僕が受講している授業の一つに、古代ギリシアのロールプレイゲームをするというものがある。
時代設定は紀元前403年。
ペロポネソス戦争やそれに続く30人暴君政権の混乱を経たアテナイの議会が舞台だ。
生徒それぞれに役が与えられ、所定のリーディング、ライティングをこなしたうえで議論に臨む。
生徒は派閥に分けられる。たとえばペリクレス的民主主義派、ソクラテス的哲人政治派、貴族寡占政治派、無党派層など。
僕にはソクラテス派閥の青年の役が割り当てられた。
今日の議題は最も重要な議題の一つ、ソクラテスの処刑の是非を問う回であった。
そしてそれは、既存の歴史とは異なる、非常に皮肉的な結末に終わった。
周知のとおり、実際の歴史ではソクラテスは処刑されている。彼はアテナイの青年に哲学を説いて回り、影響された青年は次々と有力者に議論を挑み、論破していった。そのため有力者の反感を買い、またソクラテスの真理を追究していく姿勢は知性という新たな神を創造するのと同義であり、既存の神の冒涜にあたると反発した。彼らはソクラテスが青年の風紀を乱し、また神を貶したとして裁判に訴えた。その結果ソクラテスは市民による議会の賛成多数で死刑宣告され、この世を去ったのである。
今回の授業における僕の使命は、ソクラテスの無罪を証明し、彼が哲人王たる理由を説明することだった。
僕の訴えはこうだ。
・訴追側はソクラテスが青年を腐敗させたと主張するが、それは間違っている。なぜソクラテスが青年の腐敗を望まなくてはならないのか。もし彼が青年たちを意のままに操りたいのであれば、金銭的なメリットや地位を欲し、具体的な野望に向かって突き進んでいるに違いない。しかし実際は彼は家庭や地位を顧みることなく、貧乏生活に甘んじてまで青年に哲学を説いている。このように自身を顧みることなく、家族や友人問わずすべての人間と対話しよう鵜とする姿勢は、人の欲望のなす技ではなく、真理を追究しようとする哲人的なものであり、死刑にはまったく値しない。
・民主主義者たちが哲人独裁政治に反対する気持ちはわかる。彼らは指導者たちが日常とかい離した位置に立ち、市民の実情に合わない政治をするのではないかと危惧している。民主主義者たちは、政治とは市民たち自らの生活感情に根ざすべきであり、それゆえ全市民に政治権利が与えられるべきだと主張する。そして、それはその通りである。しかし、民主主義社会の今、市民たちは本当の意味で政治判断を自分の頭で行っているだろうか。それよりもむしろ、デマゴーグによる扇動に容易になびき、長期的な視点で見れば自分に害が及ぶのにも関わらず、感情と個人的な欲望に従って政治を考えているのではなかろうか。民主主義社会といっても、しょせんは有力者が市民を操っているのに過ぎない。これはペリクレスの死後アテナイが破滅に突き進んでいったことからも明らかである。それならば、完璧なる有力者に政権を預けた方が得策である。
・また、独裁政治は独裁者の利益のために行われるが、哲人政治は哲人の利益のためではなく、市民の利益のために行われる。薬は体に良い効果を及ぼすのであり、薬自身に良い効果を及ぼすために作り出されたのではない、それゆえ支配者は支配者にとってではなく民衆のために支配するべきなのである。この理想を実現できるのは、先述のように人の欲望を超越したソクラテスら哲人に限られる。また、哲人政治が独裁政治と異なるのは、ソクラテスの青年たちに向けた接し方からも明らかである。彼は青年に自分の理想をぶつけるのではなく、青年たちの話を聞き、吟味を経て、ともに真理に向かっていこうとした。この民衆を聞き入れ、ともアテナイの明るい未来を追求していく姿勢こそ、支配者に求められている。ソクラテスはたとえ相手の意見が異なっていても、聞き入れ、反芻してともに真理を探っていく。それなのに、民主主義者たちは、死刑によってソクラテスの口をつぐもうとしている、民主・自由主義者であれば、たとえ相手の意見には反対でも、それを言う自由だけは、死んでも守るべきである。
・哲人政治下では社会の分業化が進み、個人は自分の仕事に専念することが求められる。民主主義者たちはこれを自由の侵害だとして糾弾するかもしれないが、それは間違っている。個人は指令された仕事に専念するのではなく、自分の望む、また自分の才能が指し示す仕事に従事するのだ。それゆえこれは自由の侵害に当たらない。また、民衆自身が自分の仕事に集中したいと望んでいるのは、彼らが金銭的な見返りがなければ政治参加しないと主張していることからも明らかだ。そのため、哲人政治下における高度な分業化は、支配者市民ともにとっての利益である。
こうした主張を僕始め3人のソクラテス陣営が行った。
ペリクレス陣営や諦念的な市民役は、30人政権にソクラテスの弟子が含まれていたことなどを取り上げて批判した。
そして投票の結果、ソクラテスの有罪が確定した。
この時点で、ソクラテス陣営は完全に沈黙しなければならなかった。
なぜなら、ソクラテス自身は宣告された死刑に対していかなる減刑も欲しないからである。
彼に言わせれば死はいずれ訪れるものであり、それから逃げることには何の価値もない。
また減刑されて国外追放や懲役に付されることになったとしても、そこに何の価値もない。自分は自分の利益のために哲学を説いてきたのではなく、アテナイの利益のために身を投じてきた。それはペロポネソス戦争時に自分の持ち場を身を挺して守り切ったときから変わっていない。もし今後追放などによって自分の口がつぐまれるのであれば、自分は死んだも同然である。ソクラテスは、自分にふさわしいのは減刑ではなく、最高の栄誉とされる迎賓館での無償の食事だと主張していた。
そのため、僕たち3人は完全に沈黙し、議論の行く末を見守った。
すると驚くべきことに、議論は減刑の方向に向かっていった。
市民役の多くや民主主義者の一部までもが、死刑はひどすぎると主張し始めたのである。
減刑の是非を問う投票では、ソクラテス陣営は死刑に票を投じたのにも関わらず、結果は減刑であった。
僕たちの歴史では、ソクラテスは死ななかったのである。
僕は、これは市民の本質をよく表した、本当に皮肉的な結末だと考える。
真にアテナイのことを思うのであれば、まずソクラテスを有罪とすべきではなかった。
有罪としたうえで追放刑に付すのは、ソクラテスの主張や存在意義、そのアテナイへの献身を全く理解していない。
ここでも市民は、合理的な判断ではなく、感情的な判断を下したといえる。
このように非常に面白い授業です。
みんながみんなの役を忠実に演じていました。
ちなみに僕は哲人政治には個人的に反対です。、
