきゃいけないわけだからさ。ああ、橋本治がね、「恋愛は惚れたら負け、惚れられても負け、惚れさせたら勝ち」って名言を吐いてるんだけど、きみたちは、けっきょくふたりとも「負け」のまま終わるんだろうからさ(笑)”

◆夕方。あるプロモーションイベントのヒントを拾おうとネットを徘徊しているうちに、マウスに手を置いたまま、いつのまにか眠っていた。

疲れている。

目が覚めて、事務所に来ていたモデルの女の子と、これからの彼女のプロモーションについて話し合いながら、ふと自分がかなり無理して彼女に合わせていることを自覚して、ああやっぱりおれは今相当根深く疲れているんだな、とそう思った。

おれは、疲れていると、相対している相手に「過剰適応」してしまう傾向がある。


◆このあいだ読んだ名越康文『あぶない恋愛―恋しても幸せになれない存在分析』に、「過剰適応」についての描写してある箇所がある。

「過剰適応」とは、「人に合わせすぎる人」のことを云う。


―“人に合わせすぎる人というのは、相手に迷惑をかけないとか、機嫌の悪くなるようなことを言わないというだけではないんですね。たとえば、そこに10人の人間がいたら10人ともに気を遣いすぎて、絶えず自分の立ち位置を微調整し続けて、誰からも嫌われたくないという目的で動きすぎる人。潜在的にそういう動きをしている人なんです”。

―“もちろん、盛り上げ屋さんにもなるんですけど、もっと高度な技巧のある過剰適応の人は、自然にふるまっているように見せるんですよ。それどころか、なかには、傍若無人に、なんだか人に対して批判的だったり、辛らつなギャグを言うような人として、存在していたりもするんです。

つまり「私は大丈夫よ、ここですごくくつろいでいるし、人よりもずっと自分の立場を確保しているわよ」みたいな印象を作って、周囲の人に気を遣わせないでおこうとする人もいるんです。

それはね、よく観察していると「あ、この人……でも、どこか無理してるな」という感じがあるんです。なんかアンバランスな人ですね。かえってその、自然にふるまおうという無理をする形で、過剰反応する人もいるんです“。


おれは、自分が、“相手に合わせて自分の立ち位置を微調整する”ことに、異常に長けているという自覚がある。ただ、“そこに10人の人間がいたら10人ともに”気を遣う、ということではなく、自分が何かをしようというとき、その人間の評価を受けておいた方が事がうまく運ぶだろうと思われるキイパーソンだけに対して、意識的にその調整能力を発揮するようにしている。

もともとおれは「過剰反応」の資質をもった人間なのだが、自分自身を洞察することを通して、その“資質”を“能力”に転化して、意識的にコントロールすることができるようになった。しかし、疲れているときは、ついそのコントロールがきかなくなることがある。

すると、どうなるか。


―“過剰反応の人は、自分がひとりになったときに「私って誰なの?」という感覚が生じるんです。自己喪失感です。

なぜそうなるか。人といるときには、いろいろ何層にも自分を演じている。それが自分自身に戻ったときに、からっぽの自分、みたいな感覚になるわけですよ。空虚感しかない。

その心の奥には「本当のつまらない自分を出しても人は絶対に受け入れてくれない」という思いもあります。

具体的にどうなるかというと、自分がひとりになってから、わーっとパニックになる。それが症状として鮮明に出る人はパニック障害。あるいは解離という症状もあります。これは極端な例ですが、自分が何者かわからなくなって、不安になって、自分の部屋という空間……寝ているベッドとか、机とか、いつも見慣れたものに急に違和感が生じて「ここはどこ?」状態になったりする人もいます“。

―“誰かにふわーっと合わせてしまうというのは、もうその時点で自分を失ってるんです。

きゅーん、と落ちるっていう、その感覚も、たぶん解離、あるいはそれに伴うパニックのひとつなんですよ。要するに、自分は何者か、どんな仕事をしていて、この人たちと友達で、ここにこうある、という歴史観みたいなものが、なくなってしまうわけ。「私って誰?誰なの?どうしてここにいるの?」と“。


昔はよくパニック障害の症状に陥ったのだが、最近では滅多にそんなことはなくなった。ただ、やはり自分の周りのすべてにリアリティがなくなる解離の状態はしょっちゅうで、むしろそれをデフォルトとして慣れてしまっているといった方がいいかもしれない。


◆ふと考える。

人に運命というものがあるとして、“自分を知る”ことを通して、その運命の行く末は見通すことができるのかもしれない。

そして、“自分を克服する”ことで、運命は変えることだってできるのかもしれない。