うちのおんぼろガレージ
は老若男女、誰でもWelcome
楽器に触れるファーストコンタクトの場になればと思っております
最近出入りする子👱🏽♀️がいまして、「ハーフかな?」と思ったら、「100%🇧🇩バングラデシュです!」とのこと。
彼女が使うのは日本語とベンガル語。ベンガル語とはバングラデシュの公用語だそうです。
そこへ、バングラデシュで学生の抗議デモと治安部隊の衝突が発生
デモの発端は、公務員の採用枠の3割を独立戦争(1971年)従事者の家族に与えるという優遇措置に対するもの。
これには反対意見が多く、政府は2018年に撤廃していたが、今年6月、最高裁が政府決定を覆す判断を示した。これを受けて7月初旬、学生を中心にデモが始まり、全国に広まった。
外務省は21日、バングラデシュを「危険レベル2」に引き上げ、日本からの不要不急の渡航が禁止された。
ダッカの警察によると逮捕者500人超、死者163人。(『朝日新聞デジタル』25日)
警察の発砲による若者の死…あってはならないことが起きてしまいました。
学生たちの気持ちは分かりますが、手段が暴力に走った時、末路は破滅しかないと思います。国家権力をナメてはならないのです。一人として犠牲者を出してはならない
『話せば、わかる』当麻
(週刊ヤングジャンプweb)
革命とは急進的な暴力では成し遂げらません。そこで、かのマハトマ・ガンディーの非暴力運動が思い起こされます。
暴力は臆病と無知から起こる。集団はあっても単なる烏合の衆と化す。一方、非暴力には勇気と知恵、そして忍耐が必要であり、自己の弱さと向き合う壮絶な闘争
となる。
脳科学によると、人間の脳は緊張状態(怒りや迷いなど)から早く解放されたいから浅はかな行動に出るのだとか。
ともあれ、バングラデシュの衝突は沈静化に向かうも、緊迫した情勢が続いているようです。彼女👱🏽♀️の父母の故郷でのこと、胸を痛めておりました。
今日は、バングラデシュの平穏を祈りながら、バングラデシュと縁のある詩聖を学び、平和について考えたいと思います
ラビンドラナート・タゴール
Rabindranath Tagore
রবীন্দ্রনাথ ঠাকুর
【1861-1941】
インドの詩人。インド国歌の作詞/作曲、バングラデシュの国歌の作詞者。タゴール国際大学の設立者。ノーベル文学賞受賞者。
タゴールは詩人というだけでなく、小説家、劇作家、音楽家、画家でもあり、偉大な教育者としても知られている。
彼は1861年5月、多くの人材を輩出した名家に生まれた。少年時代から詩才を発揮し、イギリス留学も経験した。
やがて、彼は一族の土地の管理者となり、郷土のベンガル地方の農民の生活を肌で知ることになる。この経験から、無知と貧困と悲惨にあえぐ祖国の現実を実感する。それは、タゴールに政治と社会への目覚めを促し、彼が鋭い社会批判に富んだ数々の作品を著す、源泉となっていった。
1901年、タゴールは、コルカタ(旧カルカッタ)から約80マイル(約128km)ほど離れたシャンティニケタン(「平和の郷」の意味)に寄宿学校を創設する。
イギリスに支配された教育ではなく、ベンガルの自然のなかで、自由に、伸び伸びと子どもたちの全人格を育む、創造的な教育をめざしたのだ。この学園が後のヴィシュヴァ・バーラティ大学(=タゴール国際大学)である。
さらに、彼は、インドの農民の自立のために、農村の改善運動を進めている。
彼は現実から離れ、文学の世界にこもることをよしとはしなかった。社会の改革のために、民衆の自由のために戦う詩人であった。
1905年、植民地政府の総督は、ベンガル州をヒンドゥー教徒とイスラム教徒の居住地に分割することを発表した。それは、宗教と宗教の対立を煽り、反英運動の機先を制しようとするものであった。
この策謀にタゴールは激怒した。人々に決起を呼びかけ、愛国歌をつくり、抗議のデモの先頭にも立った。彼が勝ち取ろうとしたのは、植民地支配からの自由だけでなく、まことの人間の自由であった。それゆえ、いきり立つ同胞に対しては、暴力でインドは救えないとも訴え続けたのである。
しかし、運動は過激なものとなっていった。もはや、それは、タゴールの非暴力の信念とは相いれなかった。結局、運動から離れざるを得なくなった彼は、激しい非難にさらされることになる。
タゴールは、どこまでも人間愛を志向して、運動を展開しようとしていた。その信念の礎には、ウパニシャッド(upaniṣad)の哲学に通ずる深い哲理があった。
ウパニシャッドでは、梵我一如を説く。個人の自我を意味するアートマン(我)と、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)の一致を理想とするのである。
タゴールは、その原理の具体的な実践を仏教に見いだしていた。彼はそれを、『サーダナ』(生の実現)と題する著作のなかで、ランプを譬えに語っている。
ー 油が蓄えられただけのランプは、自分の目的を知らない、光なき自我である。しかし、その蓄えた油を犠牲にして火を燃やし、周囲を照らし出す時、初めてランプが本来もっている意味が明らかになる。ここに仏陀が示そうとした道がある、と。
彼は、小さな「自我」が永遠なるもの、普遍なるものへと合一し、より大きな「最高自我」をめざす生き方を自らの信念として、人生の苦難に挑んでいった。
タゴールは1902年に最愛の妻を亡くし、それから数年のうちに、相次ぎ二人の子どもを失った。だが、その時も、有限のなかに無限の魂を探りながら、ペンを取り続け、試練を乗り越えている。
そのなかで書き上げた詩集『ギタンジャリ』(歌の捧げもの)により、彼は、1913年、ノーベル文学賞に輝いた。それは東洋人として初の受賞であった。
周囲の評価は、手のひらを返したように一変した。コルカタ大学は博士号を贈り、イギリス政府も「ナイト」の爵位を与えた。
しかし、1919年、パンジャブ州のアムリッツァル(=アムリットサル:Amritsar)で、イギリス軍による民衆の虐殺事件が起こると、タゴールは、決然と「ナイト」の爵位を突き返した。その行為は、インドの民衆の自尊心を蘇らせ、勇気を奮い起こさせた。
また、彼とマハトマ・ガンディーの深き友情は有名である。
意見の違いもあったが、"魂の友"であった。歴史の転換期ともいうべき激動の時代に、二人の精神の巨人は、民衆の大地を開拓していったのである。
タゴールの最も大きな怒りは、人間が人間を支配することであり、国家が国家を脅かすことであった。
彼は日本が中国への侵略を開始すると、軍国主義への怒りを詩に綴った。たびたび訪日もしていた、彼の失望は大きかった。
しかも、このころ、極東だけでなく、ヨーロッパでもドイツが攻略を開始し、戦火は世界に拡大されていったのである。
タゴールの心痛は激しかった。やがて、彼は病床につく。
それでも、詩人は、常に、ユーモアを忘れることなく、心は正気にあふれ、陽気だった。
そして、詩を書く体力がなくなってからも、最後の最後まで、戦争という人間の愚行を糾弾する詩を、生命を讃える詩を、口述で作り続けたのである。
1941年8月7日、タゴールは祖国の独立を見ることなく、カルカッタの自宅で、静かに息を引き取った。80歳であった。
『新・人間革命』第3巻
池田大作
参考文献
⚫︎「サーダナ」〈『タゴール著作集 8』所収〉美田稔訳
⚫︎『タゴールの生涯』
K.クリパラーニ著、森本達雄訳
⚫︎『タゴール』
我妻和男著
🎬映画
『タゴール・ソングス』(2020)予告編
ご閲覧ありがとうございました
※追記
7月の暴動後、バングラデシュにいつもと変わらない日常が戻ってきたようです。一方、不思議な光景も
以前は信号機の代わりに交通整理する警察官があちこちに立っていました。暴動後、警察官がいなくなり、学生たちがボランティアで交通整理を始めているとのこと。
学生たちによる取り締まりでは、違反ドライバーは罰金ではなく植樹用の苗木を買わされ、自ら植樹することを命じられるそうです。学生らしい素晴らしい発想ですね。