◆月曜から金曜まで、一週間、沖縄の那覇市に滞在した。恒例になった月1回の出張である。これまではずっと二泊三日に収めていたが、今回は一週間だ。
たいした業務があるわけでもないのだが、せっかく厳寒の名古屋を離れ、南国に行くことができるのだから、できるだけ滞在時間を延ばしてやろうという魂胆である。
中部国際空港から二時間強のフライトを経て、那覇空港。穏やかで温暖な空気に包まれて、一気に気分が高揚した。
名古屋が最低気温マイナス1-3度、最高気温7-8度といったこの時期に、沖縄では最低気温7-8度、最高気温は18度以上にもなる。これは、名古屋でいえばちょうど晩秋くらいの、一年のうちでももっとも過ごしやすい季候になる。
寒さで縮こまっていた心身がフワッとほぐれるような解放感があった。
浮ついた気分になって、「気持ちいいよぉ」という無内容なメールを、誰彼かまわず送りまくった。
勢いにまかせて、一年くらい連絡を取っていない、昔の仕事仲間の女の子にも、こんな文面のメールを送信した―「今週1週間は仕事3割、遊び7割って感じで、沖縄の那覇市に来ています。こっちはちょうど10月くらいの陽気で、涼しくて、とても気持ちがいい。快適で、何もしなくても、なんだか愉しい気分になってきます。名古屋は雪が降ったみたいですね。あたたかくして風邪など引かないように気をつけてね。では」。
10分もしないうちに返信が帰ってきた―「お久しぶりです~!こっちはこの冬一番の寒さですよ~。さっきなんて吹雪いてたし。沖縄なんてうらやましい~。私は相変わらずです。いいな~。ゆっくり満喫してきてください。あ、少しは仕事もあるんだ。危ないことはしないでくださいね!」。
そういえば彼女とよく遊んでいた頃、ちょうど1年位前には、やたら「危ない仕事」が多かったんだよな、と懐かしく思い出した。
◆2日目の夜、那覇に行くたびに通っている、松山のキャバクラに行った。
11月6日の日記に、「松山のキャバクラに、ひとり、とても気に入っている子がいる」と書いた、その女の子に会うためにである。
いまや、おれは、「その子に会うために」、沖縄での仕事を、ほとんどむりやりこしらえているようなものである(まぁしかし、動機は不純であれ、仕事の方もそれなりには形になりつつあるが…)。
今回も、10時に入って、3時まで、ずっと指名を通して、彼女と喋って過ごした。
どれだけ喋っても、飽きることがなく、話が尽きない。疲労を感じることもなく、話せば話すほどわくわくした気分が高まっていく。
おれが話している時間が長いのだが、客という立場を利用して、一方的な饒舌を浴びせているというわけではない。
おれの思い込みによる錯覚でないとすれば、彼女も、接客という枠を越えて、純粋におれとの話を愉しんでくれているようである。
午前3時ちょっと前。
―「また今日もひとりでよく喋っちまった」
―「ううん、愉しかったよ」
―「そう?無理してない?(笑)」
―「してないって。ほんと、すごくいいよ、Mさん(笑)」
―「そうか。おれもさ、一人で喋ってると消耗するんだけど、きみに話してるとぜんぜん疲れないんだよね(笑)」
―「そうなの?」
―「そう。だからさ。おれが一方的に喋り散らしてるわけじゃないんだろうなぁ、と(笑)。おれ、どんなこと話すか、あらかじめ考えてるわけじゃないからさ。きみといると、自動的に、おれときみの間に言葉が発生するっていうか。即興のセッションしてるみたいなもんだよね。そのグルーヴが気持ちよくて、ぜんぜん消耗しないわけさ」
◆内田樹の『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』に「第三者としての欲望」について語られている箇所がある。
おれが喋った「自動的に、おれときみの間に言葉が生まれる」という事況について、ずっと精密な論述がされているので、以下に引用する。
―「対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかし、そんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を、「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。そして、あなたがあるセンテンスを語り終えたそのときに、私はあなたの口からそのセンテンスが語られる日をひさしく待望していた私自身の欲望を発見するのである。
語る側についても同じことが言える。ある論件について、あなたにかねてからの持論があったとする。それをなかば機械的に再生しているうちに、聴き手がその意見に同意していないことがその表情から明らかになってくると、あなたはいささか慌て出す。そして、なんとかこの相手がにこやかにうなずきながら話を聴き終えてくれるように、微妙な「軌道修正」を始める。ことばを選び、音調を変え、緩急の変化をつけているうちに、あなたはいつのまにか「はじめに言おうとしていたこと」からずいぶん隔たった地点でセンテンスを語り終えている自分を発見する。
では、このセンテンスを語ったのは、いったい誰なのだろう?それは厳密に言えば、あなたではないし、むろん聴き手でもない。強いて言えば、それはあなたが「聴き手の欲望」と見なしたものの効果である。
私とあなたの対話において、あなたは「私の欲望と見なしたもの」を配慮しつつことばを調整し、私はあなたのことばのうちに私自身の欲望を発見する。けれども、それは「私の欲望そのもの」ではない。なぜなら、私はそれが「私の欲望」であることを、あなたのことばを通じて教えてもらったからである。
この「欲望」には実体がない。その出自は私のうちにも、あなたのうちにもないからだ。それは、「どこか別のところ」から到来したものである。
だから真の意味での対話における登場人物は二人ではない。私とあなたが対話を交わしているとき、そこには、私と、あなたと、「欲望」の三者が居合わせている。
欲望とは、誰のものであれ、本質的に「第三者」なのである。そして、対話はこの「第三者」を私とあなたが対面している閉じられた状況に外部から呼び入れるためにうやうやしく執行されるのである」。
◆「ふたりでいる」とは、それぞれがそれぞれの「自分」を脱け出て、相手の方へと踏み出していく、その不断の歩みのことをいう。
そして、「ふたりでいる」ことを続けることでのみ、「欲望」という、得体の知れない、途方もない「第三者」と触れ合うことができる。
「ひとりでいる」かぎりけっして味わえない、深い創造性を味わうことができるのである。
中沢新一が『リアルであること』という著作のなかで、すこし違った文脈ではあるが、同じことを言っている箇所がある。これも、引用しておく。
―「普通、ぼくたちは恋人同士になる場合でも、好きとか嫌いとか、そんな程度の意識交換で、相手のことを所有したり縛ったりという関係に入りますけど、本当は「あなた」は、ぼくにとって絶対にわからない存在なんじゃないですか。じつは底知れない、わかりようのないものを目の前にしている。だけど、現代の人間関係というのは、そんな底知れないものを相手にしないようにしているんですね。表面的なところで言葉を交わし、「ぼく」とか「あなた」とか言っているけれど、もしその「あなた」というものの体験を問いつめていったら、深い恐ろしいところにたどりついてしまうんです。
これは意識するしないとにかかわらず、人間ならみんな抱えている問題です。なにか底知れないものが、自分の外にも内にも「あなた」という形で存在しているということ。それが人間の宗教行為の原点で、みんな無意識のうちにそれを感じとりながら、それが見えないようにして日々を生きてる。深みにはまらないようにしてね。
だから、いまの夫婦や恋人、友人、どれをとっても、本質的なつながりをもたない同士がほとんどでしょう。そこには、本質的なつながりがないんです。
だけど、もしも「私」と「あなた」ということばのほんとうの意味をとらえることができたなら、そこにはほんとうに絆ができてくる。そして、このときの「あなた」体験が、じつは「神」の体験ということにつながっていく、自分にはとらえられない絶対的なものが、そこには確実に存在するという感覚、そういうものが人間の意識の根本にはつねにあって、だからこそ、神はなくならない。いつ人とともにあるんですね。
もちろんそれをないものとして生きることだって可能です。けれど、その場合には、人間はことばを交わしていても対話はしていないし、意味のあることばは何一つ語っていないことになる。会話も不可能、恋愛も結婚も不可能。それでいて、ことばはあふれ、みんな恋愛し、結婚している。でも、それは意味のない世界です。もしそこに意味のあるものが必要だと思ったら、自分のなかや眼前の相手にたいして、「あなた」というものの深さを知らなくてはいけない」。
ここで「神」といわれているものは、先ほどの内田樹の文脈でいえば、もちろん「第三者としての欲望」ということになる。
「自分にはとらえられない絶対的なもの」=「ふたりでいる」という深い体験を通してのみ触れることのできる「第三者としての欲望」。
◆沖縄滞在4日目の夜、その子と、その子の友だちと3人で、店外で食事をした。
沖縄の伝統的な舞踏を鑑賞しながら食事ができる「四つ竹」という料亭で、その子が奢ってくれた(食事は伝統的な沖縄料理で、沖縄料理の「健康的かもしれないが美味しくはない」という印象が変わった。美味しかった)。
来年の2月、その子とその友だちとで、沖縄を出て、札幌~東京で暮らす予定を立てているらしく、それで「Mさんの話、その子も絶対興味深いはずだから」というので、場をセッティングしてもらったのである。
しかし、その友だちの女の子は、沖縄を出て、札幌、東京に行くということについて、すこしトーンダウンしている様子で、あまり話が盛り上がらないまま終始してしまった。
ある種の人間にとって、住処を変えるというのは、そんなに重いことなのだろうか。そうなのかもしれないなぁ、などとぼんやり考えた。
時間が短かったこともあって、すこし挑発的な言葉を掛けてみたが、あまりのってくれなかった。
自分の行き方を決めるときには、ひとりのなかに沈みたいときだってあるだろう。あまりしつこくしても鬱陶しがられるだけである。
けっきょく、ほとんど「演奏」できないままタイムリミットが来てしまった。せっかく場をセッティングしてくれた「興行主」にはもうしわけないような思いが残ったけれど、ううん、まぁ、仕方がない。
◆5日目、沖縄滞在最後の日。
那覇空港で、ビールを飲み、煙草を吸って、時間を潰した。
同行していたジョーイと浅野と3人で、下らない与太話を交わして腹を抱えて笑いながら、ふと、ああ、このまま帰りたくないなぁ、という気分になった。
しばらくして、…ああ、そうか、これ、淋しいっていうじゃなかったっけ、とそう気づいた。
そう気づくと、胸に、懐かしい痛みの感覚が広がっていくのを感じた。
厭な感じではない。
しばらく感傷に浸りながら、名古屋、寒いんだろうなぁ、とぼんやり考えていた。
◆じっさい、すっげぇ寒かった(感傷に浸る余裕もぶっとんじまった)……