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今月10日、旧統一教会の問題から、与党だけでなく野党(共産党除く)も賛成で、「被害者救済新法」が成立しました。

NNN(日本ニュースネットワーク)と読売新聞が行った世論調査では、65%の国民が評価しています。

宗教を名乗った悪質な反社会団体による被害者の救済と、新たな被害が出ないことを切に願います。

巷では、「宗教2世」ハッというトレンド・ワードがマスコミ先導により定着しましたが、因みに、うちの実家は卍真言宗智山派の檀家総代で、19代続いている家系なので、僕は、さながら「宗教19世」となります。

なんか変ですよねーぶー

この日本に蔓延る「変さ」の原因は、僕たちの恐るべき"無関心"と"無意識"という温床にあるのです


老若男女が厳粛にお参りする姿や、おみくじに一喜一憂する初詣の光景は、日本らしい正月の風物詩です。

手まずは、神社へ行く方々が拝み、信じている(?)「日本の神様」をランキングしましたー。


神社日本神道
ベスト7系統と神社数

第🥇位 
八幡神(7,817社)
祭神:応神天皇、比売大神、神功皇后
本社:宇佐神宮(大分県宇佐市)、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)

第🥈位 
伊勢神(4,425社)
祭神:天照大御神、豊受大御神
本社:伊勢神宮(三重県伊勢市)

第🥉位 
天神(3,953社)
祭神:菅原道真
本社:太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、北野天満宮(京都市)

第4位 
稲荷神(2,970社)
祭神:宇迦之御魂神
本社:伏見稲荷大社(京都市)

第5位 
熊野神(2,693社)
祭神:熊野大神
本社:熊野三山(和歌山県)

第6位 
諏訪神(2,616社)
祭神:建御名方神、八坂刀売神
本社:諏訪大社(長野県諏訪市)

第7位 
祇園神(2,299社)
祭神:天照大御神、豊受大御神
本社:八坂神社(京都市)
(資料:神社本庁)


神社


これらの氏神信仰が日本各地の神社として広がってきたそうです。おそらく信仰として認識し、信じている人は少数でしょうねー

どうして「無宗教」「無神論」のはずの日本人が思考停止になり、このような風習に絡め取られているのか。

それは、「なんとなく」「昔から」「みんな行ってるから」「厄年だから」「バチが当たるから」  …ま、新年くらい、と周囲の流れに乗っかっているだけなのではないでしょうか。

また、漠然と、未知なるものへの畏怖や、刷り込まれた民族意識を掻き立てられるのかもしれません。とにかく、考えずに流れに任せる、と…



なぜ、人は自由を放棄して、全体主義を支持してしまうのか、自己を無化して大きなものの一部となるつもりで不安を解消しようとしてしまうのでしょうか。

電球精神分析・社会心理学者のフロムは解析しました。

"サディズムとマゾヒズムの〈両面〉が権威主義を支えている""誰しもの内にある〈他者を支配したい〉という魔性は、進んで何かに隷属する魔性でもある"(『自由からの逃走』E.フロム著)と。



パンドラの箱には、「支配」と「隷属」という表裏一体の「魔性」が入っていたのです。

神道と権力が結びつき、戦争を正当化し、民衆が自らの首を絞めるように苦しんだ歴史が日本にはありました下矢印



古来、日本には土俗的な氏神信仰があり、地域の共同体と宗教とが、密接に結びついてきた。

江戸時代になると、幕府の宗教政策によって寺壇制度(=檀家制度)がつくられ、寺院によって民衆が管理されるようになった。

そのなかで、寺院の言うがままに従うことが、本来の人間の道であるかのような意識が、人々に植えつけられていった。


さらに、明治以降、神社神道が、事実上、国教化されたことで、神社はもとより、宗教への従属意識は、ますます強まっていった。

地域の寺院や神社に従わなければ、罪悪とするような日本人の意識の傾向は、いわば、政治と宗教が一体となり、民衆を支配してきた日本の歴史のなかで、培われてきたものといえよう。



戦後、日本国憲法によって、信教の自由が法的には完全に認められても、国民の意識は旧習に縛られたまま、依然として変わることがなかった。

そして、共同体の昔からの慣習であるというだけで、地域の寺院や神社を崇め、寄付や宗教行事への参加が、すべての地域住民の義務であるかのように考えられてきた。


では、なぜ、人々は民主主義を口にしながらも、無批判に共同体の宗教を受け入れ、旧習から脱することができなかったのか。

それは、民主主義の基本となる「個」の確立がなされていなかったからにほかならない。

一人一人の「個」の確立がなければ、社会の制度は変わっても、精神的には、集団への隷属を免れない。


さらに、日本人には、「個」の自立の基盤となる哲学がなかったことである。

本来、その役割を担うのが宗教であるが、日本の宗教は、村という共同体家の宗教として存在してきたために、個人に根差した宗教とはなり得なかった。

たとえば、日本人は、寺院や神社の宗教行事には参加しても、教義などへの関心はいたって低い。


これも、宗教を自分の生き方と切り離して、村や家のものと捉えていることの表れといえる。

もし、個人の主体的な意志で、宗教を信じようとすれば、教えの正邪などの内実を探究し、検証していかざるを得ないはずである。

こうした、宗教への無関心、無知ゆえに、日本人は、自分の宗教について尋ねられると、どこか恥じらいながら、家の宗教を答えるか、あるいは、無宗教であると答える場合が多い。


それに対して、欧米などの諸外国では、誇らかに胸を張って、自分がいかなる宗教を信じているかを語るのが常である。

宗教は自己の人格、価値観、生き方の根本であり、信念の骨髄といえる。

その宗教に対する、日本人のこうした姿は、世界の常識からすれば、甚だ異様なものといわざるを得ない。




『新・人間革命』第4巻
池田大作



釈尊
"自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。自己をよく整えたならば、得難き主を得る"『真理のことば』中村元訳)


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