ALOHA!

沖縄旅行を間近に控えたある日、それは実家の父からの突然の電話から始まったのでした。
「アヤコ、おばあちゃんの家がとうとう無くなっちゃうぞ。」
その時、私はショックを受けつつも、ついに来たかという思いで父の声を聞いていました。

春先に叔父が亡くなって、いつかはそうなるとは思っていました。つい先日まで叔父家族が住んでいた家です。でも、祖父の病気に伴い、母は父と共に私も名古屋から移り住み、小学校から高校一年生まで祖母も一緒に住んだ思い出の家でもあるのです。

私は文字通り、赤ちゃんの時から幼い日々もよくその古い家で過ごして、母屋にも離れにも、庭にも裏庭にも、竹藪や梅の木々にも、本当にたくさんの思い出が詰まった家です。

私が長男を産んだ時には、祖母は健在で離れに暮らしていました。実の娘である私の母を亡くしてから、それでも元気で私達を励ましてくれていました。
「ひ孫を見られるとは長生きするものねぇ。」と本当に喜んでくれました。でも、ひ孫の長男が歩くのを大喜びで見届けて天国に旅立ちました。それからもう20年以上もたってしまいました。
何年か前に、離れが取り壊された時も辛かったです。実家に帰るたび、塀ごしに眺める離れからは、今にも祖母が「アヤちゃん、おかえり。お腹空いてない?コロッケ作ってあげましょうか?」と言いながら出てきそうに思ったものです。

体調を崩していた叔父の突然の訃報の日、それは祖母の命日でした。朝カレンダーを見て「おばあちゃんがいなくなって、もうずいぶんたつんだわ。次男坊も見せたかったな。」などとぼんやり考えていた時でした。

「取り壊される前に、思い出の物があれば、持って行ってと言われたぞ。なるべく早く来なさい。」父の声を聞きながら、祖母が大事にしていた、でも生前どうしても見つけることができなかった物をすぐに思い出しました。

沖縄旅行直前のある午後、まず私が実家に急ぎました。完全に無くなってしまう前に、写真におさめたい風景がありました。
photo:01


庭に池があって、幼い頃にはたくさんの鯉が泳ぐ大好きな場所に石橋だけが残っていました。
photo:02


五月に真っ白な雪のようなお花を咲かせてくれた「あんにゃもんにゃ」(なんじゃもんじゃとも呼ばれます。ヒトツバタゴ)の大木です。
photo:11


よく遊んだ庭、鳥さん達と仲良くなったり、ワンちゃんと走ったり、木から降りられなくなった猫ちゃんを助けた、たくさん木のある大好きな庭です。
photo:05


幼い頃、よじ登って祖母に叱られた石灯篭も寂しく立っていました。

もっとお見せしたいんですが、やはり事情がありますので、中途半端な写真ですみません。
父が運び出して救出した大きな柱時計は、所在なげに父の所にかくまわれていました。
photo:04


主人と駆け付けたその時、ちょうど2時でした。
ぼ~ん、ぼ~ん…*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
聞き慣れた、あの懐かしい音です。父がきれいにして、また動くようにしてくれていました。
「アヤコ、持って行っていいよ。」
えっ、いいの?すごく嬉しいです。
この柱時計は古い母屋が建った時からあったそうで、祖母が嫁いでからは、毎日動かすのは祖母の役目でした。
小さい頃、時計の中を覗いたり、もぐりこもうとして叱られた思い出の時計です。
でも普通の車には大き過ぎて乗りません。後日、主人がトラックで運んでくれたのでした。

さて、本当に探さなければならなかったのは、実は祖母が嫁いだときに着た「婚礼の打ち掛け」だったのです。一度高校生の時に、祖母と一緒に探しましたが、見つかりませんでした。
「あの打ち掛けはアヤちゃんに見せたいのよ。」が口癖だった祖母。私が結婚する時には母が用意しておいてくれたレースでウェディングドレスを作っただけでしたが、「あの打ち掛けがあれば、着物姿の写真だけでも…」と残念がっていました。

父があらかじめ探した時には、それらしい物はなかったということでしたが、何かに衝き動かされるようにして、私は母屋の二階に上がりました。
数十年分の荷物がそのまま、雑多に積み上げられ、また埃も相当なものです。
マスク、手袋で荷物をかき分け、かき分け少しずつ、奥に進みます。
気分はまさに「インディジョーンズ」です。もっと悲壮感がありましたが、頭の中ではあのサウンドトラックが流れていました。
使っていない扇風機が落ちてきたり、押し込んであったガラス戸が割れたり、行く手を本当にたくさんの物…かつてはちゃんと人に使われていた古い物から、ただ打ち捨ててある物までが私を阻みます。
「アヤコ、やっぱりないんじゃないか?」父の声がかかります。
でも…もう少し奥に…確かおばあちゃんは、うんと奥にしまってあるはずと言っていたから、もうちょっとだけ。
首にタオルを巻いていましたが、もう全身汗だくです。窓も閉め切ってありますし、蒸し風呂のようです。
色々な物を踏みしめ、乗り越え、とうとう一番奥まで来ました。と…昔着物を片付けていたブリキの衣装箱がたくさんあります。中を覗くと古い着物があります。でも、打ち掛けじゃありません。
一つずつ、ブリキの衣装箱を探します。
「打ち掛けだけ、行李に入れてあったはず。」祖母の声が蘇ります。とにかく荷物を一つずつ、かき分け、どかして、あっ、行李。
残念、空っぽです。ブリキの衣装箱も全部見ました。やっぱりないのかも…あきらめかけて、もう一歩奥へ。ブリキの衣装箱の後ろに段ボールか、紙で囲まれた何かが見えます。
埃がもうもうと舞う中、必死で段ボールの囲いも、その上にあった荷物もどけます。
木箱、それも角に金具がついた立派な木箱が新聞紙に半分くらい包まれています。もしかして…
無我夢中で木箱を動かそうとしました。なかなか動かない、でも直感で絶対に持ち出さなきゃ!と踏ん張りつつ、隣の物置にいた父に叫びます。
「あった!きっとこれだと思う!」
父が駆け付けて、狭い場所からウンウン言って木箱を抱えた私を手伝おうと入り口で待ってくれています。
何しろ、かき分けた荷物がまた落ちてきます。そこを木箱を持って無理やり、ヨタヨタと進みます。
ようやく父に手渡しました。少し広い、明るい場所で木箱を開けようとしますが、キッチリ締まり、なかなか開けられません。でも、ついに…蓋を開けます。インディジョーンズと違って、何も悪いものは出てきません。
photo:06


「ねぇ、昭和37年1月3日の新聞だよ、これ。」と言いながら、急いで新聞紙を外します。
photo:07


わぁ~っ!ついに発見しました。
昔の松坂屋のたとう紙に包まれて、祖母の父親の名前も墨で黒々と残っています。
photo:08


後は、心配なのは虫喰いです。打ち掛けの下に着る、真っ白な着物。
photo:09


大丈夫、多少黄ばんでいますが、虫喰いはありません。その下に祖母の大切な思い出の打ち掛けがありました。
photo:10


やったー!無傷で、まだ美しいままです♪───O(≧∇≦)O────♪

お見せした写真は、実際には後日我が家に来てから撮影しました。その時はとにかく見つかって本当に良かったという思いだけでしたし、もうヨレヨレのボロボロだったんです。
父が「あんな所から、よく探しだしたよなぁ。おばあちゃんが呼んだんだなぁ。」と感慨深げです。
そうです、確かにあの時、なぜかもう少し奥に行かなきゃと強く感じたのです。
打ち掛けは、嫁ぐ娘のために父親が精一杯の思いで松坂屋に注文した着物に間違いありません。祖母から耳にタコができるくらい聞かされた柄、嫁ぎ先の紋が扇面だから、そのモチーフを使ったこと、黒地に裾模様だったこと…良かった、本当に見つかって良かった…☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

それから沖縄旅行をはさんで何回か通い、祖母が大事にしていた古い「つくばい」や、庭の石灯篭、石橋や庭木も我が家が譲り受けることになりました。そのまま置いておけば、瓦礫になるだけです。でも、もし我が家に移せば大切な思い出も守ることができると喜びましたが、でも、どうやって…?
庭木を確認してくれた我が家に来て
下さっている庭師さんが、石屋さんを紹介して下さることになりました(^O^)/
残念ながら庭木はかなり傷んでいたので、ほとんど移すことはできないようですが、「つくばい」などは本当に滑り込みセーフで我が家にやってきました。
photo:12


「つくばい」はお茶事に使われる物で、祖母が晩年暮らした離れにはお茶室もありました。私が大きくなった頃にはお茶事はなかったのですが、祖母がとても大切にしていたので、良かったです。
石灯篭も我が家に来ましたが、真ん中部分は外してあります。
photo:13


photo:14


全く架ける場所はありませんが、石橋も助けだされて、とりあえず我が家の小さな庭の片隅に落ち着きました。
photo:15



主人が庭師さんとトラックで運んでくれた柱時計も、狭い我が家の玄関におさまり、ホッとしています。
photo:16



何度も蒸し風呂のような物置に通いつめて、奇跡的に見つけた物もまだあるんです。
曽祖父がその土地に落ち着いたのは明治17年1884年です。私が祖母の打ち掛けを発見した場所とは別の所にひっそりと待っていた物は…
photo:17


なんと明治19年4月発行の英和大辞典でした。最初はあまりにも埃だらけでわからなかったのですが、中をそっと開けてみて曽祖父の物だとハッキリわかりました。
photo:22


裏表紙からページをめくると、曽祖父が墨で書いた記録がありました。昔はきっと立派な表紙だったでしょうが、長い間あるじを失い、色褪せています。
photo:19


でも、苦学して東京で学んだ曽祖父の気持ちは確かに感じることはできます。
photo:20


「英語がちっとも上達しない」なんて、努力もしないでブツブツ言っている私に、会ったことはないけれども曽祖父が「頑張って勉強しなさい。」と諭してくれているようです。実際には使えない辞書です(そもそも日本語訳が旧漢字、旧仮名遣い)が、私のこれからの語学の勉強の精神的な支えになる、心強い存在です。

忙しい主人にもずいぶん手伝ってもらい、祖母がお嫁入りで持参した桐箪笥の一棹も見つかった時も、思わず「やったー、見つけた!」と父とハイタッチ(=´∀`)人(´∀`=)
photo:21


たまたま長男に手伝ってもらった日で、彼に古い家を見せることもできて良かったです。
私が結婚する時に、実は祖母の桐箪笥の片割れを綺麗にして持ってきました。これで、ちゃんと桐箪笥も一揃い、私の所にたどり着くことができたのです。

ススだらけになりながら、汗だくになりながら、大切な思い出の品々を無事に我が家にと迎えることができました。でも、中には助けることができなかった物もたくさんありました。

昔は台所は土間にあって、おくどさんと言って、薪をくべて煮炊きしていました。どんな日も毎日必ず、祖母より長くいたばあやさんが、朝一番に火をおこして大きな鍋をかけていました。その鍋が木の蓋もついて残っていましたが、主人にも相談したものの、さすがにその鍋は使えないと判断してそのまま置いてきました。
でも…なんだかかわいそうだったかもと今頃思うのです。背中を丸めたばあやさんが火を起こしている姿を鮮やかに思い出します。

物置になっていた場所は元々、住み込みの人達が寝起きしていた場所です。曽祖父の辞書は125年前の物、祖母の打ち掛けは昭和の始めから今までを時空を超えて私に語りかけてきます。数十人分の漆のお膳や鉄瓶、昔の木馬…
そこに確かにあった、一つの世界。長く望んで、待ちわびてようやく男の子を授かった祖母。我が家のリビングには赤ちゃんの叔父を満面の笑みでおんぶする祖母の写真があります。
単なる偶然と言ってしまえば、それまでのことです。けれども、沖縄旅行で、お墓の形の由来を教えていただき、私は叔父はきっと祖母のもとへと還って行ったのだと思いました。

また偶然にも、祖母の実家の親戚筋で、家も近かったので、幼い頃には一緒に遊んだことのある同年代の女性からも連絡をいただきました。彼女は大学卒業後にCAになって世界中を飛び回っているという話までは私も知っていました。でも本当に久しぶりに連絡をいただき、ちょうど彼女も実家に帰っていたので、会いに来てくれました。主人も紹介することもできましたし、お互いの消息を知ることもできて、こちらは嬉しい特典でした。

身体中、アザだらけ、ひどい筋肉痛でヘトヘトになった顛末を書かせていただきました。沖縄旅行で中休みがなければ、もっと根を詰めていて、きっと倒れていたに違いありません。

窓からは「つくばい」が、やっぱり私が好きで植えてもらったあんにゃもんにゃの木の近くに見えます。ずっと我が家が安住の場所でありますようにと願わずにはいられません。
私が譲り受けた品々は、おそらくは骨董品としては価値のないものでしょうが、肝心なことは、それらの物には曽祖父、祖父や祖母や母、ご先祖様や家族全員の魂や思いがこもった、かけがえのないものだということなのです。
柱時計にそっと触れれば、時々大事に磨いていた祖母の姿を思い出すことができます。
もうすぐお盆です。こうして、ゆかりのある品々が我が家に来てくれたことを墓前に報告したいと思っています。
そして我が家のボーイズが私の思いを受け継いでくれますようにと願っています。

長い文章を読んでいただき、本当に有り難うございましたm(_ _)m読者の皆様に心より感謝しますm(_ _)m


MAHALO!











iPhoneからの投稿