7月に三島の大岡信ことば館訪問の際に、どうしても海に行きたくなって沼津の海岸にも行きましたが、またどうしても海に行きたくなって、葉月の葉山にも突然行ってきました。

海に行きたい気持ちは、父岡田隆彦の詩「海へ」で高まりました。
大磯に父の親戚がいて、『鴫立つ澤の』では大磯を詠んだ父ですが、岡田家は葉山にも親戚がいて、我が家でも母を連れたり連れなかったり(笑)して何回か訪れている場所です。

幼い頃に海水浴に行った時の父はいつも岩の上に立って何か考え込んでいました。
きっとその時に詩を作っていたのだと思います。

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そこから見える森戸大明神にも行きました。が、その手前にお稲荷さんがあって、コンコンおせき神社ということで喉の守り神です。ボーカルや披講などで声をたくさん使う私は思わず立ち寄ってしまいました。

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右下の写真の橋の下には海の潮が入り込み、降るような蝉時雨の中、満ち引きの音がしていました。

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奥に石原裕次郎の記念碑があるなと見ていたら、海が夕焼けに。

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忘れられない夕景となりました。
もう悲しくはありません。
夕方に街の小窓を見上げさえしなければ。
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乗換駅でもある横浜のいつもいく西口ではなく、北口からベイクウォーターに。とてもおしゃれでした。保土ヶ谷の祖母宅に幼少期から大学時代までよく預けられて、住んでいたこともあるのですが、今までの横浜とは全く違いますね。
まるで次女と2月に訪れた大阪のリーガロイヤルホテルの周りのようでした。

五つの未来を持つと『時に岸なし』「わたしの美しいManoよ」で予言された私のこの掌は、父も聞いていた波音を掴みました。
その最期の詩画集『植物の睡眠』は、様々な事情から手に取ることが叶っておりませんが、その一遍の詩のような緑を感じる秋を迎えたいと思います。詩はサイトから引用させていただきました。感謝。

枯れる蔓   岡田隆彦

鳥に草冠がついて「蔦」。
(水都ブルッヘでは、それが
紅葉して赤く燃え上がっていた)。
通草(アケビ)の這う曙。これらの蔓が、
枯れるが故に我思う。
物に纏いつく蔓や巻き鬚が草臥(くたび)れる、
その意味を辛抱強く考える。
五年前の手術で胸部の迷走神経を
たくさん切断した自分の、
やや綱渡りじみた、
これは、滑稽な人間的晩秋である。
やおら、西側半分の樹々を
失った森を思う。
今晩は、蔓草の名前を声に発して
枯れた命を偲ぶことにしよう。
野葡萄、つるうめもどき、
常春藤、忍冬(すいかずら)、
サルトリイバラ、
藤。

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