前のブログからだいぶ間が空いてしまったが、その間にやっと秋が来たという陽気になってきた。
前回お知らせしたように、まだ暑さの残る九月末に熊野吟行に無事行く事が出来た。
案内人はお付き合いのある「運河」の副主宰谷口智行氏。『熊野概論-熊野、魂の系譜(2)』(書肆アルス)を上梓されており、幸甚であった。

名古屋から特急ワイドビュー南紀で熊野市に。
そこには先に熊野入りしていた島田牙城氏、黄土眠兎氏、歌代美遥氏が谷口氏と共に待っていてくださった。
夜に句会があると聞いていてこの辺りから緊張感が。なのでその後の順序が怪しいのだ。
宿泊はホテル河上。
伊弉冉尊の墓所である花の窟に。
伊弉冉尊は火の神である軻遇突智をお産みになった時に陰部を火傷して亡くなったそうだ。花の窟は花を供えて祀った岩屋という意味だそうだ。なので軻遇突智の御陵ともなっている。
例大祭(三重県無形文化指定 お綱掛け神事)は2月2日と10月2日に行われており、以前熊野を特集した番組で見たことがある。
その場所に立っているということだけでも感無量であった。

社殿はなく熊野灘に面したこの大きな岩(磐座)
こそが御神体である。磐座のみならずこの空間から不思議なパワーを感じた。
熊野市に入った時から感じていた、深く降り注ぐような光が訪れる場所全てにあった。
道の途中途中にも祠があり、なるほどと思わされた。海から岩までの全てに神が宿っているのだ。


ここでめはりずし、さんま寿司を買う。

これは口有馬道標。熊野三山や西国巡礼はここを右に曲がって行くように案内するもの。本宮道と浜街道の分岐点である。人はどうしても風光明媚な浜街道を選ぶため安全な有馬村本街道を行くように警告してくれている。
この後産田神社へ。
産田神社は先ほどの花の窟と対になる神聖な場所である。土足厳禁で大きめの白い玉砂利の上に靴を脱いでお詣りをする。
そこで谷口氏が蟇を見つけて捕まえる。
「産田は産処の義にして、伊弉册尊がこの地で火の神軻遇突智尊をお産みになったが故に産田と名付けられたという。」(出典、Wikipedia)


曼珠沙華が咲いていた。
そこから御浜に。この後お二人が波で遊ぶ。

この後に紀宝町の飛雪の滝に。キャンプ場ともなっていて施設が整っている。驚いたことに滝の前に簡易サウナが設置されていて半裸の男性がキャンプチェアで寛いでいた。
私はここで水に。

上二枚は引作の大楠。阿田和の引作神社にあって新日本名木100選にも指定されている。
写真が順不同だが、これは先程の七里御浜の近く。左下は運河の茨木和生氏の句にも登場する植物「ママコノシリヌグイ」。
植物といえば旅中最後の方で苧(カラムシ)も見せてもらった。日本書紀にもあるように、その繊維から糸を紡いでいた。そこにはアカタテハやフクラスズメの幼虫、ラミーカマキリなど個人的にあまり出会いたくない虫たちが集まる。

夜(途中途中メモして句も作りながらある種緊張の移動後)割烹ひかり、にて句会。
牙城さんの的確な句評が勉強になる。
からの舌鼓。ぽん。
そしてホテル河上でまったり過ごし、翌朝カマスの美味しい朝食を頂いてからまずは磯崎漁港に。
前日は天気が今一つだったが、この日は晴れ。
ここは釣り場でもあり、根魚、メバル、カサゴ、メジナ、クロダイ、アオリイカが釣れる。
 クラゲの死体が干からびていた。
今時期は閉じている海女(蜑)小屋も。
港を臨む山側に階段状の道を「段(きだ)路地」と呼ぶそうだ。


帰り際の句会のためにここで一人一人の時間。
帰るときに稲倉稲荷神社に。
また土産物を買うために浜峰商店に。太刀魚などの干物を買って宅急便で送る。
また私のリクエストで市木木綿の土産物を扱う向井ふとん店に。
もう少し滞在できたら機織の実演も見られたのだが後ろ髪を引かれるように駅に。
お昼はその前に美味しい卵サンドを頂く。

秋雨や賽銭箱の屋根の染み
水車から烏飛び出づ秋湿
海女小屋の縄に蜘蛛囲煌めけり
段路地の一つ一つの秋日射               麻乃