「汝の人格ならびにあらゆる他人の人格における人間性を常に同時に目的として使用し、決して単に手段としてのみ使用しないように行為せよ」
この"人間を手段とせず、目的とせよ"という原則は、国家権力にも例外なく適用されなければならないはずだ。
ところが、国家対国家の戦いのもとで、その犠牲になるのは、いつも人間であり、無名の民衆ではなかったか。恐るべき本末転倒といってよい。
戦前の日本を軍国主義一色に塗り固め、戦争へと暴走させる大きな要因となったのが、思想統制の問題といえよう。
なかでも、その代表的な例が、治安維持法の成立である。治安維持法は今日、希代の悪法として知られているが、それはどんな状況のなかで生まれたのだろうか。
第一次世界大戦は、大戦景気をもたらし、資本家を潤した一方、物価の高騰により、民衆の生活は逼迫していった。このため米騒動も起こっている。
「1918年米騒動」富山県
そうしたなかで、民本主義や社会主義、共産主義の運動をはじめ、労働者、農民、婦人など、さまざまな大衆的な運動が広がり始めたのである。これらの運動は、言論、出版、結社の自由の獲得や政党内閣制、普通選挙の実施などを主張していた。いわゆる「大正デモクラシー」である。
そうして1924年、護憲運動の高まりのなか、政党政治が始まると、加藤高明護憲三派内閣は、25歳以上の全男子に選挙権を与える、普通選挙法の制定に踏み切ろうとした。
犬養毅 高橋是清 加藤高明
しかし、労働者や農民が選挙権をもち、普通選挙が行われれば、社会主義者などが選挙で当選し、衆議院に進出してくるであろうという恐れがあった。さらに1925年1月に、日ソ基本条約が調印されると、共産主義思想の流入を防がねばならないとの危機感も広がった。
そこで内閣は、普通選挙法によって、政治的自由を拡大する一方で、思想統制に乗り出し、同年3月、普選法案の成立に先立って、治安維持法を可決したのである。以来、「国体の変革」をめざしたり、「私有財産制度」を否認する「結社」が取り締まりの対象になっていく。
「国体」とは、明治憲法に定められた、万世一系、神聖不可侵の天皇を中心とした政治体制である。普通選挙という「大正デモクラシー」の果実を取り入れるその時、皮肉にも、同じ政党内閣の手で、自由を踏みにじる治安維持法が制定されたのである。
しかも、多くの国民は、早い時期に、治安維持法の危険な本質を見極めることができなかった。そして、この悪法は、3年後、刑罰に死刑と無期懲役を加えるなどの"改正"が行われ、「蟻の一穴」のごとく、自由と人権を食い破っていくのである。
権力が暴走し、猛威を振るう時には、必ず思想や信教への介入が始まる。ゆえに、思想・信教の自由を守る戦いを忘れれば、時代は暗黒の闇のなかに引きずり込まれることを知らねばならない。これこそ、時代の法則であり、歴史の証明である。
1926年12月、「昭和」の幕が開いた。第一次世界大戦後の不況と関東大震災による大打撃から、いまだ立ち直れずにいるところへ、1929年の世界大恐慌の嵐が襲った。まさに、内外ともに激動の時代であった。深刻な社会不安は、国家主義運動を台頭させ、政治の世界では、軍部の圧力が高まっていた。1931年の9月には、いわゆる「満洲事変」が勃発し、日本は以後15年に及ぶ日中戦争に突入していく。
国民の多くは、この戦争を支持した。それは、マスコミの情報から、真実を知り得なかったことにも、大きく左右されたといってよい。「満洲事変」の契機となった関東軍による満鉄の爆破にしても、当時の新聞、ラジオは、軍部のでっちあげた情報のみを伝え、侵攻に異を唱えようとはしなかった。
たとえば1931年9月19日付の東京朝日新聞には、「坊令なる支那兵が満鉄線を爆破し我が守備兵を襲撃したので我が守備隊は時を移さずこれに応戦し…」とある。
さらに同紙は、4日後の23日付では、「満洲問題早わかり」と題して、解説記事を掲載している。その前文には「この事変の原因が単に支那暴兵の我が満鉄破壊の一事件のみに存せず、遠因は満洲における正当なる我が条約上の権益に対する支那官民の頻々たる侵害に存して居ります」と記されている。
こうした報道に接していれば、人々が中国人に敵意をいだき、関東軍の侵略は正当なものであると思うのも無理からぬ話である。ところが、史実は、関東軍が周到な計画に基づいて満鉄を爆破し、それを中国軍の仕業だと偽った陰謀だったのである。
もちろん、当時から軍部による報道管制は行われていた。抵抗すれば、当然、圧力もかかったであろう。しかし、もしも、マスコミが真実を伝える本来の使命を忘れなければ、戦争回避の方向へ世論を喚起する可能性も、あるいは残されていたかもしれない。ところが、当時のマスコミの多くは、進んで軍部に協力し、軍国美談をつくりあげ、戦争を礼賛していたのである。
マスコミの発する情報が真実ならば、それは民衆の地図となり、道案内となるものだ。だが、マスコミが国家権力と連携し、真実を隠してしまうならば、民衆はどうなるか。ゆえに、言論人の責任は実に重いのである。
軍部は5.15事件、2.26事件など、クーデターを巧妙に利用し、着々と独裁への流れをつくっていった。日本が国際連盟を脱退した時も、耳障りな国際世論から解放されると受け止められた。
そして、満洲国の支配を強化し、1937年7月、盧溝橋事件を発端に、遂に日中全面戦争に突入していく。
8月になると、政府は、国民精神総動員実施要綱を閣議決定した。以後、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」が叫ばれ、神社への参拝、教育勅語の奉読、戦没者慰霊祭、出征兵士の歓送などが強制された。
暗黒の時代は、風雲急を告げていた。国家総動員法の公布、大政翼賛会の成立など、一国を挙げての戦時体制は刻々と強化された。
大政翼賛会
東條英機(前列左端)近衛文麿(同右端)
日米開戦の緊張が高まる1941年の3月には、治安維持法の"大改正"が行われた。その第7条では、「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者」も、処罰の対象となることをうったえている。
国体の否定とは、具体的な行為ではなく、人間の心の領域の問題である。つまり、国体を認めない考えをもって、結社を組織したとみなされれば、処罰されるということであった。それは、人間の精神までも、完全に国家の支配下に置かれたことを意味していた。
まさに、思想統制も行き着くところまで、行き着いてしまったのである。国家権力の魔性は、今や凶暴な牙をむき出し、荒れ狂っていた。国家神道は、日本の国を「現人神(あらひとがみ)」である天皇の国としていた。
昭和天皇
それは、人類の普遍的な思想や、民主の精神とは、相反するものとならざるを得ない。さらに、日本的な「選民」思想を育むとともに、他の国家や民族に対する、差別意識を培っていくことにもなろう。
実は、ここに、戦争を肯定する精神の土壌をつくる、大きな要因がある。恐るべきは、蔑視の心を育み、それを正当化していく思想、宗教である。
日蓮
📖「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(ユネスコ『語録 人間の権利』より)
王の支配する地に生まれたがゆえに、身は権力の下に従えられているようであっても、決して、心まで従えられることはない 。
完
『新・人間革命』第3巻
池田大作
参考文献
『昭和史の天皇』読売新聞社編
『現代史資料』奥平康弘解説
『治安維持法』潮見俊隆著