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平和祈念公園では23日 正午前から県主催の「戦後80年沖縄全戦没者追悼式」が開かれました。

石破総理大臣や玉城知事のほか、去年、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の代表委員を務める田中重光さんや国連の軍縮部門のトップを務める中満泉事務次長も参列し、正午には全員で1分間の黙とうをささげました。

このあと玉城知事が「平和宣言」を読み上げ、沖縄戦の記憶を継承するため戦争遺跡群を整備し将来的に世界遺産登録を目指すとしたうえで「戦後90年、100年を見据えた長期的な視点に立ち、沖縄が果たすべき役割を掲げ、世界に発信する」と述べました。


NHKニュース






アセアセ太平洋戦争末期、沖縄では国内最大の地上戦が行われました。約3カ月間、一般住民を巻き込んだ戦闘は、20万人を超える尊い命を奪いました。

今日6月23日は、日本軍の組織的戦闘が終結したとされる沖縄「慰霊の日」。それは、あくまでも"日本軍の"戦闘終了日…残されたのは沖縄の人々。

史上最悪の惨劇は、この後8月15日の終戦日を超え、9月7日まで続きました。

今日はその歴史を振り返りたいと思います下矢印






1945年(昭和20年)3月23日、フィリピン、硫黄島を攻略したアメリカ軍は、沖縄諸島への攻撃を開始した。

沖縄には、南西諸島の防衛のために第32軍が守備隊として配置されたが、既にその任務は、沖縄を守ることではなかった。


戦いを持久戦に持ち込み、本土決戦のための時間を稼ぐことにあった。

つまり、犠牲をものともせずに戦い、米軍の戦力を消耗させ、本土の捨て石となって玉砕することを余儀なくされていたのである。

そのため、沖縄県民もまた多大な犠牲を強いられることになる。


3月26日、遂に米軍は、那覇沖合の慶良間(けらま)諸島に上陸した。

守備隊は、米軍が上陸すると、住民の乏しい食糧を供給させた。しかも、彼らは、ガマと呼ばれる自然壕に身を潜めたが、住民が一緒に逃げ込むことを認めなかった。

身を隠す場所さえなく、米軍に包囲され、追い詰められた住民に残された最後の道は"集団自決"しかなかった。


手榴弾を使って爆死する人もいた。鍬、鎌、ナイフ等で互いの首や手首を切る家族もいた。凄惨な光景であった。

守備隊は、軍人ばかりでなく、住民にも皇民として"自決"を強いてきたのである。

また「鬼畜米英」と教えられてきただけに、米軍に投降することなど思いもよらなかった。


米軍が沖縄本島に上陸したのは4月1日であった。米軍は、約1500隻の艦船と、延べにして54万8000人の兵員をこの沖縄に投入した。

米軍は、1週間で沖縄本島の西北部をほぼ制圧し、宜野湾、浦添、首里へと進撃を開始した。


約2カ月にわたる戦いで、守備隊は6万人を超す死者を出し、5月末、首里は米軍の手に落ちた。

しかし、それでも、まだ沖縄戦は終結しなかった。玉砕のための、血で血を洗う凄惨な戦いが続けられたのである。

生き残った守備隊の兵士は、南部の喜屋武(きやん)半島に撤退し、持久戦に入った。


これに対して、米軍は、空と海と陸からの総攻撃を続けた。

"鉄の暴風"と呼ばれた砲爆撃によって、丘は削られ、大地は波のようにうねっていった。

また、守備隊が潜んでいそうな所を、火炎放射器で焼き尽くしたり、人々が逃げ込んだ自然壕の出入り口を占領し、ガス弾などを投入する、"馬乗り攻撃"といわれる戦法がとられたのである。


6月11日、米軍司令官バックナー中将は攻撃を中止し、日本側に降伏を呼びかけたが、第32軍の牛島満司令官は、それを拒否した。

18日、戦況視察中のバックナー中将が戦死すると、米軍の攻撃はさらに激しさを増した。

ここに至って、牛島司令官らの首脳が自決し、沖縄での組織的な戦闘は終結することになる。


米軍が包囲するなか、学徒隊の解散命令が出された。

県立第一高等学校と師範学校女子部の生徒・職員は自然壕で看護を続けていた。

勝つと信じ込まされて戦ってきた乙女たちにとって、寝耳に水のような命令だった。皆、茫然としていた。壕を脱出しても、敵の砲撃のなかに身を投じるしかなかった。

彼女たちのある一団は、戦場をさまよい、荒崎海岸に辿り着いたが、そこで目にしたものは、海に浮かぶ無数の敵艦だった。


岩穴にじっと身を潜めていると、近くで米兵の発砲が始まった。

一緒に逃げていた教師は手榴弾を取り出すと、そこにいた9人の生徒を道連れに自決した。

爆発音とともに珊瑚礁は鮮血に染まった。


また、別の壕にいた乙女たちは、壕から脱出しようとした時、投降を勧める米軍の声を聞いた。

しかし、誰も壕からは出なかった。ほどなく黄燐弾が投げ込まれ、続いてガス弾が炸裂した。

一瞬にして、そこにいた46人の乙女らの命が奪われ、生き残ったのはわずか5人にすぎなかった。


その後も掃討作戦などが続き、一切の戦いが終わるのは、終戦の8月15日から20余日過ぎた、9月7日のことであった。

沖縄戦がとりわけ悲惨な戦いとなったのは、持久戦に持ち込み、時間を稼ぐために、住民を巻き込んだ戦闘が行われたことにあった。

こうして、沖縄県民の戦没者は、軍人軍属2万8000余人、一般住民約9万4000人という、膨大な犠牲を払うことになったのである。


この犠牲者のなかには、守備隊にスパイとして殺された住民もいた。

沖縄の方言や外国語を話したというだけでスパイとされた人もいれば、守備隊が食糧を略奪するために、スパイの汚名を着せて処刑するケースもあった。

また、食糧がなくなり、飢餓のために死んだり、山に逃げ込んでマラリアに罹り、命を失う人も続出したのである。



『新・人間革命』第2巻
池田大作


参考文献
『総史 沖縄戦』大田昌秀
『改訂版 沖縄戦』大城将保
『沖縄戦を考える』嶋津与志
『愛と鮮血の記録』金城和彦
『近代沖縄の歩み』新里金福・大城立裕著、琉球新報社編
『沖縄入門』比嘉康文・岩垂弘編著


沖縄県国頭郡恩納村

「創価学会 沖縄研修道場」


22日、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の田中重光代表委員(左)が訪問





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