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内閣府による中国中国に対する世論調査が発表されています。

日本人は中国に対して、
「親しみを感じる」が14.7%
「親しみを感じない」が84.7%

因みにアメリカに対しては真逆(84.9%、14.2%)ねー

今は、中国と関わると"媚中"というレッテルを貼りたがる輩も出てくるほど魂

しかし、海を隔ててはいるものの、隣国である中国を感情的に敵視していては、しっぺ返しを喰らうのは日本だと思います。経済的にも、軍事的にも、そして人としてもグー

今日は、中国との国交が断絶していた時代を振り返り、これからの未来を、日本人として、どう生きるべきかを学びたいと思います下矢印





君たちよ、惨禍の果てしなく続く世界を直視せよ!そして、苦悩の渦巻く現実から眼をそらすな!

常に人間は、人々の幸福のために、平和のために、勇気の叫びをあげていくべきだ。英知の言葉を発していくべきだ。

ともあれ、行動だ。生きるとは戦うことなのだ。



日中関係


1968(昭和43年)、中国は既に7億を超す世界第一の大きな人口を抱える国であった。しかし、国連からも締め出され、極端な孤立化の道を歩んでいた。

また、中国はアメリカの巨大な力に激しく反発していた。それが、韓・朝鮮半島、台湾から東南アジア全域にわたる、政治的緊張と国際不安の誘因となっていることは、否定しようのない事実であった。

ベトナム戦争に象徴されるように、アジアには東西両陣営の対立が持ち込まれてきたが、資本主義陣営の後ろ盾がアメリカであるのに対して、共産主義側の後ろ盾は、ソ連よりも、むしろ中国であった。

ベトナム戦争

(1955-1975)



しかも、中国とソ連の関係も悪化し、一段と緊張は高まりつつあった。国際情勢のなかでの中国の立場は、北と西はソ連によって、南と東は事実上、アメリカによって包囲されている状況といってよかった。

この包囲網を突き破ろうと、中国は軍事力を強化し、ミサイルと核の開発に力を注いでいた。その中国を、国際社会の"異端児"のような状態に追い込んでいたのでは、アジアの平和と繁栄の実現はありえない。いや、世界の平和もありえない。


日本は、古代国家として統一する以前から、一貫して中国文明の強い影響を受けながら、発展を続けてきた。これは周知の事実だ。

日本の文化に決定的な影響を及ぼした仏教も、古くは弥生文化の稲作技術も、中国から日本に伝来したものであった。

あの江戸時代の鎖国のなかでさえ、道徳や政治哲学は中国の儒教に学んでいたし、日本の文物、風俗、習慣の多くは、中国に起源をもっているといっても過言ではない。

また、古代、日本に渡って来た人々のなかには、大陸からの渡来人が多く、伝教大師(=最澄)も、そうした人たちの子孫であったと伝えられている。

さらに地理的にも、日本はアジアの一国であり、海によって隔てられてはいるが、紛れもない隣国である。

この縁も深き、計り知れない大恩の国である中国を、かつて、日本は侵略した。悪逆非道の限りを尽くした。なんたる不知恩、なんたる傲慢か!

武漢に迫る日本軍(1938)


中国と日本との関係は絶たれ、戦後、既に20余年が過ぎても、正常化される気配さえなかった。

日本は、戦後、なぜ中国との国交正常化に踏み切ることができなかったのか。また、中国は、なぜ国際社会のなかで孤立化していったのか - 。


二つの中国

1943年(昭和18年)11月、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石の、米英中の三国首脳が集まり、戦後処理について語り合った、あの世界的に有名なカイロでの会談があった。

カイロ会談

蒋介石、ルーズベルト、チャーチル


この結果、日本の支配下にあった台湾は、終戦後は、満州などとともに、中国に返還することが決められたのである。

大戦が終わると、アメリカは蒋介石の国民党による中国の統一を後押ししたが、毛沢東が率いる中国共産党が内戦に勝利し、国民党は台湾に逃れた。

毛沢東

【1893-1976】


1949年(昭和24年)10月、中華人民共和国が成立する。

翌年1月、トルーマン米大統領は、アメリカは中国の内戦に介入するつもりはなく、台湾の国民党に軍事援助は行わないとの声明を発表した。

トルーマン

【1884-1972】


ところが、6月に朝鮮戦争が勃発すると、共産主義の拡大を恐れたアメリカは、方針を変えて、次のような声明を出した。- 米第七艦隊を台湾海峡に派遣し、共産勢力の台湾への攻撃の阻止にあたらせるとともに、台湾の国民党政府に対しても、大陸への空・海の作戦中止を要請するというのである。

朝鮮戦争

(1950-1953)


また、台湾の地位については、太平洋の安全の復活、日本との講和、そして、さらに国連の検討を待たねばならないとしていた。これは「二つの中国」、もしくは「一つの中国、一つの台湾」を生み出すことにつながる内政干渉といえるものであった。

こうした状況下で、アメリカの主導のもとに、第二次世界大戦の連合国と日本国の講和が勧められていった。

そして51年(同26年)9月に、サンフランシスコで講和会議が開かれたのである。

サンフランシスコ講和会議


これは、日本の戦争状態を終結させ、日本が独立を果たすためのものであったが、日本の軍国主義の最大の被害者である中国の代表も、また、台湾の国民党政府の代表も、招請されなかった。

講和会議には、日本を含む52カ国が参加したが、東側の陣営であるソ連、そして、ポーランド、チェコスロバキアは、講和条約の署名はしなかった。

結局、対日講和条約は全連合国が調印する全面講和には至らず西側諸国なみの片面講和となってしまった。

この時、日本はこの講和条約とともに、日米安保条約を結び、防衛をアメリカに依存し、冷戦構造のなかの反共体制の一環に組み込まれたのである。


民間交流

国連では、依然として台湾の国民党政府が、全中国を代表する政権としての地位を維持していた。

アメリカは日本に、この国民党政府との講和締結を迫った。そして、1952年(昭和27年)4月、日本は平和条約に調印した。

これが、日本と中国との関係に、決定的な溝を刻むことになってしまったのである。

しかし、中国の周恩来総理は、この悪条件下、中日の間に国交はなくとも、貿易を中心とする民間交流を活性化させる方針を打ち出していった。

周恩来
【1898-1976】


まさに、"民をもって官を促す"ことによって、中日の友好の道を開こうとしたのである。


また、日本側にも、積極的に、中国との貿易を推進しようとする政治家や経済人がいた。こうした人々の努力が実り、日中間に民間貿易協定が結ばれたのは、1952年(昭和27年)6月のことであった。

しかし、57年(同32年)2月、首相に就任した岸信介は、中国との対決姿勢を鮮明に打ち出し、東南アジア、アメリカを訪問し、反共・反中国的な発言を繰り返したのである。

岸信介

【1896-1987】


特に、台湾では、蒋介石に、「大陸を回復するとすれば、私としては非常に結構である」と、"大陸反抗"を支持し、中国の猛反発を引き起こした。こうした首相の言動によって、日中交流の前途に、暗雲が垂れ込め始めてしまったのであった。

そのなかで、58年(同33年)5月、"長崎国旗事件"が起こった。長崎のデパートで開かれた中国の切手などの展示会で、一人の男が、会場に掲げていた中国の国旗を引きずり降ろすという事件である。

折しも、貿易協定延長をめぐって、中国の国旗の掲揚が焦点となっていたさなかであった。日本政府は、新たに日本に設置される中国の民間通商代表部に、中国の国旗を掲げることを頑として認めなかった。国家として承認していない中国の旗を、掲揚させるわけにはいかないというのである。そして、中国の国旗は国を代表する旗ではなく、"器物"として扱うことを明らかにしたのだ。

長崎の事件では、警察は旗が破れていないことを理由に、中国の国旗を引きずり降ろした男を、すぐに釈放した。

中国にしてみれば、国家の名誉と尊厳が、踏み躙られたに等しい出来事であった。これが契機となって貿易交渉は決裂し、日中貿易は不幸にも中断してしまった。

中国は、日中関係の改善の条件として、日本政府に対して次のような内容を提示した。

一、中国を敵視する政策はやめること。
二、アメリカに追随して、「二つの中国」をつくる陰謀には加わらないこと。
三、中日両国の関係が正常化の方向に向かって発展していくのを妨げないこと。

これらは、「政治三原則」と呼ばれ、関係打開への大前提とされた。

また、中国は、政治と経済を分離し、経済交流のみを容認する日本政府の「政経分離」の立場を批判し、「政経不可分」の原則を強調したのである。

日中貿易の途絶は、中国から輸入される「食材」や「漆(うるし)」等を扱っていた中華料理店や中小企業など、社会に大きな打撃を与えた。

周総理は、その窮状を救おうと、中小企業等で、中国の特定物資の供給を希望するものは、友好団体の紹介があれば、特別に配慮すると発表。いわゆる、当時、有名な言葉となった「配慮物資」である。

それは、本来の「貿易」とは異なってはいたが、これによって日中の交流の命脈は、かろうじて保たれることになったのである。


憂国の士

この激動の時代のなかで、必死になって、日中間の亀裂を修復しようとする人物がいた。代議士の松村謙三である。

松村謙三

【1883-1971】


彼は、古武士を思わせる"信念の士"であった。青春時代に早稲田大学で中国語を学び、戦前から、中国大陸に足を運んだ経験があった。また、戦後は、厚生大臣、文部大臣、農林大臣も務めた政界の重鎮である。

松村は、新中国の実情を自分の目で確かめるとともに、自ら日中のパイプ役になろうと、中国訪問を望んでいた。周総理も、両国の未来のために、松村の訪中の意向を重要視して、彼を中国に招いた。

1959年(昭和34年)の秋のことである。松村は当時76歳であり、迎える周総理は61歳であった。

この訪中は、全行程15000キロにわたる40余日の緊張の旅であったが、松村は、勇んで中国の大地を踏んだ。座していたのでは、事態は開けない。行動である。会って語り合う勇気こそが、歴史を変えていくのだ。

松村と周総理との会談は、4度にわたった。周総理は、日本の中国敵視政策を厳しく批判した。友好を願う人にとって、それは、当然の発言であろう。

さらに、総理は、アメリカの強大な影響下で、日本は軍国主義を復活させるのではないかと、深く憂慮していることを語った。

松村は、強い語調で訴えた。

「賢明な日本人は、そんなことには、決してなりません!」

息詰まる議論の応酬であった。真剣なるがゆえに、互いの言葉には力がこもった。誠実なるがゆえに、率直に、歯に絹を着せない、ありのままの意見が戦わされた。

この語らいを通して、互いに、日中関係の改善に尽くそうとする、燃えるような熱意と、人間としての信義を感じ取っていったのである。

さらに、松村は、密雲ダムの視察に向かう列車の中で、日中国交の推進に大きな力を発揮する人物を待望する周総理に、高碕達之助を推薦したのであった。

高碕達之助
【1885-1964】


高碕は、バンドン会議(1955年)にも、日本の主席代表として参加したり、周総理も以前から知っていた人物である。進取の気風に富み、常に未来を鋭く見据えてきた、関西の財界を代表する実業家であった。

戦前は、東洋製罐を創立し、満州重工業総裁にも就任している。満州で終戦を迎えた彼は、決死の覚悟で、ソ連軍の司令官に対して、日本人の生命を守るようにかけ合った、熱血の人である。

戦後は、電源開発総裁を務めるとともに、大日本水産会会長として、日ソ漁業交渉に尽力した人物でもある。また、鳩山一郎が首相に就任すると、経済審議庁長官として入閣し、岸内閣では通産大臣を務めた。

松村謙三が高碕を日中友好の力となる人物として推薦したことから、周総理と高碕との絆は一段と強まり、やがて新たな貿易再開の道が、開かれていくのである。

一方、反中国政策を続けていた岸総理は、1960年(昭和35年)に安保改定を強行し、世論の猛反発を買い、退陣を余儀なくされた。代わって登場したのが池田勇人である。彼が首班指名を受けたのは、60年7月のことであった。

池田勇人

【1899-1965】


この池田内閣の時代、日本は高度経済成長を遂げるとともに、日中関係も、改善の道をたどっていくことになる。周総理も、中断されていた日中貿易の再開に前向きな姿勢を見せ、「政治三原則」を前提として「政府間協定」「民間契約」「個別的配慮」という、「貿易三原則」を明らかにした。

周総理は、貿易協定の原則は「政治間協定」でなければならないと考えていた。それは、民間協定といっても、政府の保障がなければ、極めて不安定な貿易にならざるをえないからである。しかし、仮に政府間協定に至らなくとも、その企業が「政治三原則」などを重んじるならば「友好商社」として認め、「民間契約」を結ぶことができるとした。つまり、「友好貿易」が行えるのである。

さらに日本側で日中貿易の中断で危機に陥っている企業に対しては、引き続き中国側は、「個別的配慮」を行うとしたのである。

周総理によって、「貿易三原則」が示されると、低迷していた日本の経済界は沸き立った。多くの企業が中国との取引の希望をもっていたのである。

1960年(昭和35年)の10月には、高碕達之助が、経済界の代表とともに訪中した。友好商社の数も増大し、民間契約による友好貿易は活発化していった。

1962年(昭和37年)9月には、再び松村謙三が、代表団を組織し、貿易の新しい流れを開くために中国に飛んだ。松村は、池田勇人首相から、中国に関するすべてを任されていた。この訪中で彼は、3度にわたって周総理と会談した。そして、「政治三原則」「貿易三原則」の堅持とともに、次のような合意がなされたのである。

「双方は、漸進的かつ積み重ねの方式をとり、政治関係と経済関係を含む両国の関係の正常化をはかるべきであると一致して認めた」

翌月の10月には、この合意を実務のうえで具体化するために高碕が総勢42人の大型代表団を引き連れて訪中したのである。

彼は、中国側の代表である廖承志と検討を重ねた。そして、"長期延べ払い"を柱とし、5カ年にわたる貿易を取り決めた「日中総合貿易に関する覚書」に調印した。

これは、覚書に署名した廖と高碕のイニシャルから「LT貿易」と呼ばれることになる。

高碕達之助と廖承志


この「LT貿易」は、個別の企業の責任でなされる友好貿易とは異なり、"半官半民"的な性格をもち、国交正常化をめざす、新たな連絡ルートの誕生となった。

「LT貿易」によって、交流は活発化し、日中関係は、新たな段階を迎えたのである。


つづく


『新・人間革命』第13巻
池田大作


主な参考文献
『日中戦後関係史』古川万太郎著
『日中国交回復関係資料集』日中国交回復促進議員連盟編
『戦後日中関係50年』島田政雄・田家農著
『日中交渉秘録』田川誠一著
『ドキュメント黎明期の日中貿易』日中貿易逸史研究界著
『戦後日本外交史』石丸和人・松本博一・山本豪士著
『日中問題入門』高市恵之助・富山栄吉著
『現代中国の歴史』宇野重昭・小林弘ニ・矢吹晋著
『戦後日本の中国政策』陳肇斌著
『原典中国現代史』毛里和子・国分良成著
『日本との三十年』孫平化著
『中国と日本に橋を架けた男』孫平化著
『周恩来と池田大作』南開大学周恩来研究センター著
『創価学会』逹高一編著
『花好月圓-松村謙三遺文抄-』青林書院新社
『松村謙三と中国』田川誠一著
『松村謙三』木村時夫編著
『三代回顧録』松村謙三著
『長兄-周恩来の生涯』韓 素音
『周恩来伝』金冲及主編
『中台関係史』山本勲著
『日中関係史の基礎知識』河原宏・藤井昇三編
『日華断交と日中国交正常化』田村重信・豊島典雄・小枝義人知識
『蒋介石と毛沢東』野村浩一著
『文化大革命十年史』厳家祺・高皋著
『中国文化大革命』中島嶺雄著
『資料 中国文化大革命』加々美光行著
『ある紅衛兵の告白』梁暁声著
『紅衛兵の時代』張承志著
『私の紅衛兵時代』陳凱歌著
『毛沢東のベトナム戦争』朱建栄著
『新しい眼で見た現代の戦争』三野正洋著


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