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今日8月15日は、終戦から78年…政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で開かれました。
現在と決して無関係ではない過去の歴史。同じ過ちを繰り返さないために、今日は、太平洋戦争末期に何が起こっていたかを学び直したいと思います。
…太平洋戦争中の1945年2月、米・ルーズベルト、英・チャーチル、ソ・スターリンによるヤルタ会談が行われた。
そこで、ルーズベルトの要望から、ソ連はドイツの降伏後、対日戦に参加することが決定されていた。
ところが、4月、ルーズベルト大統領が急逝してしまった。新大統領に就任したのはトルーマン。
トルーマンは対独戦が終わってみると、米ソ冷戦の兆しを早くも読み取っていた。トルーマンは対日戦をアメリカ単独の力で勝ちたかった。終戦間際のソ連の参戦を極力嫌った。
一方、日本政府はというと国民を愚弄したものであった。「神風」を期待し、「本土決戦」「一億玉砕」をヒステリックに叫ぶしか脳がなかった。
これでは、大人と子どもの喧嘩である。
7月、米・英・中の名において「ポツダム宣言」が発表された。ソ連が入ってないのは、まだ対日戦に参加していなかったからだ。
このポツダム宣言は、日本の国民と軍隊を明確に分け、日本の軍隊に対して無条件降伏を要求していた。
軍部政府は、それを黙殺した。つまり拒絶である。
政府にはポツダム宣言を冷静に分析する余裕はなく、それどころか、自らの地位を守ることに汲々とし、指導理念などあったものではなく、なにもかもが支離滅裂であった。
日本政府がポツダム宣言を拒絶したことによって、アメリカ空軍の空襲は大規模なものになった。B29は日本全土に来襲、思うがままに蹂躙した。
そして、8月6日、広島
一発の核爆弾が、一瞬にして広島を廃墟にし、一般市民20万人の死傷者を生んだ。
日本の防空総本部は、この新型爆弾への対策として「白衣を着て、横穴へ退避せよ」と発表、指導しただけであった。
トルーマン大統領の原子爆弾投下は、戦争の早期終結を狙ったものだという。しかし、必ずしも平和実現のためばかりではなかった。
日本の敗戦が時間の問題で、戦後処理にあたって、ソ連の発言権を封じること、ソ連の参戦を見ることなく、勝利を収めたかった。そのためには、戦争終結を急ぐ必要に迫られていたのである。
ソ連に脅威を与え、アメリカの犠牲をなくして終戦に追い込む ー それには、原子爆弾が一石二鳥であったのだ。
科学的知識に無知な当時の軍部政府は、広島の一発だけでは、日本がいかなる位置におかれたかも気づかなかった。
トルーマン
「我々は、史上最大の科学的投機に20億ドルを賭け、そして勝った。我々は、いまや日本人が地上に持っている生産的企業を、迅速かつ完全に抹殺することができる。もし、彼らが我々の条件を受理しないなら、彼らの頭上には崩壊の雨が降るだろう」
アメリカらしい言い草である。しかし、原子爆弾があることを表明した、このラジオ放送を、日本の首脳は聞いていたはずである。だが政府は、単なる威嚇として、黙殺するほかに知恵はなかった。
8月9日、長崎
この日未明、ソ連が戦線布告し、満州に進入してきた。日本軍部は、科学的無知から、原爆には驚かず、ソ連の参戦に至って、初めて色を失った。
これで、万事休したのである。もはや、無条件降伏に行きつくほかはなかった…
8月14日、ポツダム宣言、無条件降伏受諾。15日、終戦。
池田大作
『人間革命』第1巻
より抜粋
「広島平和文化センター」
元理事長・彰晃泰良氏
…在任中はアメリカ大統領の広島初訪問を実現させた。
「私たちが闘っているのは、自分たちの安全のためには敵をどんな酷い目に遭わせても構わない、という考え方そのものです」
アインシュタイン
「恒久の平和は、脅迫によってではなく、相互の信頼を招く真摯な努力によってのみ、もたらされるものです」
🕊
「死んだ女の子」('06) 元ちとせ
作詞 Nâzim Hikmet 作曲 外山雄三
編曲 坂本龍一
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