ALOHA!
ふだんは家族四人の晩ご飯とか、
語学とか(スランプ中)、ハーブやお花とか、ワンちゃん達のことで頭の中はかなり占領されています。
合間を縫って、とにかく読書の時間は必ずとります。ちょっと体調が今ひとつなので、読書には助けられています(/ _ ; )
さて先日予告させていただいた本について書かせていただきます。
「新世紀へようこそ」
池澤夏樹著
光文社2002年発行
それから、上下巻でもう二冊
「ハーバード白熱教室講義録」+東大特別授業
上下巻
マイケル・サンデル
NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム
小林正弥・杉田晶子訳
「新世紀へようこそ」は池澤夏樹さんの大ファンなので、しばらく前に買って読んでありました。でも、なんとなくすっきりしない読後感が残っていました。
サンデル教授は皆様ご存じのようにテレビで放送されて、日本に白熱教室ブームをもたらした、ハーバード大学の名物、カリスマ教授です。
池澤夏樹さんの本とサンデル教授のこの講義録には共通点があります。
池澤夏樹さんはメールマガジンという形をとり、池澤夏樹さんご自身が出されたメールに対して読者が返信され、指摘や意見交換がありました。それを池澤夏樹さんだけの文章だけでなく、返信された読者の意見も同じ本にまとめられている、メールによる新しい対談方式の一冊です。
サンデル教授のは、講義録でありながら、絶えず学生との討論を重ねながら講義を進めて行くスタイルなので、こちらも新しい対談方式の一冊と申し上げて良いでしょう。
最初に、たまたまテレビでサンデル教授の白熱教室を観た時は、かなり引き込まれて熱中して見入ってしまいました。本当は英語で講義を聴きたいくらいですが、残念ながらそこまでの英語力もなく、日本語吹き替えで聴きました。
もう、ハーバード大学と聞いただけて、ひれ伏していたのでした。だって、ハーバード大学と言えば、アメリカの一番賢い学生が集まる大学の一つです。その講義が公開されたこと自体、異例のことで、こうして日本の田舎に住む普通の母さんでも、ちょっと大学生気分が満喫できて、なんだか「哲学」がちょっぴりでもわかったような気になっていたんです。もちろん、それは恥ずかしい勘違いでしたが…
講義録を早速手に入れて夢中で読みました。一回目…二回目…読み返しました。
「あれ?わかんない所がいっぱいある…(^^;;」
テレビで観た時は、あれほどすんなり入っていたつもりの内容が、なんだかあちこちで引っかかるのです。
サンデル教授はいかにもわかりやすい例を出して、それについて学生達と討論していました。学生達も活発に意見を述べて、まさに白熱教室にふさわしい番組でした。それなのに…
むしろ私には大哲学者というくらいでしか知らなかった、カントとかアリストテレスとかの基本的な考えを知ることができたことの方が収穫にさえ思えた瞬間もありました。
今まで哲学なんて、ただ難しいだけと敬遠してきました。でも「生きる」ことには、自然に「哲学」が含まれていたんですね。そういえば、「人生哲学」だなんて言いますもの。
アリストテレスはこう言ったそうです。
「正義には二つの要素がある。一つは物、一つは物が割り与えられる人々だ。平等である人々には平等な物が割り与えられるべきである」
アリストテレスって、そんなことを言っていたんですね。ふーん…もう一つアリストテレスから
「すべての正義は差別を内包する」
あれ?なんか矛盾があるような…
「孤立している者、政治的共同体の便益を分かち合えない者、または自足していて分かち合う必要がない者は、獣か神であるに違いない」
これは現代社会にも十分通用しますよねd(^_^o)
実際に常に不平等や差別は社会全体に含まれています。
アリストテレスは奴隷制度には反対しなかったようなので、やっぱり矛盾はある訳です。
さてカントです。
「君の人格にも、他のすべての人の人格にもある人間性を単に手段としてのみでなく常に同時に目的として扱うように行為せよ」
「人間および一般的に理性的な存在すべては、目的自体として存在し、誰かの意思によって恣意的に使用されるための手段として存在するのではない」
なんとなく納得。でももっとわかりやすい言葉もあります。
「善意は、その結果や成果のために、善いものになるのではない。それ自体が善いものなのだ。最善の努力をもってしても何も達成しない場合でも、善意はそれ自身が全き価値を持つものとして、宝石のように光輝く」
そしてカントの道徳性の概念は
「行為の道徳的価値は、動機に基づく。(正しい行ないを正しい理由のためにする)」
もちろん、これだけでわかったような気にはなってはいません。哲学の扉をはるかかなたから、覗いているだけです。それでも、知らなかったよりは、知って良かったとおもうのです。
さてサンデル教授の非常に有名な講義「殺人に正義はあるか」
もうご存じの方々が多いと思いますが、線路上の5人の命か1人の命か、どちらを助けるか?とか、サバイバルのための殺人は是か非か?
私個人としては、ダメなものはダメ、問答無用でダメと申し上げたいところです。
だって、命に値段はつけられません。
さて、ここで、いったん池澤夏樹さんの「新世紀へようこそ」に行きます。
この本が書かれたのは、あのNYテロ、アメリカ同時多発テロのすぐ後です。多くの日本人も犠牲になられた、あの世界中のテレビで同時に生中継のような形で衝撃を共有した、あのテロです。
まるで悪趣味なパニック映画のようでしたが、現実のことでした。
それに対して、アメリカは悪の象徴であるらしい、オサマビンラディンを倒すための「正義の戦い」をすると即座に決めました。報復ということでしたが、最初ブッシュ大統領は「十字軍」というたとえを使って批判を浴び、それは引っ込めて「限りない正義」というアフガニスタン進攻作戦名を付けたのです。
さあ、ここで「正義」という言葉が出てきました。「正義」と言うと、なんでもかっこ良く聞こえてしまう、そこが危険なのだと思います。
テロそのものはけっして許されない行為であることは間違いありません。ですが、テロを指示したらしいという一人の、反アメリカ人を捕まえるために、一つの国そのものに武力行使に出ることは、果たして許されるでしょうか?
湾岸戦争の時に、テレビでアメリカ軍の攻撃はピンポイントだから、民間人は犠牲にならないと言って、私たちはまるで映画を観るような気持ちで画面を観ていたように思います。
でも、実際は違っていました。多くの人々が犠牲になり、いまだに湾岸戦争の後遺症は続いています。
アフガニスタン進攻作戦は先日、オサマビンラディンがパキスタンで殺害されたというニュースでとりあえず、お終いとなりました…えっ(-。-; ちょっと待って!
結局、アフガニスタン進攻は何だったんでしょうか(ーー;)最終的にパキスタンにいたから仕方ないんだということですか?腑に落ちません。
アフガニスタン進攻作戦では多くの民間人が犠牲になりました…ピンポイントのはずが、誤爆もあったという報道もありました。
ここで、命の重さが浮き彫りになっていると思います。繰り返しますが、アメリカ同時多発テロの犠牲者の皆様は本当にお気の毒で、ご遺族の哀しみはけっして癒されることはないと思っています。
でも、だからといって、罪のない人々が死んでも構わないとは、どうしても思えません。湾岸戦争でも、アフガニスタン進攻作戦でも、アメリカは圧倒的な軍事力で一応の勝利を収めたかに見えますが、新たな「オサマビンラディン」を作り出したに変わりないとも感じています。
私のアフガニスタン進攻作戦についての知識は新聞や、テレビニュース、そして、この「新世紀へようこそ」からに頼っています。だから間違いがあるかもしれません。結局、どちらの現場にもいなかったので、どなたかの主観の入った本または情報統制されたニュースしか知ることはできないからです。
尊敬する作家の池澤夏樹さんですが、ある一点についてはどうしてもウィ(今、池澤夏樹さんは在フランスですから)とは言えない部分がありました。
それはタリバンの、そうあのバーミヤンをドカンと爆発してしまった組織の女子教育禁止に対するくだりです。
池澤夏樹さんはアフガニスタンに17年滞在していた(発行当時)NPO組織「ペシャワール会」の中村智さんの親タリバンの感情に傾き過ぎていると思います。
実際、現地に溶け込み、年間事業費の95%が現地できちんと使われているという素晴らしい活動に対しては尊敬していますが、そのことで徹底的な女性差別の考え方のタリバンには賛同できません。
タリバンそのものはアメリカと旧ソ連の冷戦の、しかもアメリカが作り出したとも言える組織です。タリバンだけが悪いということではなくて、なぜ、女性蔑視の考え方を肯定されているような中村智さんに全面的に賛成なのでしょうか?
確かに、アメリカ軍には女性兵士もいて、イスラム社会では御法度の肌を露出したような姿で歩いたかもしれません。ですが、イスラム社会の人々が全員その光景を「屈辱感を持って眺める」しかなかったでしょうか?
私は、大半の方々は「はしたない」とは感じたかもしれないと思うのくらいで、屈辱感とは違って、無神経さを感じたのではないかと思います。
知人にパリと日本を拠点にしていらっしゃる方があります。その方からお聞きしましたが、南回りの飛行機でパリに向かうと、途中でアラブ諸国でいったん降ります。あえて国名は書きませんが、とにかくその飛行場で、全身真っ黒の衣装の女性達が乗りこんできます。パリに到着する頃には、素晴らしいパリのオートクチュールで全身固めて降りていらっしゃるそうです。
アラブ諸国とアフガニスタンやパキスタンと同じと思っている訳ではありません。
でも、同じイスラム世界に生まれながら、タリバン支配下の女性とはあまりにも違うではありませんか。好んで黒い、全身を纏っている訳ではないかもしれませんし、ましてや教育とは、制度としてなるべく平等に機会が与えられるべきものと考えています。
女性が教育が高くなったからと言って、男性と社会でうまくやっていけないということはないはずです。西欧の教育が、全て正しいなんて申し上げるつもりはありません。でも、学びたい女性には、ちゃんと教育を受ける権利があると思います。
女性の意識的な無知、は新たな悲劇を生むと考えています。
ただ…ここでまた、「正義とは何か?」と考えこんでしまうのです。
今まさに、テロリストが何年もかかってようやく見つかって死んだからと言って、アメリカ中が歓喜しているのには抵抗感があります。きちんと国際法廷に連れ出すことはできなかったんでしょうか。
日本では正義とは、あくまでもアメリカの正義にイコール過ぎるような気がします。
それでも池澤夏樹さんはこの「新世紀へようこそ」の中で憲法第九条について、ご自身の新しい訳を掲載されています。憲法は何かとわかりにくい表現もありますが、この新訳「第九条」はご一読の価値があると確信しています。
もう一度サンデル教授の方に戻ります。
今、世界中ほとんどが、資本主義の中で、日本人も多くはその生活に慣れています。資本主義とあえて表現したのは、民主主義とは分けて考えたかったからです。
私など実際、資本主義にどっぷりと浸かった日本人の代表です。たまに観るアメリカの映画やテレビドラマ、たとえばラブコメディなど、オシャレで楽しいお話でも、結構な頻度で「セラピー」の場面が出てくるんです。
かかりつけのカウンセラーとか、心理分析医とか、グループセラピーとか…ということは、もしかして、幸福そうに見えるアメリカの皆様も、実はとっても悩んでいるっていうことでしょうか?
なぜ、こんなことを書かせていただいたかと言いますと、サンデル教授の本で初めて「功利主義」という言葉を知ったからです。
アメリカという国は強烈なリバタリアニズムで成り立っています。要するに、自由原理主義、市場原理主義が基本です。
そのこと自体に特に問題があるなどと言えない立場であるとはわかっています。ですが、あまりにも個人の権利に固執するあまりに、いったん社会的弱者や低所得層に生まれた時点で、その後の人生が決まってしまうなんて、なんだかフェアじゃないなぁと思うのです。
サンデル教授もその点にはかなり言及しています。また生まれたコミュニティによって、どう変わるかということにも注目し、学生と討論していました。
実際、個人はあるコミュニティに属し、コミュニティは特定の国家に含まれるのですから、こちらは正義とはということにも関係していくようです。
コミュニティごとに正義が違ったら、一つにまとまるのは難しいですから、とりあえず同じ国の中では正義は一つということになっています。
でも、国が違ったら?というよりも、アメリカとアメリカ以外の国で、正義の定義が違ったら?どちらの正義が正しいということになるのでしょうか?
そもそも、正義って正しいことですよね。
で、アメリカは「限りない正義」と言い、イスラム原理主義者は「聖戦」と言い、両者譲らないんですよね。結局、戦争になってしまいます。
サンデル教授は「オバマ大統領はヒロシマやナガサキについて謝罪すべきか?」という質問を東大特別講義で学生に投げかけていました。
ところが、ご自身がインタビューを受けて同じ質問を受けた時には、大変歯切れが悪かったので、ちょっとがっかりしました。
私自身の考えは、謝罪を求めるのではなく、実際にオバマ大統領にヒロシマやナガサキを訪問してもらい、悲惨な体験をされた方々の思いを現地で少しでも想像してみてほしい、そんなふうに思っています。
私の母は少女時代を戦中派として過ごしました。祖母は夫である祖父を軍医として招集されて、祖父の不在中は大変苦労したようです。祖父は祖母以外には戦地でのことはあまり語らなかったらしく、祖母から数少ない祖父の従軍体験を聞く時には、いつも少し緊張しました。
それよりもっと怖かったのは、実際に焼夷弾が落ちてきて、ご近所の家が焼けてしまったり、防空壕に逃げこんだ母の話でした。学徒動員で製糸工場で働いていた経験を持つ母は、戦時中は本人曰く「バリバリの軍国少女」だったそうです。
勉強が大好きだった母が製糸工場で「お国のために働いている」と信じて、絶えず焼夷弾の恐怖に怯えながら、祖父の帰還を待った数年間…
幸い、祖父は戦地で現地の方々とも仲良くなり、病人には分け隔てなく接したおかげで、最終的には怪我もなく、記念の品までいただいて奇跡的に生還できました。
でも軍医として戦死された方々も多く、手放しでは喜べないと祖母に語っていたようです。
祖母や母達が待っていた家は幸い爆弾は落ちず、東京から疎開していた親戚も誰も命を落とさずにすみました。
母は「戦争中は全く何も疑いもしなかったの。それなのに、急に価値観がある日突然変わってしまって、何も、誰も信用できないと感じたわ。だからかしらね、どんなことにもしばらくは常に疑い深かったわ。」
叔母は終戦と共にそれまで女学校だったのが、急に男女共学になったのが一番印象に残ったそうです。あとは「戦争中はいつもお腹が空いていたの。好き嫌いなんて言えなかった。お砂糖なんて、すごく貴重品だったのよ。」と話していました。
良い教育を受けた祖母や母達でも、日本が戦争に向かって行く時には、それがどんなことになるか想像もできなかった…敵国だったはずのアメリカが全ての価値観にとって変わった瞬間を体験しました。でも、もう戦争を直接知る世代は減りつつあります。母もとうにいません。
「正しい殺人はあるのか?」というサンデル教授の問いに、私は「問答無用でダメなものはダメと申し上げたい」と書きました。でも、「問答」は常に必要だと思い直しました。
もしかしたら、その「問答」こそが「哲学」ではないでしょうか?
私にはまだ、わかりませんが、きちんと常にニュースを双方向から考えることができる環境が望ましい社会だと思います。
この「新世紀」vs「白熱教室」については、まだまだ書き足りない部分がありますので、いずれまた機会を改めて書かせていただきたいと思っています。
先日、このことをブログに書かせていただこうと、考え事をしながら花壇にたくさんのバジルの苗を一生懸命植えていました。
苗を植えながら、「祖母達はサツマイモは茎も全部食べたなんて言ってたなぁ。私は幸せだわ、ハーブを楽しみで育てられるんだもの。」なーんて考えたり…
苗を持って立ち上がろうとした瞬間Σ(゚д゚lll)腰にいやーな、ぴきっという感覚が…!(◎_◎;)う、動けない…(>人<;)どうしよう…
その体勢のまま、近くにもう一つの苗を植えます。花壇の中でズリズリと、そろりそろりと動き、まだ苗を植える私。いよいよ腰がだるくて重くて痛い(T_T)
「奥さん、こんにちは」「あ、ご苦労様でーす。ニコッ」主人の従業員さんに笑顔で挨拶…ヽ(´o`;あ、今、ちょっと助けて下さいって頼めば良かった、かな…どうしよう…
結局、苗を持ったまま駐車場の立て看板まで脂汗流しながら、中腰のままでヨタヨタと行って…たった2mもない距離が遠く…そして、その間にも挨拶して(^^;;やっと、掴まって、必死の思いでどうにか立ち上がりました。・°°・(>_<)・°°・。
家にやっとの思いでたどりつき、しばらく動けず家族に迷惑かけてしまいました。でも…去年、ワサワサに茂ったバジルのおかげでジェノベーゼを何度も家族に褒めてもらった私。今年もまた家族に「美味しい!」と言ってもらいたかったんですよね。
カントの名言を思い出していただき、ちょっと笑っていただければ幸いです。
今回はここまでです。長い文章を最後まで読んで下さって有り難うございましたm(_ _)m読者の皆様に感謝しますm(_ _)m時々ですが、たまにですが、こういう記事も書かせていただきたいので、これに懲りずによろしくお付き合いのほど、お願い申し上げますm(_ _)m
MAHALO!
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ふだんは家族四人の晩ご飯とか、
語学とか(スランプ中)、ハーブやお花とか、ワンちゃん達のことで頭の中はかなり占領されています。
合間を縫って、とにかく読書の時間は必ずとります。ちょっと体調が今ひとつなので、読書には助けられています(/ _ ; )
さて先日予告させていただいた本について書かせていただきます。
「新世紀へようこそ」
池澤夏樹著
光文社2002年発行
それから、上下巻でもう二冊
「ハーバード白熱教室講義録」+東大特別授業
上下巻
マイケル・サンデル
NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム
小林正弥・杉田晶子訳
「新世紀へようこそ」は池澤夏樹さんの大ファンなので、しばらく前に買って読んでありました。でも、なんとなくすっきりしない読後感が残っていました。
サンデル教授は皆様ご存じのようにテレビで放送されて、日本に白熱教室ブームをもたらした、ハーバード大学の名物、カリスマ教授です。
池澤夏樹さんの本とサンデル教授のこの講義録には共通点があります。
池澤夏樹さんはメールマガジンという形をとり、池澤夏樹さんご自身が出されたメールに対して読者が返信され、指摘や意見交換がありました。それを池澤夏樹さんだけの文章だけでなく、返信された読者の意見も同じ本にまとめられている、メールによる新しい対談方式の一冊です。
サンデル教授のは、講義録でありながら、絶えず学生との討論を重ねながら講義を進めて行くスタイルなので、こちらも新しい対談方式の一冊と申し上げて良いでしょう。
最初に、たまたまテレビでサンデル教授の白熱教室を観た時は、かなり引き込まれて熱中して見入ってしまいました。本当は英語で講義を聴きたいくらいですが、残念ながらそこまでの英語力もなく、日本語吹き替えで聴きました。
もう、ハーバード大学と聞いただけて、ひれ伏していたのでした。だって、ハーバード大学と言えば、アメリカの一番賢い学生が集まる大学の一つです。その講義が公開されたこと自体、異例のことで、こうして日本の田舎に住む普通の母さんでも、ちょっと大学生気分が満喫できて、なんだか「哲学」がちょっぴりでもわかったような気になっていたんです。もちろん、それは恥ずかしい勘違いでしたが…
講義録を早速手に入れて夢中で読みました。一回目…二回目…読み返しました。
「あれ?わかんない所がいっぱいある…(^^;;」
テレビで観た時は、あれほどすんなり入っていたつもりの内容が、なんだかあちこちで引っかかるのです。
サンデル教授はいかにもわかりやすい例を出して、それについて学生達と討論していました。学生達も活発に意見を述べて、まさに白熱教室にふさわしい番組でした。それなのに…
むしろ私には大哲学者というくらいでしか知らなかった、カントとかアリストテレスとかの基本的な考えを知ることができたことの方が収穫にさえ思えた瞬間もありました。
今まで哲学なんて、ただ難しいだけと敬遠してきました。でも「生きる」ことには、自然に「哲学」が含まれていたんですね。そういえば、「人生哲学」だなんて言いますもの。
アリストテレスはこう言ったそうです。
「正義には二つの要素がある。一つは物、一つは物が割り与えられる人々だ。平等である人々には平等な物が割り与えられるべきである」
アリストテレスって、そんなことを言っていたんですね。ふーん…もう一つアリストテレスから
「すべての正義は差別を内包する」
あれ?なんか矛盾があるような…
「孤立している者、政治的共同体の便益を分かち合えない者、または自足していて分かち合う必要がない者は、獣か神であるに違いない」
これは現代社会にも十分通用しますよねd(^_^o)
実際に常に不平等や差別は社会全体に含まれています。
アリストテレスは奴隷制度には反対しなかったようなので、やっぱり矛盾はある訳です。
さてカントです。
「君の人格にも、他のすべての人の人格にもある人間性を単に手段としてのみでなく常に同時に目的として扱うように行為せよ」
「人間および一般的に理性的な存在すべては、目的自体として存在し、誰かの意思によって恣意的に使用されるための手段として存在するのではない」
なんとなく納得。でももっとわかりやすい言葉もあります。
「善意は、その結果や成果のために、善いものになるのではない。それ自体が善いものなのだ。最善の努力をもってしても何も達成しない場合でも、善意はそれ自身が全き価値を持つものとして、宝石のように光輝く」
そしてカントの道徳性の概念は
「行為の道徳的価値は、動機に基づく。(正しい行ないを正しい理由のためにする)」
もちろん、これだけでわかったような気にはなってはいません。哲学の扉をはるかかなたから、覗いているだけです。それでも、知らなかったよりは、知って良かったとおもうのです。
さてサンデル教授の非常に有名な講義「殺人に正義はあるか」
もうご存じの方々が多いと思いますが、線路上の5人の命か1人の命か、どちらを助けるか?とか、サバイバルのための殺人は是か非か?
私個人としては、ダメなものはダメ、問答無用でダメと申し上げたいところです。
だって、命に値段はつけられません。
さて、ここで、いったん池澤夏樹さんの「新世紀へようこそ」に行きます。
この本が書かれたのは、あのNYテロ、アメリカ同時多発テロのすぐ後です。多くの日本人も犠牲になられた、あの世界中のテレビで同時に生中継のような形で衝撃を共有した、あのテロです。
まるで悪趣味なパニック映画のようでしたが、現実のことでした。
それに対して、アメリカは悪の象徴であるらしい、オサマビンラディンを倒すための「正義の戦い」をすると即座に決めました。報復ということでしたが、最初ブッシュ大統領は「十字軍」というたとえを使って批判を浴び、それは引っ込めて「限りない正義」というアフガニスタン進攻作戦名を付けたのです。
さあ、ここで「正義」という言葉が出てきました。「正義」と言うと、なんでもかっこ良く聞こえてしまう、そこが危険なのだと思います。
テロそのものはけっして許されない行為であることは間違いありません。ですが、テロを指示したらしいという一人の、反アメリカ人を捕まえるために、一つの国そのものに武力行使に出ることは、果たして許されるでしょうか?
湾岸戦争の時に、テレビでアメリカ軍の攻撃はピンポイントだから、民間人は犠牲にならないと言って、私たちはまるで映画を観るような気持ちで画面を観ていたように思います。
でも、実際は違っていました。多くの人々が犠牲になり、いまだに湾岸戦争の後遺症は続いています。
アフガニスタン進攻作戦は先日、オサマビンラディンがパキスタンで殺害されたというニュースでとりあえず、お終いとなりました…えっ(-。-; ちょっと待って!
結局、アフガニスタン進攻は何だったんでしょうか(ーー;)最終的にパキスタンにいたから仕方ないんだということですか?腑に落ちません。
アフガニスタン進攻作戦では多くの民間人が犠牲になりました…ピンポイントのはずが、誤爆もあったという報道もありました。
ここで、命の重さが浮き彫りになっていると思います。繰り返しますが、アメリカ同時多発テロの犠牲者の皆様は本当にお気の毒で、ご遺族の哀しみはけっして癒されることはないと思っています。
でも、だからといって、罪のない人々が死んでも構わないとは、どうしても思えません。湾岸戦争でも、アフガニスタン進攻作戦でも、アメリカは圧倒的な軍事力で一応の勝利を収めたかに見えますが、新たな「オサマビンラディン」を作り出したに変わりないとも感じています。
私のアフガニスタン進攻作戦についての知識は新聞や、テレビニュース、そして、この「新世紀へようこそ」からに頼っています。だから間違いがあるかもしれません。結局、どちらの現場にもいなかったので、どなたかの主観の入った本または情報統制されたニュースしか知ることはできないからです。
尊敬する作家の池澤夏樹さんですが、ある一点についてはどうしてもウィ(今、池澤夏樹さんは在フランスですから)とは言えない部分がありました。
それはタリバンの、そうあのバーミヤンをドカンと爆発してしまった組織の女子教育禁止に対するくだりです。
池澤夏樹さんはアフガニスタンに17年滞在していた(発行当時)NPO組織「ペシャワール会」の中村智さんの親タリバンの感情に傾き過ぎていると思います。
実際、現地に溶け込み、年間事業費の95%が現地できちんと使われているという素晴らしい活動に対しては尊敬していますが、そのことで徹底的な女性差別の考え方のタリバンには賛同できません。
タリバンそのものはアメリカと旧ソ連の冷戦の、しかもアメリカが作り出したとも言える組織です。タリバンだけが悪いということではなくて、なぜ、女性蔑視の考え方を肯定されているような中村智さんに全面的に賛成なのでしょうか?
確かに、アメリカ軍には女性兵士もいて、イスラム社会では御法度の肌を露出したような姿で歩いたかもしれません。ですが、イスラム社会の人々が全員その光景を「屈辱感を持って眺める」しかなかったでしょうか?
私は、大半の方々は「はしたない」とは感じたかもしれないと思うのくらいで、屈辱感とは違って、無神経さを感じたのではないかと思います。
知人にパリと日本を拠点にしていらっしゃる方があります。その方からお聞きしましたが、南回りの飛行機でパリに向かうと、途中でアラブ諸国でいったん降ります。あえて国名は書きませんが、とにかくその飛行場で、全身真っ黒の衣装の女性達が乗りこんできます。パリに到着する頃には、素晴らしいパリのオートクチュールで全身固めて降りていらっしゃるそうです。
アラブ諸国とアフガニスタンやパキスタンと同じと思っている訳ではありません。
でも、同じイスラム世界に生まれながら、タリバン支配下の女性とはあまりにも違うではありませんか。好んで黒い、全身を纏っている訳ではないかもしれませんし、ましてや教育とは、制度としてなるべく平等に機会が与えられるべきものと考えています。
女性が教育が高くなったからと言って、男性と社会でうまくやっていけないということはないはずです。西欧の教育が、全て正しいなんて申し上げるつもりはありません。でも、学びたい女性には、ちゃんと教育を受ける権利があると思います。
女性の意識的な無知、は新たな悲劇を生むと考えています。
ただ…ここでまた、「正義とは何か?」と考えこんでしまうのです。
今まさに、テロリストが何年もかかってようやく見つかって死んだからと言って、アメリカ中が歓喜しているのには抵抗感があります。きちんと国際法廷に連れ出すことはできなかったんでしょうか。
日本では正義とは、あくまでもアメリカの正義にイコール過ぎるような気がします。
それでも池澤夏樹さんはこの「新世紀へようこそ」の中で憲法第九条について、ご自身の新しい訳を掲載されています。憲法は何かとわかりにくい表現もありますが、この新訳「第九条」はご一読の価値があると確信しています。
もう一度サンデル教授の方に戻ります。
今、世界中ほとんどが、資本主義の中で、日本人も多くはその生活に慣れています。資本主義とあえて表現したのは、民主主義とは分けて考えたかったからです。
私など実際、資本主義にどっぷりと浸かった日本人の代表です。たまに観るアメリカの映画やテレビドラマ、たとえばラブコメディなど、オシャレで楽しいお話でも、結構な頻度で「セラピー」の場面が出てくるんです。
かかりつけのカウンセラーとか、心理分析医とか、グループセラピーとか…ということは、もしかして、幸福そうに見えるアメリカの皆様も、実はとっても悩んでいるっていうことでしょうか?
なぜ、こんなことを書かせていただいたかと言いますと、サンデル教授の本で初めて「功利主義」という言葉を知ったからです。
アメリカという国は強烈なリバタリアニズムで成り立っています。要するに、自由原理主義、市場原理主義が基本です。
そのこと自体に特に問題があるなどと言えない立場であるとはわかっています。ですが、あまりにも個人の権利に固執するあまりに、いったん社会的弱者や低所得層に生まれた時点で、その後の人生が決まってしまうなんて、なんだかフェアじゃないなぁと思うのです。
サンデル教授もその点にはかなり言及しています。また生まれたコミュニティによって、どう変わるかということにも注目し、学生と討論していました。
実際、個人はあるコミュニティに属し、コミュニティは特定の国家に含まれるのですから、こちらは正義とはということにも関係していくようです。
コミュニティごとに正義が違ったら、一つにまとまるのは難しいですから、とりあえず同じ国の中では正義は一つということになっています。
でも、国が違ったら?というよりも、アメリカとアメリカ以外の国で、正義の定義が違ったら?どちらの正義が正しいということになるのでしょうか?
そもそも、正義って正しいことですよね。
で、アメリカは「限りない正義」と言い、イスラム原理主義者は「聖戦」と言い、両者譲らないんですよね。結局、戦争になってしまいます。
サンデル教授は「オバマ大統領はヒロシマやナガサキについて謝罪すべきか?」という質問を東大特別講義で学生に投げかけていました。
ところが、ご自身がインタビューを受けて同じ質問を受けた時には、大変歯切れが悪かったので、ちょっとがっかりしました。
私自身の考えは、謝罪を求めるのではなく、実際にオバマ大統領にヒロシマやナガサキを訪問してもらい、悲惨な体験をされた方々の思いを現地で少しでも想像してみてほしい、そんなふうに思っています。
私の母は少女時代を戦中派として過ごしました。祖母は夫である祖父を軍医として招集されて、祖父の不在中は大変苦労したようです。祖父は祖母以外には戦地でのことはあまり語らなかったらしく、祖母から数少ない祖父の従軍体験を聞く時には、いつも少し緊張しました。
それよりもっと怖かったのは、実際に焼夷弾が落ちてきて、ご近所の家が焼けてしまったり、防空壕に逃げこんだ母の話でした。学徒動員で製糸工場で働いていた経験を持つ母は、戦時中は本人曰く「バリバリの軍国少女」だったそうです。
勉強が大好きだった母が製糸工場で「お国のために働いている」と信じて、絶えず焼夷弾の恐怖に怯えながら、祖父の帰還を待った数年間…
幸い、祖父は戦地で現地の方々とも仲良くなり、病人には分け隔てなく接したおかげで、最終的には怪我もなく、記念の品までいただいて奇跡的に生還できました。
でも軍医として戦死された方々も多く、手放しでは喜べないと祖母に語っていたようです。
祖母や母達が待っていた家は幸い爆弾は落ちず、東京から疎開していた親戚も誰も命を落とさずにすみました。
母は「戦争中は全く何も疑いもしなかったの。それなのに、急に価値観がある日突然変わってしまって、何も、誰も信用できないと感じたわ。だからかしらね、どんなことにもしばらくは常に疑い深かったわ。」
叔母は終戦と共にそれまで女学校だったのが、急に男女共学になったのが一番印象に残ったそうです。あとは「戦争中はいつもお腹が空いていたの。好き嫌いなんて言えなかった。お砂糖なんて、すごく貴重品だったのよ。」と話していました。
良い教育を受けた祖母や母達でも、日本が戦争に向かって行く時には、それがどんなことになるか想像もできなかった…敵国だったはずのアメリカが全ての価値観にとって変わった瞬間を体験しました。でも、もう戦争を直接知る世代は減りつつあります。母もとうにいません。
「正しい殺人はあるのか?」というサンデル教授の問いに、私は「問答無用でダメなものはダメと申し上げたい」と書きました。でも、「問答」は常に必要だと思い直しました。
もしかしたら、その「問答」こそが「哲学」ではないでしょうか?
私にはまだ、わかりませんが、きちんと常にニュースを双方向から考えることができる環境が望ましい社会だと思います。
この「新世紀」vs「白熱教室」については、まだまだ書き足りない部分がありますので、いずれまた機会を改めて書かせていただきたいと思っています。
先日、このことをブログに書かせていただこうと、考え事をしながら花壇にたくさんのバジルの苗を一生懸命植えていました。
苗を植えながら、「祖母達はサツマイモは茎も全部食べたなんて言ってたなぁ。私は幸せだわ、ハーブを楽しみで育てられるんだもの。」なーんて考えたり…
苗を持って立ち上がろうとした瞬間Σ(゚д゚lll)腰にいやーな、ぴきっという感覚が…!(◎_◎;)う、動けない…(>人<;)どうしよう…
その体勢のまま、近くにもう一つの苗を植えます。花壇の中でズリズリと、そろりそろりと動き、まだ苗を植える私。いよいよ腰がだるくて重くて痛い(T_T)
「奥さん、こんにちは」「あ、ご苦労様でーす。ニコッ」主人の従業員さんに笑顔で挨拶…ヽ(´o`;あ、今、ちょっと助けて下さいって頼めば良かった、かな…どうしよう…
結局、苗を持ったまま駐車場の立て看板まで脂汗流しながら、中腰のままでヨタヨタと行って…たった2mもない距離が遠く…そして、その間にも挨拶して(^^;;やっと、掴まって、必死の思いでどうにか立ち上がりました。・°°・(>_<)・°°・。
家にやっとの思いでたどりつき、しばらく動けず家族に迷惑かけてしまいました。でも…去年、ワサワサに茂ったバジルのおかげでジェノベーゼを何度も家族に褒めてもらった私。今年もまた家族に「美味しい!」と言ってもらいたかったんですよね。
カントの名言を思い出していただき、ちょっと笑っていただければ幸いです。
今回はここまでです。長い文章を最後まで読んで下さって有り難うございましたm(_ _)m読者の皆様に感謝しますm(_ _)m時々ですが、たまにですが、こういう記事も書かせていただきたいので、これに懲りずによろしくお付き合いのほど、お願い申し上げますm(_ _)m
MAHALO!
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