🕊恩師
「平和運動は決して遠くにあるものではない。自分さえよければというエゴの生命を、一人一人がいかにして乗り越えるか。そして人の痛みを我が痛みとして感じる鋭い感受性を、どう培うか - 日常のなにげない出来事のなかでの、そうした努力こそが大切であると思う」
前回あらすじ
提婆達多(だいばだった)の裏切りという最大の苦難を、弟子の奮闘により乗り越えた仏陀。しかし、仏陀とはいえ、一人の人間。さらなる苦悩は続くのでした…
「手塚治虫のブッダ」製作委員会
2011年 東映、Warnar Bro.
大きな試練を乗り越えた釈尊であったが、彼には、まだ、いくつも怒濤が待ち受けていた。
あの最愛の弟子の舎利弗(しゃりほつ)が病に倒れ、摩訶陀(まがだ)国の故郷の村で療養生活に入り、ほどなく他界したのである。
釈尊はその訃報を、阿難(あなん)から聞いた。阿難は舎利弗の遺品である、鉢と衣を手にし、悲しみに体を震わせ、彼の死を告げたのである。
舎利弗は釈尊の後継者ともいうべき人物であった。釈尊の胸は、張り裂けんばかりに痛んだ。
しかし、彼は、阿難に言うのであった。
「阿難よ。いつも私が言っているではないか。人間は愛する者とは、いつか別れなくてはならないのだ。この世には、何一つ、変化せぬものはない。ここに大樹があったとしよう。その一つの大きな枝が枯れ落ちた。しかし、大樹はなお、堅固に生き続けるものだ」
釈尊は、悲しみのなかでも、揺るぎなき自己自身であれと、阿難を励まし、法を説いた。
最も悲しいのは、釈尊自身であったはずだ。それは、自らを鼓舞する言葉でもあったにちがいない。
悲しみは津波のごとく、釈尊を襲った。舎利弗の死と、ほぼ時を同じくして、目連(もくれん)も他界したのだ。
目連は外道の一派に、幾度か庵室を襲われ、とうとう命を落としたのである。殉教であった。友として舎利弗の後を追うかのような死であった。
釈尊は弟子の双璧ともいうべき二人を、日ならずして失ってしまった。
その衝撃は、あまりにも大きかった。さすがの彼も生気を失っていった。衆会に臨んでも、心は虚ろになっていた。
釈尊は、つぶやくように言った。
「…今は、あの二人の思い出だけが、私を支えている」
さらに、悲劇は彼に追い打ちをかけた。釈迦族の滅亡という事件に遭遇するのである。
なお、釈迦族の滅亡の時期については、舎利弗、目連の生前の出来事とする経典もあれば、釈尊滅後とするものもある。
事件は、釈尊が祖国を訪れていた時から始まった。そこに、彼を訪ねて、拘薩羅(こさら)国の波斯匿(はしのく:パセーナディ)王がやってきた。
波斯匿は、国も家族も友人同士も、互いに争い明け暮れている現状を嘆き、釈尊に教えを求めに来たのである。
波斯匿王の息子の波瑠璃(はるり:ビドゥーダバ)は、既に壮年に達しており、いつまでも王子の座に甘んじていることに我慢がならなかった。そして、王が釈尊を訪ね、留守にしたこの時、クーデターを起こして、王座を奪い取ってしまった。
王位に就いた波瑠漓は、釈迦族の国への侵攻開始したのである。
そこには、波瑠漓の出生にまつわる怨念があった。
ー 波斯匿王は、釈尊に帰依して以来、釈迦族の王女を妃として迎えたいと望んでいた。
拘薩羅は大国ではあったが、新興の国であり、釈迦族の国は小国ながら、「太陽の末裔」を名乗る由緒ある国柄でもあった。
釈迦族には、その誇りがあり、新興国の拘薩羅を、決して快くは思っていなかった。
波斯匿王の要請を受けた釈迦族は、王族の娘を差し出すことを厭い、王族が下婢に産ませた娘を、王女と偽り、嫁がせたのだ。
その娘と波斯匿王の間に生まれたのが、波瑠漓であった。しかし、その後、彼女は、下婢の出であることから、妃の座を外されたのである。
波瑠漓は、自らに流れる血を呪い、釈迦族を恨み続けてきた。
彼は、その恨みを晴らさんとしたのだ。
釈尊は、王の波瑠漓が釈迦族の国へ出兵することを聞くと、彼が通る道に出て、枯れ木の下に座って待った。
大軍を率いた波瑠漓がやって来た。釈尊を見ると、王は尋ねた。
「なぜ世尊は、この炎天のなか、枯れ木の下におられるのか。枝葉の茂る木の下なら涼しいものを…」
釈尊は静かに答えた。
「一族というものは、枝葉のようなものです。その枝葉が危機に瀕しているというのに、どこに身を隠すところがありましょう」
波瑠漓は、釈迦族を守るために、自分を思いとどまらせようとする、釈尊の必死さを感じた。
波瑠漓も、釈迦族の血を引くものであることは間違いない。血気にはやる王も、仏陀の姿に接すると、人の情けが、心の底に、滲むように湧いてくるのであった。生命の触発といってよい。
「世尊も釈迦族ですな。…討つわけにはいきますまい」
波瑠漓は引き返した。
ところが、彼は、再び釈迦族の国に向かって兵を出した。その時も、釈尊は彼をとどめた。
しかし、三たび(四たびとする経典もある)、波瑠漓が兵を率いてやって来た時には、もはや制することはできなかった。
釈迦族の祖国は、戦場となり、釈迦族は無残にも波瑠漓の大軍に滅ぼされさた。
釈尊は最愛の弟子に続いて、同胞をも失った。
諸行は無常であった。
それはまた、無情の風となって、高齢の彼の心に染みた。
しかし、釈尊は負けなかった。無常なるがゆえに永遠の法に生き、それを伝え抜こうとしたのである。
彼は、長年、「生命の法」を説いてきた霊鷲山(りょうじゅせん)に立つと、阿難に告げた。
「さあ、行こう!」
彼は弘教の旅に出ることを、呼びかけたのだ。
いかなる人も苦しみを避けることはできない。仏陀にも苦しみはある。その苦しみの淵から立ち上がり、使命に生き抜く力が信仰である。そこにこそ仏陀の道、聖者の道、まことの人間の道がある。
既に、釈尊の年齢は80歳に達していた。彼自身、肉体の衰えは、十分に自覚していた。だが、彼は命尽きる日まで、各地を巡り、法を語り説いて、生涯を終えることを決意したのである。
多くの弟子たちは、驚きもした。師の体を気遣い、止めねばならないと思った者もいた。しかし、師の厳たる心を知ると、誰も、それを口に出すことはできなかった。
釈尊の足取りはおぼつかなかった。彼は、ボロ布をまとい、ゆっくりと歩みを運んでいった。
財宝もなかった。世上の地位もなかった。権力もなかった。人目には、顔に幾重にも皺を刻んだ、貧しい一老人にすぎなかった。
確かに、釈尊の肉体は黄昏の時を迎えていた。しかし、精神は、常に旭日の輝きを放っていた。
その胸中には、無量の財宝が輝いていた。彼の一足一足の歩みは、黄金の慈悲の大道となって広がっていった。
弟子たちとともに、王舎城を発った釈尊は、行く先々の村で法を説いた。
そして、ガンジス川のほとりまでやって来た。ここまでが摩訶陀国である。彼を見送りに来た人々とも、この渡し場で別れなければならない。
見送りの人のなかには、大臣もいた。これで釈尊とは、もう二度と会えないかもしれないと思うと、皆の目に、惜別の涙があふれた。
誰もが"その人"の人格を慕っていた。誰もが"その人"の説く法を求めていた。
ガンジス川を渡ると、そこは跋耆(ばっぎ=ヴァッジ)国であった。
釈尊は、この国の首都である毘舎離(びしゃり=ヴェーサーリー)の園林で、一人の遊女のために法を説いた。彼女は感激し、食事に招待したいと申し出ると、彼は、それを受けた。
そこに、釈尊が来たことを聞きつけて、貴族の息子たちがやって来た。彼らの求めに応じて、釈尊は法を説いた。彼らも感激し、食事に招待したいと申し出たが、釈尊はそれを断った。遊女との先約があったからだ。
釈尊は、すべてに平等であった。彼には、貴族も庶民も、男も女も、貧富の差も、関係なかった。王に法を説く時も、遊女に法を説く時も、彼の態度は決して変わらなかった。どんな人に対しても、同じ人間として接した。