ヘルマン・ヘッセ
「この世のどんな書物も 君に幸福をもたらしてくれはしない けれども、書物は密かに君を諭して 君自身の中へ立ち返らせる
そこには太陽も星も月も 君の必要なものはみんなある 君が求めている光は 君自身の中に宿っているのだから
そうすると君が書物の中に 長い間 探し求めていた知恵が あらゆる頁(ページ)から光ってみえる - なぜなら今その知恵は君のものとなっているから」(『生きることについて』)
前回あらすじ
最愛の弟子を亡くし、一族も滅亡した仏陀。しかし、高齢になっても、人々を救い導くという崇高な信念、誓願を貫き通し、布教の歩みを止めることはありませんでした。その仏陀にも最期の時が近づいていました…"人類の教師"『仏陀』最終章。
「手塚治虫のブッダ」製作委員会
2011年 東映、Warnar Bro.
やがて雨期に入った。
釈尊と阿難(あなん)の二人は、他の弟子たちとしばらく別れ、毘舎離(びしゃり)の近郊の竹林村にとどまることにした。
釈尊は、ここで病の床についた。旅の疲れに加え、インドの雨期の暑気と湿度が、衰えた老軀をさいなんだのであろう。
病名は不明だが、彼は死ぬほどの激痛に苦しみ、悶えた。
しかし、釈尊は思う。
"弟子たちに別れも告げずに、ここで、死ぬわけにはゆかぬ!"
釈尊は、生命力を奮い起こして、病に挑んだ。病に伏す師匠・釈尊を前に、阿難は、なす術もなかった。
釈尊は激痛をこらえ、不屈の精神力をもって、病魔を退けた。そして、久し振りに病の床から立って、外に出た。
阿難は、喜びを隠せなかった。
「世尊が病床にあった間は、私は心配で、何も手につきませんでした。でも、お元気な姿を見て、安心いたしました。世尊は、最後の大法を説かれない限り、亡くなるはずはないと、確信できました」
釈尊は静かに言った。
「阿難よ。お前は、何を期待しているのだ。私は、皆に、わけへだてなく、いっさいの法を説いてきた。まことの仏陀の教えというのは、奥義や秘伝などといって、握り拳のなかに、何かを隠しておくようなことはないのだ。全部、教えてあるではないか」
当時のバラモンたちは、大切なものを握り拳に隠すように、奥義は明らかにせず、死の直前に、気に入った弟子にだけ教えるのが常であった。
しかし、釈尊は、そうした考えにとらわれていた阿難の心を打ち砕くように、万人に対して、真実の法を説いてきたことを宣言したのであった。
教団の混乱は、後に弟子たちが自らを権威づけるために、秘伝や奥義など、何か特別な教えを、自分が授かったと主張し始めるところから起こっている。
この話は、本来、仏法には、そうした特別な法の伝授などないことを明確に物語っている。すべての法が説かれた以上、あとは、その実践しかない。行動しかない。また、それが弟子の戦いである。
阿難は、この師が亡くなったあと、自分は、何を頼りに生きていけばよいのかと思うと、たまらない不安と悲しさを覚えた。
すると、それを見透かしたように、釈尊は言った。
「阿難よ、強く生きよ。強くなるんだ。自分が弱ければ、どうして幸福になれようか。悩める人を救っていけようか。そのために、自分を島とし、自分を頼りとし、他人を頼りとしてはならない。そして、法を島とし、法を拠り所とし、他のものを拠り所としてはならない」
揺るぎなき島のごとく、確かな「自己」によって、「法」によって生きよ ー それは、釈尊が、生涯、説き続けてきた、核心ともいうべき教えであった。
涼風がそよぎ、木々の葉が揺れた。既に雨期は明けていた。
健康を回復した釈尊は、阿難(あなん)に向かって言った。
「さあ、旅立とう!」
釈尊は、また、新しい村へと向かった。一つの村から、さらに次の村へと、彼の布教の歩みは続いた。
パーバーという村に来た時、釈尊は、鍛治職人の在家信徒が供養したキノコ料理を食べた。すると、激しい下痢をした。下血もしていた。
しかし、彼は、それでも旅を続けた。喉の渇きを訴え、よろけながらも足を運んだ。
彼がめざしていたのは、故郷の迦毘羅(かびら)城に向かう道筋にある拘尸那(くしな=クシナーラー)城であった。故郷をひと目、見たいという思いもあったのかもしれない。
拘尸那城に着くと、釈尊は、沙羅双樹の木と木の間に寝床を用意するように、阿難に頼んだ。
「私は疲れた。横になりたい…」
つぶやくように言うと、阿難の整えた寝床に、身を横たえた。
諸行は無常であることは、幾度となく釈尊から教えられてきた。しかし、師が永遠の眠りについてしまうかと思うと、泣かずにはいられなかった。
釈尊は、そんな阿難を気遣い、傍らに呼んで励ますのであった。
釈尊の死が間近に迫ったことを聞きつけ、町の人たちが、次々と訪ねて来た。人々は、そっと礼をし、目頭を拭いながら帰っていった。
そこに異教の遍歴行者の須跋陀羅(しゅばつだら=スバッダ)がやって来た。
釈尊に会って、教えを請いたいというのである。阿難は断った。
「世尊は疲れ切っておられる。重体なのです。世尊を悩ませるようなことは、おやめいただきたい。どうか、お引き取りください」
しかし、須跋陀羅は引き下がらなかった。二人は押し問答になった。
そのやりとりを耳にしていた釈尊は言った。
「やめなさい、阿難。その方を、お連れしなさい。聞きたいことは、なんでも尋ねればよい」
釈尊は、質問に答えて、諄々と法を説いていった。命を削っての説法であった。
須跋陀羅は、感激して、弟子となることを申し出た。これが釈尊の最後の布教であり、須跋陀羅は最後の弟子となった。
沙羅双樹の間にしつらえた寝床の上で、釈尊は、うっすらと目を開けていた。その木には、時ならぬ花が咲いていた。周りには弟子たちが心配そうに集っていた。
釈尊は静かに言った。
「私に聞きたいことがあったら、なんでも聞きなさい。今後、どんな疑問が起こるかもしれない。その時になって、聞いておけばよかったと、後悔しないように、今のうちに、なんでも聞きなさい…」
釈尊は、三たび繰り返したが、質問するものは誰もいなかった。
臨終を前にして、なお、自分たちを教え導こうとする師の心に、弟子たちは感涙を抑えるのに精一杯であった。
阿難が、やっと口を開いた。
「これまで、世尊からさまざまな教えを賜ってまいりましたので、誰も、疑いや疑問はございません」
「そうか…。疑いの心がなければ、皆、退転することなく、正しい悟りに達するであろう」
それから、最後の力を振り絞るようにして言った。
「すべては過ぎ去ってゆく。怠りなく励み、修行を完成させなさい…」
こう告げると、釈尊は静かに目を閉じた。そして、息絶え、安らかに永久の眠りについた。
「世尊!…」
弟子たちは、口々に彼を呼んだ。
沙羅双樹の淡い黄色の話が、風に舞い、釈尊の体の上に散った。
これが、人間・仏陀の、偉大なる「人類の教師」の最期であった。
完
『新・人間革命』第3巻
池田大作
以上、全10回にわたり仏陀の生涯を学んで参りました。
仏陀は、悩み、苦しみ、考える、一人の人間でありました。
仏陀の悟ったもの、その生き方には利他の精神があり、根底には相手への思いやりがありました。
また、人々の苦悩の原因には必ず自己執着があり、それに気づけない愚かさを説く、精神の名医でした。
「自らの幸せを願うならば、他者のために生きよ」と仏陀は訴えました。
その心が「仏(=生命)」であり、私たち一人一人の胸奥に秘められた無限の財宝(=宇宙)だと思います。
その開かれた人格と人格が結び合い、共鳴したなら、世界の平和を実現できる可能性は否定できません。
ともあれ、仏陀の教えは未来の世界、つまり、私たちに向けられたメッセージです。
…「いくつか子があって、親の慈悲は等しくても、病んでいる子には、もっとも気が重くいくものである」と。
インドから、中国、朝鮮へと仏陀の教えが流れ通って3000年…日本は最終地点でありながら、再出発の地とされます。
日が東から昇るように、世界の闇を照らし、晴らす使命が日本人にはあるのではないでしょうか。
ご閲覧ありがとうございました。