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毎年新年に開催される"世界一過酷なレース"「🏜ダカール・ラリー(パリ=ダカール・ラリー 通称:パリダカ)」。


パリダカは1979年に初開催。砂漠や砂丘など極限の大自然を舞台に、各メーカーの技術を結集した車&それを駆る世界のトップドライバーたちの熾烈な競争ピリピリ


そして、パリダカといえば篠塚建次郎さん。篠塚さんは、パリダカで日本人初の総合優勝とWRC(世界ラリー選手権)で日本人唯一の優勝を果たしたラリードライバー。




昨年の3月に膵臓癌のため75歳で亡くなられました。その訃報は、フランスをはじめ、欧米では"レジェンド"として大きく報道され、その業績が顕彰されています。


ウインク今日は篠塚さんを追悼しながら、その相棒パジェロの活躍とパリダカを振り返ってみたいと思います下矢印





in memory of

🇯🇵Kenjiro Shinozuka

【1948-2024】


Kenjiro Shinozuka tout sourire lors de sa victoire à Dakar en 1997 avec le regretté Henri Magne. 



〈Prologue〉

篠塚建次郎は東京都大田区出身。東海大学を卒業後、1972年に三菱自動車に入社。翌年から社員ドライバーとして全日本ラリー選手権を2連覇、海外ラリーへ。



WRC'76「サファリ・ラリー」で日本人初の6位入賞。"ライトニング・ケンジロウ"と讃えられる。


78年、オイルショックと排ガス規制強化の影響で三菱は国内外のラリー活動を自粛。篠塚はサラリーマンとしての業務に専念することに。



ラリードライバーとしての全盛期をデスクワークや営業、管理職として過ごした篠塚。



〈Chapter 1〉

82年、「三菱パジェロ」発売。海外ラリー参加が解禁され、翌83年の第5回『パリダカ』にパジェロがエントリー。三菱は販売促進効果を狙った。



パリ・ヴァンセンヌ城前でのスタートは年末年始の風物詩。数十万人のパリっ子が注目する中、鮮烈なデビューを飾った三菱パジェロ。


ゴールはセネガルの首都ダカール。アフリカ大陸を縦断する1万キロの旅。


ル・マン6勝のジャッキー・イクスがメルセデス280GEで総合優勝。その宣伝効果からパリダカが冒険旅行からスピード競技化へと拍車がかかる。


パジェロは初出場ながら「市販車無改造部門(T1)」で、いきなりクラス優勝(総合11位)。翌84年は「市販車改造部門(T2)」でもクラス優勝(総合3位)。ドライバーは共に三菱のエース🇬🇧アンドリュー・コーワン。


85年には「プロトタイプ部門(T3)」にステップアップし、三菱は総合優勝を狙う。



前年優勝の強豪🇩🇪ポルシェを下し、🇫🇷パトリック・ザニロリが総合優勝。三菱パジェロのパリダカ1勝目が刻まれた。


イクスがポルシェ959で出走もリタイア。


遥かアフリカ大陸を疾走するパジェロ。見事な総合優勝も日本では大きな話題にならず…



〈Chapter 2〉

"日本人ドライバーで優勝を!"ラリーアート・近藤昭社長の勅令で篠塚に白羽の矢が立った。37歳の遅咲きデビュー。



三菱自動車のサラリーマン生活を送っていた篠塚。10年ぶりの"ライトニング・ケンジロウ"復活。


篠塚は86年のテスト参加から、翌87年に本格参戦。時を同じくしてパリダカには、WRCを制覇した王者🇫🇷プジョーが参戦。



プジョーが戦っていたWRCのGroup Bはメーカー間の開発競争が激化。86年の重大事故を契機に廃止となり、プジョーは新たな主戦場をパリダカにシフト。




WRC85, 86年間チャンピオン。市販車とかけ離れたモンスターマシン「プジョー205T16」。


WRC'81王者"砂漠のライオン"アリ・ヴァタネンとジャン・トッド監督。この後、ヴァタネンはパリダカ4勝を挙げ、トッドはル・マン2連覇、F1フェラーリで6連覇、FIA会長に就任する。


クラッシュしても新車に復活させてしまうプジョーの物量作戦。WRCならリタイアだが、"壊し屋"ヴァタネンにとってパリダカは、うってつけの舞台。

ラリーの伝統があり、フランスのスポーツ省がバックアップするプジョーに対して、三菱は社内での理解も得られず開発費程度の資金。


まして篠塚は三菱自動車のサラリーマン、海外営業部の出張扱い。報告書には"車中泊"と記載していたという。しかもパジェロは前年型落ちの車だった。


しかし、「走れるだけで嬉しかった」と篠塚は強大なライバルを相手に大健闘、総合3位の快挙。


360°砂漠の大パノラマ。道なき道を行く篠塚のパジェロ。僅差で優勝のチャンスもあった。


 

歌手ユーミンが篠塚の激励のために訪問。


三菱の2軍となるCITIZENチームの監督は俳優・夏木陽介。篠塚の心の拠り所としてサポートした。


アフリカ大陸を駆ける篠塚の活躍が、連日NHKニュースで報道され『パリダカ』が日本でも知られることに。



WRCドライバーと互角に渡り合う篠塚のパジェロ。


翌88年もプジョーvs三菱の戦い。チームメイトが脱落する中、篠塚は再び前年型落ちパジェロながら総合2位。



以後、優勝の期待がかかる篠塚。しかし、メカニカル・トラブルやパンク、ミスコース、悪質なガソリンなどに悩まされて消化不良が続く…89年6位、90年5位。



砂漠、砂丘、岩場、洪水や砂嵐と灼熱の太陽。大自然に挑むのがパリダカ。


ラリー専用プロトタイプ仕様車のプジョーに対して、市販車ベース車両パジェロの限界を感じる。




〈Chapter 3〉



1991年のパリダカは三菱にとって「パジェロ」のモデルチェンジを控えた大事な年。プジョーの後塵を拝してきた三菱は、満を持して本格的な"勝てる"プロトタイプ車両を開発、投入。


Nikonチームはコーワンが引退。🇫🇷ピエール・ラルティーグに加え、WRCで活躍する🇸🇪ケネス・エリクソンが新加入。CITIZENチームは変わらず🇯🇵篠塚建次郎、🇫🇷ジャン・ピエール・フォントネ。



日本人初優勝の期待がかかる篠塚建次郎。


市販車ベースからプロトタイプに進化したパジェロ。


一方のライバル🇫🇷シトロエンは、撤退したプジョー(グループPSA)が4連覇したノウハウを受け継ぎ参戦。


ドライバーは、WRC'81王者🇫🇮アリ・ヴァタネンを筆頭に元F1、ル・マン6勝王者🇧🇪ジャッキー・イクス、WRC'79王者🇸🇪ビョルン・ワルデガルド等を揃えた最強チーム。



膨大な資金も引き継いだ「シトロエンZX」。


ラリーが始まるとパジェロの性能はシトロエンを上回るも、初期メカニカル・トラブルが続発。チームメイトが脱落する中、いつも以上に篠塚はアクセルを踏んだ。


篠塚にも最新型パジェロが委ねられた


冷静さを欠いた篠塚は、高速走行中にジャンプ、車は縦に転倒し10回転で大破。九死に一生を得たもののパリダカ初リタイア。


最高速度220km/h以上、一瞬の判断が明暗を分ける。篠塚と大破したパジェロ、倒れ込むナビゲーターのアンリ・マーニュ。


シトロエンも2台が炎上するトラブルが発生するも、ヴァタネンが逃げ切り3連覇。



一方で、WRCにも参戦していた篠塚は、この年、パリダカでの挫折をバネに「アイボリー・コースト・ラリー」で日本人として初優勝(翌年連覇)を飾る。来年のパリダカ優勝に期待が高まる。


三菱ギャランVR4でWRC初制覇。



〈Chapter 4〉


1992年のパリダカは、ゴールを南アフリカのケープタウン(=ル・カップ)へ変更。初めて赤道を越え、アフリカ大陸を縦断するパリダカ史上最も過酷なレースとなった。


シトロエンは最強ドライバーチームに、更に三菱のラルティーグを引き抜くという工作にも成功し万全を期す。


強大なライバルに対して三菱はチームワークで挑む。


三菱は篠塚&フォントネに加え、第1回大会から参加し二輪で優勝したこともある🇫🇷ユベール・オリオール、欧州ラリー王者🇩🇪アーウィン・ウェーバー、WRCで活躍する🇫🇷ブルーノ・サビーを新たに迎え、シトロエン打倒に燃える。



ライバル・シトロエンを圧倒するパジェロ。


序盤から三菱はシトロエンをリード。そのまま差は縮まることなく上位を独占。遂に三菱のオリオールが総合優勝。ウェーバーが2位。篠塚はチームプレイに徹して3位をキープ。


三菱が1位から3位を独占。


約20日間で1万キロ以上を走破、栄光のゴール。



ウルリッヒ・ブレーマー監督と健闘を讃え合う篠塚。




〈Chapter 4〉

93年大会。シトロエンはWRC'85王者🇫🇮ティモ・サロネンを加入させ、さらに前年優勝した三菱のオリオールの引き抜きまで敢行。


ヘリでの誘導や不法ガソリンの供給など、なりふり構わない手段で勝ちに来るシトロエンだが、毎回の技術革新は野心的で、まさに三菱の好敵手。


白熱のライバル対決が展開した結果、三菱はシトロエンを再び凌駕し2連覇。サビーが昨年はクラッシュで大きく遅れた雪辱を果たし初優勝。篠塚は5位。


篠塚はチームをサポート。スペアタイヤをチームメイトに渡す献身的な姿が報道され賞賛される。



94年大会。前半戦終了時点で篠塚が2位と好走。しかし、最大難所"死の砂丘"をシトロエンが回避する中、唯一走破した三菱に対して主催者はステージをキャンセル。この不手際に三菱チームは抗議の撤退という結果になってしまった。

この年、篠塚はWRC「サファリ・ラリー」にランサーで参戦。マシントラブルに見舞われながらも2位。

95年も篠塚が好調。しかし、トップに躍り出るチャンスにフランスのマスコミのヘリが妨害。砂漠の凹みにスタックした篠塚はタイムロスで3位。

大自然が舞台のパリダカで人為的妨害もあった。


96年大会。篠塚が初日トップも3日目に大クラッシュ。修理、復帰後はチームメイトのためにサポートに徹し17位の屈辱。


速くても勝てないジレンマ。かつてのWRC同様"進化し過ぎた"パジェロ。


48歳。もう、優勝はできないのでは…篠塚は不安を吹き払う。


〈Chapter 6〉


97年はスタートとゴールがダカールに。過激になり過ぎたプロトタイプ車が廃止され市販車ベース車両で争われた。これはパリダカの原点回帰で、よりドライバーの技量が問われる大会に。


長年の挑戦で熟成されたパジェロ。


篠塚はクラッシュによる大ダメージを幸運にも乗り越え、優勝へのプレッシャーと戦う。



日本人としてパリダカ初優勝。


参戦12年目の心願成就。篠塚は日本人初となるパリダカ総合優勝を果たす。


フランス人ナビゲーターのアンリ・マーニュと。


98年、CITIZEN夏木チームからのチームメイト、フォントネが初優勝。篠塚は2位。


02年、篠塚の背中を追い続けた後輩の増岡浩が総合優勝、翌年も連覇。篠塚は三菱を退社。


日本人によるパリダカ総合優勝は、この二人のみ。増岡の成長を見届け、篠塚は三菱を去った。

三菱はパリダカで通算12勝を記録。これは歴代優勝メーカーで最多。


DAKAR RALLY

【1979 - 2025】

🏆 歴代優勝メーカー・ランキング

1位🇯🇵MITSUBISHI(12回)
2位🇫🇷PEUGEOT(7回)
3位🇬🇧MINI(6回)
4位🇫🇷CITROËN, 🇩🇪VW, 
🇯🇵TOYOTA(4回)
7位🇫🇷RENAULT(3回)
8位🇬🇧ROVER, 🇩🇪PORSCHE(2回)
10位🇩🇪MERCEDES, 🇩🇪AUDI(1回)




〈Epilogue〉

02年、セネガルの学校設立を支援。


14年、母校東海大学のソーラーカーでギネス認定。


晩年もドライバーとして活躍。生涯現役を貫いた。


22年、長年の活躍に「日本自動車殿堂」入り。


 


Fin.



1/10 RC CAR


1/24 RC CAR


1/43 MINI CAR


トミカ



チョロQ


1/43

in memory of Kenjiro Shinozuka




ほっこりご閲覧ありがとうございました。