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今日はmy秋イチョウ読書からの一冊をご紹介気づき



第2次世界大戦の終結から80年近くが経ち、当時を経験した"生き証人"は少なくなってきました。


一方で、歴史を都合よく切り取り、その文脈を踏まえない歪曲した主張が横行しつつもあります。本書が取り上げるナチスへの肯定的評価も、その一例です。


本書は、ネット上などで散見される"ナチスも一面では良いことをした"という意見について、ナチスの概説とともに、具体的な経済的政策、労働者政策、家族政策、環境政策、健康政策に章立てして、解説と検証を重ねていくという構成を取っています。


本書は、歴史的事実を〈事実〉〈解釈〉〈意見〉の3層に分けて検討。著者たちが強調するのは、ナチス独自の政策と呼べるものは皆無に等しく、どの政策も「ナチ体制が来るべき侵略戦争のために軍備拡張を優先した結果」であったことです。


ナチスの蛮行は全面否定される歴史として定着しています。にもかかわらず、なぜ誤った主張をしたがる人が出てくるのか。著者たちはそこに、教科書に書かれた事実が持つ権威への否認欲求と、"自分だけが真実を悟った"とでも言いたげな都合のいい主張を構築して優越感に浸ろうとする、歪んだ欲望を見ています。


インターネットなどで「一般に出回っている情報には著しく不正確なもの、とうに否定された俗説も少なくない」と著者は指摘し、さらにそれらは、「ナチスの悪行を繰り返し教えられてきたがゆえに、それを否定しようとする欲求に突き動かされた」言動にすぎず、主張の「斬新」さに引かれたレベルにとどまるものと一刀両断しています。


本書は、歴史修正主義的な風潮に流されないように釘を刺し、"ナチスも一面では良いことをした"との主張に反論する下地を提供する格好の入門書です。


巻末には、知見を深めるためのブックガイドも掲げています。研究者によるこうした動きが、日本にまつわる歴史問題にも波及することを念願してやみません。




アドルフ・ヒトラー
(ADOLF HITLER)

アドルフ・ヒトラーは、1889年4月、オーストリアの税官吏の子として生まれた。


13歳で父を、18歳で母を亡くし、ウィーンに出て、画家を志すが果たせなかった。1913年、兵役を拒否してドイツのミュンヘンに逃れるが、第一次世界大戦が始まると、ドイツ軍に志願兵として入隊した。敗戦後、彼は、ミュンヘンの反動的な弱小政党であったドイツ労働者党(DAP)に入党する。

ドイツ労働者党(DAP)

大衆の不満や欲望を扇動する才に長けた彼は、たちまち頭角を現し、党勢を拡大していく。ヒトラーは党内で影響力を強めて、次々と権限を掌中に収め、党名も国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP:通称ナチス)に変更する。

国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)

そして、とうとう独裁的な党首の座に就くに至るのである。ヒトラーがナチスの党首になったのは1921年7月。そして、彼がドイツの首相に任命され、遂にナチス政権が誕生するのは、11年半後の1933年1月30日であった。それから1カ月後、ベルリンの国会議事堂が炎上するという事件が起こった。


すると、ナチスは、この事件は共産主義者の陰謀だと騒ぎ、人々の不安と危機感を利用して、共産主義者など反ナチス勢力に大弾圧を加えていった。さらに、国難に対処すると称して、巧妙に世論を操作し、国会の選挙に勝利すると、議会に圧力をかけ、ヒトラーに全権を委任する法案を承認させてしまう。

続いて、ナチス以外の政党を解散・禁止し、翌年の8月には、ヒトラーは首相と大統領を兼ねた「総統」に就任するのである。こうして、ドイツ第三帝国 - ヒトラー独裁の暗黒時代が始まったのである。


第一次世界大戦の末期、革命が起こり、皇帝は去った。帝政の崩壊、敗戦、そして、ワイマール憲法のもとで民主政治の時代が始まる。

しかし、長らく封建的な体制に馴染み、近代市民国家としての伝統が浅かったドイツでは、憲法の理想主義的な理念に比べて、社会の実態は、いまだ家父長的な封建主義が根強かった。

つまり、民主という時代の流れに対し、人々の意識が立ち遅れていたといえよう。しかも、ドイツは、ヴェルサイユ条約によって、莫大な賠償を課せられていた。


それは、ドイツ経済に大変な重荷になったばかりか、結果的に、深刻な経済危機を招き、民衆の生活を破壊させた。経済の混乱による生活苦のなかで、保守勢力や大衆は、その不満のはけ口をユダヤ人に向け、彼らに非難が集中していった。

当時のドイツには、全人口の約10%にあたる50万人のユダヤ人が住んでいたとされる。ユダヤ人は長い間、流浪を強いられながらも、独自の宗教的な共同体を守り抜いてきた。

しかし、キリスト教社会にあって、ユダヤ人は異質な存在とされ、一般の市民と同等の諸権利は与えられず、租税、職業、結婚など生活全般にわたって徹底して差別された。

住む場所も、市民とは切り離され、「ゲットー」と呼ばれる、城壁の外の強制居住地区とされた。そのうえに、疫病が流行すれば、ユダヤ人が井戸に毒を入れたといって虐殺され、ユダヤ教では幼児を生け贄にするといっては迫害されてきた。


彼らが、ようやく人間らしい権利を得るのは、近代のフランス革命の時代に入ってからである。しかし、市民社会の形成が遅れたドイツでは、ユダヤ人が市民権を獲得するのは、19世紀の後半であった。

だが、それとても、極めて不安定なものであり、反ユダヤ主義者たちは、ユダヤ人の宗教的な共同体を、「国家の中の国家」と言って危険視していた。つまり、"ユダヤ人の忠誠は、彼らだけの「国家内国家」に対するもので、彼らがキリスト教国家に対して忠誠であるわけがない"というのである。

ユダヤ人が互いに強く結び合っていたのは確かだが、実際には、彼らは、ドイツ国民として、懸命に国家に貢献しようとしてきたのである。それにもかかわらず、ユダヤ人が、流浪の歴史のなかで世界に散在し、国家を超えて国際的に結びついていることから、"国際ユダヤ主義"だとして、国家にとって危険極まりないものと喧伝されてきた。

そして、第一次世界大戦で、ドイツの経済が危機に瀕すると、一部のユダヤ人に財界人がいたことなどから、根拠のない噂が流されたのである。

「ユダヤ人が、大儲けするために戦争を起こしたのだ」「戦場に出て戦うのはドイツ人、陰で社会をあやつり、甘い汁を吸うのがユダヤ人だ」

しかし、事実は、多くのユダヤ人がドイツのために血を流していた。この大戦では、全ドイツのユダヤ人の、実に2割近くにあたる10万人が従軍し、戦死者は1万2000人にも上ったといわれるのである。ヒトラーが政治活動を開始したのは、このように、ドイツ国内に、ユダヤ人へのゆえなき反発が高まっていた時代であった。


彼はアーリア人種が、他のあらゆる人種に優越するとし、その頂点にドイツ民族を置いた。そして、奴隷的な条約である、ヴェルサイユ条約を破棄して、ドイツ民族にふさわしい「生存圏」の確保、領土の拡張をと訴えていった。その一方で、彼は、ユダヤ人がアーリア人種の純血性を侵し、ドイツの衰退をもたらす劣等人種であるとして、徹底的な排斥を主張したのである。

だが、そもそも"ユダヤ人種"や"アーリア人種"という「人種」自体が、存在しない。反ユダヤ主義は、まさに、政治的な「人種差別主義」であった。今日のイスラエルの帰還法の定義では、ユダヤ人とは、"ユダヤ人の母親から生まれた人、およびユダヤ教に改宗した人"をさす。つまり、ユダヤ教に基づく独自の宗教的・文化的な伝統を共有する人々をいうのである。だが、ヒトラーは、"ユダヤ人は、決して「宗教」ではなく、「人種」である"と強弁し、ありとあらゆる嘘を捏造していった。


その代表的なものが、「ユダヤ人がドイツを支配しようとしている」ということであった。ヒトラーは、"ユダヤ人は「宗教」を称することによって、自らの政治的な野望を隠している。自分はこのユダヤ人の「野望」を叩きつぶすだけなのだ"と、弾圧を正当化し、こう喧伝していた。

- ユダヤ人は、「寄生虫」であり、その金融資本の力で労なくして巨利を得ている。「吸血虫」のように、ドイツ人の毛穴から生き血を吸っている。現世主義のユダヤ人は金と権力をひたすら求め、そのためには、いかなる手段も選ばない。ユダヤ人こそ「我々の全ての苦しみの原因」であり、「南京虫のように」除去しなければ、自分たちが食われてしまう。危険な事態は、人々が気づかないうちに進行している。既に、政治、経済、官界、学術界へと、ユダヤ人はあらゆる分野に忍び込み、背後で牛耳っている。今のワイマール政府も、議会も、ユダヤ人の「手先」なのだ - と。

これらは、全て悪意のデマであった。だが、こうしたデマも、反ユダヤ主義の風潮のなかで、「嘘も100回言えば本当になる」とばかりに、繰り返し喧伝されることで、巨大な力を持ったのである。権力の魔性の虜となり、ドイツを、さらには、世界を支配しようとの野望を抱いていたのは、ヒトラー自身であった。


しかし、彼はそれを、そっくり、ユダヤ人のこととしたのである。邪悪な権力者が、ともすれば用いる、卑劣な排斥の手法といえよう。

ヒトラーが喧伝したことを、具体的に検証してみればどうなるか。たとえば、ユダヤ人の手先だと非難中傷されたワイマール政府にしても、ヒトラーが政権を握るまでの14年間に、閣僚の数は、延べ400人近くに上ったが、このうち、ユダヤ系の大臣は、僅かに5人に過ぎなかったという。しかも、皆、短期間で交代しているのである。とても「ユダヤ人が牛耳っている」とはいえまい。

また、一部のユダヤ人が金融業界に力を持っていたことは事実だが、それには、歴史的な背景がある。中世以来、キリスト教会が、金を貸して生業とすることをキリスト教徒に禁じたため、差別され、職を得られぬユダヤ人たちは、やむなく、それを生業としてきたのである。好んで、金融業界に狙いを定めたのでもなければ、社会を支配しようとしたわけでもない。

さらに、ユダヤ人が、学術・芸術などの世界で、多くの偉人を輩出してきたことは確かである。たとえば、ノーベル賞が制定されてから、ヒトラー政権の誕生までで、ドイツ国籍の受賞者は38人を数えている。そのうち、相対性理論で知られる世界的な物理学者アインシュタインなど、11人がユダヤ系であった。実に、全体の3割近くにあたっている。

アルベルト・アインシュタイン
(ALBERT EINSTEIN
【1879 - 1955】

だが、これもユダヤ人の「教育」を大切にしてきた賜物であった。迫害され、土地を追われても、教育さえあれば、どこでも生きていけるからだ。まさに苦難の嵐をバネに、多大な努力を重ねてきたのである。この教育の伝統が、優秀な才能を生む土壌となったのである。

また、そうした優れた知性は、本来、ユダヤ人社会のみならず、ドイツの社会全体を、ひいては人類を豊かにするものであったといえよう。偏狭なユダヤ人憎悪は、こうした精神的な財産さえも拒否したのである。


さらに、ヒトラーは、ユダヤ人の謀議の記録と称する『シオンの議定書』という、かつて流布した偽造文書まで持ち出し、ユダヤ人の「世界支配の陰謀」があると攻撃した。出所不明の"怪文書"による中傷である。これもまた、不当な弾圧を行う際、権力者が用いる常套手段といってよい。

しかも、ヒトラーは、ユダヤ人が"議定書"を執拗に否定すること自体が、この書の真実性の証拠だとまで言ったのである。当時の多くのマスコミは、ヒトラーの代弁者となり、反ユダヤ主義を煽る記事を書き立てた。それが、いかに真実とかけ離れたものであったか。ともあれ、ヒトラーは自分の気に入らないものは、全てユダヤ人に結びつけた。


民主主義も、議会主義も、国際主義も、また、人々の自由と平等を広げる人権思想も、いっさいが"ユダヤ人がアーリア人を支配しようとして考え出した道具"だと見た。だが、そのような強大な"支配者ユダヤ人"がどこにいるというのか。結局、ヒトラーの妄想の中にすぎない。にもかかわらず、彼の偏見と差別意識に満ちた妄想は、文字通り、狂気の暴走を始めてしまったのである。

こうして作られた虚構の「ユダヤ人問題」を「最終解決」するために、ユダヤ人の「排除」を叫び、それは遂に、"アウシュヴィッツ"に代表される「ユダヤ人絶滅計画」にまで行き着いてしまうのである。


なんという狂気か。なんという惨劇か。権力の亡者は、民衆が賢くなり、自分たちの思い通りにならなくなることを何より恐れる。それゆえに、民衆を目覚めさせ、自立させようとする宗教や運動を、権力は徹底的に排除しようとするのである。それは、いつの時代も変わらざる構図といえよう。


ヒトラーが権力を掌握すると、それを待っていたかのように、ユダヤ人に対する暴行や略奪が相次いだ。当然、国際的な非難が強まり、ドイツ製品のボイコットまで起こった。すると、ナチスは、この責任はユダヤ人にあると言い出し、"懲らしめ"のためと称して、国内のユダヤ人ボイコット運動に移った。


さらに、次々に、反ユダヤ立法が行われる。ユダヤ人を狙い撃ちし、追い詰めるために、道理を曲げ、"民主憲法"を踏みにじり、悪法を量産していった。

ナチス政権の誕生から5年ほどで、そうした法律や規定は、実に1000件を超えるといわれている。まさに白昼堂々、ユダヤ人は、人間として、ドイツの市民として、生きる権利を制限され、自由を奪われていったのである。


また、ナチスは、ユダヤ人の経済力の破壊と収奪を目論んだ。1938年に、ユダヤ人の財産登録を義務化すると、これをもとに、情け容赦なく、財産を没収していった。いったい「生き血」を吸っていたのはナチスか、ユダヤ人か。真実は明らかであろう。

なかでも、ユダヤ人の運命に、決定的な影響を与えたのは、1935年に制定された、悪名高いニュルンベルク法であった。これによって、ユダヤ人は、法的に、ドイツ人に従属する別の人種、"2級市民"と規定され、公民権を奪われたのである。


その際、ナチスが定めた"ユダヤ人の定義"では、祖父母の代まで遡って、ユダヤ教かどうかが基準になっていた。このことからも、「ユダヤ人は人種である」とのナチスの主張が嘘であったことは明白であろう。結局、それは、特定の宗教を信じる国民への差別を合法化するものであった。


1938年8月11日には、ユダヤ系青年による、ドイツ外交官の暗殺事件をきっかけに、ドイツ全土で、ユダヤ人に対する大迫害が起こる。夜陰に乗じて、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)や、ユダヤ人の商店が壊され、100人近いユダヤ人が殺された。さらに、2万から3万人が逮捕され、強制収容所に送られた。いわゆる「水晶の夜」である。


破壊の嵐のあと、ガラスの破片が散乱していたことから、こう名づけられた。ユダヤ人にとって、最悪の"ポグラム(迫害・虐殺)の夜"であった。これらは、全て、1939年の9月1日、ドイツがポーランドに電撃的に侵攻し、第二次世界大戦が勃発する前のことである。




『新・人間革命』第4巻 
池田大作