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5月15日は『ハイビスカス沖縄復帰記念日』。1972年の本土復帰から今年で52年となります。

1952年、サンフランシスコ講和条約が発効され日本が主権を回復。それから20年後…沖縄は本土復帰しました。

しかし現在の沖縄は、米軍基地依存型の経済、全国最下位の県民所得、子どもの貧困など問題は山積。本土との溝は深まり、本土復帰を記念する県主催の行事は行われないそうです。



一方、沖縄が本土復帰して「良かったと思う」94%(共同通信社による沖縄県民を対象とした世論調査 2022)と。

つまり、米国からの解放を喜びたいけれど、基地問題の押し付けという「まだ本土の"捨て石"なのか!」という憤り、怒りがあるのだと思います。





1972年

前年、日米が合意した沖縄返還協定には不備・欠陥が多く、国会で議論が紛糾した経緯がありました。


11月、社会党や共産党が衆院本会議をボイコットする中、当時、野党だった公明党は出席を決断。

協定に反対を貫きつつも、捨て身の交渉で自民党の譲歩を引き出し、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を含めた決議を提案して実現させました。

これによって、沖縄に配備されていた中距離核弾頭ミサイル・メースB(Mace:広島原爆の70倍の威力。ピーク時の67年には1300発)等は撤去され、「核抜き」の本土復帰が大きく前進しました。


以来、非核三原則は歴代政権も堅持し、日本の「国是」として貫かれています。

そして唯一の戦争被爆国として、核廃絶を目指す日本の立場を国際社会に示すという大きな意義も持ってきました。

今、その非核三原則を見直し、米国の核兵器を日本国内に配備して共同運用する「核共有」の議論がありますが、公明党の山口代表は「非核三原則を、ゆるがせにしてはならない」と、断固反対する立場を明確にしています。


岸田首相も非核三原則を堅持する立場を貫き、核共有は「非核三原則の『持ち込ませず』とは相いれない」と否定しています。

朝日新聞の世論調査(2022)でも、非核三原則について「維持すべきだ」が77%で、「見直すべきだ」の19%を大きく上回っています。

日本がとるべきアプローチは、核兵器の悲惨さを継承し、その非人道性を語り広げ、「核兵器なき世界」と「真に平和な国際社会」の実現をリードすることではないでしょうか。

公明党には今後も、非核三原則を堅持しつつ、防衛努力と外交による平和構築へ全力を尽くしてもらいたいと思います。

ところで、撤去されたミサイル・メースBですが、発射基地が、その後も暫く沖縄に残存していました。


1983年、恩納村を訪問した公明党の創設者、創価学会の池田大作会長が"人類が戦争という最大の愚行を犯した証し"として、解体せずに残すことを提案。翌年、発射台跡は「世界平和の碑」に生まれ変わりました。

沖縄県国頭郡恩納村


メースB基地は、沖縄本島の4カ所【読谷村、勝連町(現うるま市)、金武町、恩納村】に配備されていましたが、唯一現存する恩納村の基地跡は"貴重な歴史遺産"として注目されています。



元沖縄県知事 稲嶺恵一さん
「戦争のシンボルを、そのまま平和のシンボルに変換するという思想に心から感激しました」

ハイビスカス

沖縄戦
1945年(昭和20年)3月23日、フィリピン、硫黄島を攻略したアメリカ軍は、沖縄諸島への攻撃を開始した。

沖縄には、南西諸島の防衛のために第32軍が守備隊として配置されたが、既にその任務は、沖縄を守ることではなかった。


戦いを持久戦に持ち込み、本土決戦のための時間を稼ぐことにあった。

つまり、犠牲をものともせずに戦い、米軍の戦力を消耗させ、本土の捨て石となって玉砕することを余儀なくされていたのである。

そのため、沖縄県民もまた多大な犠牲を強いられることになる。


3月26日、遂に米軍は、那覇沖合の慶良間(けらま)諸島に上陸した。

守備隊は、米軍が上陸すると、住民の乏しい食糧を供給させた。しかも、彼らは、ガマと呼ばれる自然壕に身を潜めたが、住民が一緒に逃げ込むことを認めなかった。

身を隠す場所さえなく、米軍に包囲され、追い詰められた住民に残された最後の道は"集団自決"しかなかった。


手榴弾を使って爆死する人もいた。鍬、鎌、ナイフ等で互いの首や手首を切る家族もいた。凄惨な光景であった。

守備隊は、軍人ばかりでなく、住民にも皇民として"自決"を強いてきたのである。

また「鬼畜米英」と教えられてきただけに、米軍に投降することなど思いもよらなかった。


米軍が沖縄本島に上陸したのは4月1日であった。米軍は、約1500隻の艦船と、延べにして54万8000人の兵員をこの沖縄に投入した。

米軍は、1週間で沖縄本島の西北部をほぼ制圧し、宜野湾、浦添、首里へと進撃を開始した。


約2カ月にわたる戦いで、守備隊は6万人を超す死者を出し、5月末、首里は米軍の手に落ちた。

しかし、それでも、まだ沖縄戦は終結しなかった。玉砕のための、血で血を洗う凄惨な戦いが続けられたのである。

生き残った守備隊の兵士は、南部の喜屋武(きやん)半島に撤退し、持久戦に入った。


これに対して、米軍は、空と海と陸からの総攻撃を続けた。

"鉄の暴風"と呼ばれた砲爆撃によって、丘は削られ、大地は波のようにうねっていった。

また、守備隊が潜んでいそうな所を、火炎放射器で焼き尽くしたり、人々が逃げ込んだ自然壕の出入り口を占領し、ガス弾などを投入する、"馬乗り攻撃"といわれる戦法がとられたのである。


6月11日、米軍司令官バックナー中将は攻撃を中止し、日本側に降伏を呼びかけたが、第32軍の牛島満司令官は、それを拒否した。

18日、戦況視察中のバックナー中将が戦死すると、米軍の攻撃はさらに激しさを増した。

ここに至って、牛島司令官らの首脳が自決し、沖縄での組織的な戦闘は終結することになる。


米軍が包囲するなか、学徒隊の解散命令が出された。

県立第一高等学校と師範学校女子部の生徒・職員は自然壕で看護を続けていた。

勝つと信じ込まされて戦ってきた乙女たちにとって、寝耳に水のような命令だった。皆、茫然としていた。壕を脱出しても、敵の砲撃のなかに身を投じるしかなかった。

彼女たちのある一団は、戦場をさまよい、荒崎海岸に辿り着いたが、そこで目にしたものは、海に浮かぶ無数の敵艦だった。


岩穴にじっと身を潜めていると、近くで米兵の発砲が始まった。

一緒に逃げていた教師は手榴弾を取り出すと、そこにいた9人の生徒を道連れに自決した。

爆発音とともに珊瑚礁は鮮血に染まった。


また、別の壕にいた乙女たちは、壕から脱出しようとした時、投降を勧める米軍の声を聞いた。

しかし、誰も壕からは出なかった。ほどなく黄燐弾が投げ込まれ、続いてガス弾が炸裂した。

一瞬にして、そこにいた46人の乙女らの命が奪われ、生き残ったのはわずか5人にすぎなかった。


その後も掃討作戦などが続き、一切の戦いが終わるのは、終戦の8月15日から20余日過ぎた、9月7日のことであった。

沖縄戦がとりわけ悲惨な戦いとなったのは、持久戦に持ち込み、時間を稼ぐために、住民を巻き込んだ戦闘が行われたことにあった。

こうして、沖縄県民の戦没者は、軍人軍属2万8000余人、一般住民約9万4000人という、膨大な犠牲を払うことになったのである。


この犠牲者のなかには、守備隊にスパイとして殺された住民もいた。

沖縄の方言や外国語を話したというだけでスパイとされた人もいれば、守備隊が食糧を略奪するために、スパイの汚名を着せて処刑するケースもあった。

また、食糧がなくなり、飢餓のために死んだり、山に逃げ込んでマラリアに罹り、命を失う人も続出したのである。


『新・人間革命』第2巻
池田大作