師弟の道こそ、正しい人生をまっとうするための要諦がある。師弟の道を見失い、自己の原点をなくした場合には、大切にしてきた大目的をも忘れ、小さな自身のエゴと虚飾に陥ってしまうことが、あまりに多い。
前回あらすじ
ついに邪悪な本性を現した提婆達多(だいばだった)。それを見透かした師・釈尊に呵責されると、提婆達多は平静を装い立ち去っていきました。
怨念の焔に身を焦がしながら…
「手塚治虫のブッダ」製作委員会
2011年 東映、Warnar Bro.
一方、釈尊は、提婆達多が去っていく姿を見て思った。
"提婆達多は反逆するにちがいない。彼一人が去っていくことは仕方がない。しかし、それによって、真面目で純粋な弟子が、信仰の道を踏み外したり、何も知らない民衆が惑わされたりするようなことがあってはならない"
釈尊は、辛い決断ではあったが、弟子と民衆を守るために、提婆達多と戦う心を固めた。
釈尊は、集っていた弟子たちに言った。
「遂に、提婆達多の本性は明らかになった。王舎城で彼の正体を皆に伝え、こう宣言するのだ。『彼は、以前の提婆達多ではない。私利私欲を貪る者である。彼の行動や発言は、仏陀の教えでも、教団の指導でもない。それは彼の我見にすぎない』と。もし、これに反対のものは、意見を言いなさい」
釈尊のこの提案に、戸惑う弟子もいた。提婆達多は釈尊の引退を迫ったが、表面上は、釈尊の健康への気遣いを理由にしていた。それだけに、まだ、彼の邪悪な本性がわからなかったのだ。
また、釈尊の意見は、同志を追い込む、冷酷な仕打ちのような気がしていたのである。
彼らは、事態の深刻さが理解できていなかった。悪と戦うことをためらう、その感傷が、多くの仏弟子を迷わす結果になることが、わからなかったのだ。
それは、すべての人を成道させようとする、釈尊の大慈悲を知らぬがゆえの、迷いでもあった。
しかし、真っ向から異論を唱える人はいなかった。
釈尊は居並ぶ弟子たちに視線を注ぐと、舎利弗(しゃりほつ)に言った。彼は教団の長老であった。
「舎利弗よ!長老であるあなたが、王舎城で提婆達多を糾弾してくるのだ」
舎利弗は困惑した。
「世尊、私には、それはできません。私は、かつて王舎城で、提婆達多は偉大な力があると、賞讃してきました。その私がそうしたことを言うのは…」
「本当に提婆達多を讃えてきたのか!」
「はい…」
釈尊は、強い力を込めて言い放った。
「だからこそ、戦ってくるのだ!あなたが出向いて、提婆達多の本性を暴き、仏陀に違背したものであると宣言してくるのだ」
悪と徹底抗戦する心が定まらなければ、悪人に付け入る隙を与え、正義も破られてしまう。釈尊は、それを弟子たちに教えようとしていたのである。
舎利弗は、何人かの比丘(びく)とともに、王舎城に向かった。そして、提婆達多の本性を暴き、その悪心を糾弾した。
人々の反応はさまざまであった。舎利弗たちが、提婆達多への、供養と、尊敬と、名声に嫉妬しているとみる人もいた。
また、世尊があそこまで言わせているのは、提婆達多がよほど邪悪であったにちがいないと考える人もいた。
提婆達多は、舎利弗によって、王舎城で自分の本性が暴かれてしまったことを知ると、狂乱せんばかりに憤った。
彼は心に決めた。生涯、師の釈尊と戦い、大怨敵となろうと。
それから、提婆達多は、阿闍世(あじゃせ)を訪ねた。
「王子!人間の一生というのは短いものです。あなたは国王になることなく、王子のままで亡くなるかもしれません。それで、よろしいのでしょうか」
「いやじゃ。それでは、なんのための人生かわからぬではないか」
「それならば、王を殺すことです」
阿闍世は驚いて、提婆達多の顔を見つめた。提婆達多は口元に笑みさえ浮かべ、悠然として言った。
「あなたが王位に就くには、それしかありません。そして、私は瞿曇(くどん)を殺して、新しい仏陀となりましょう…」
提婆達多には、国王の頻婆娑羅(びんばしゃら)を殺してしまえば、釈尊への供養が断たれ、打撃を与えられるという計算もあったのかもしれない。
いずれにせよ、頻婆娑羅がいなくなれば、阿闍世が王となり、自分が最高の権力者を、自在に操れるようになるのだ。
一方、阿闍世は、提婆達多の言葉に、一条の光明を見いだした。
国王の座を狙う王子と、教団の指導者の座を狙う提婆達多は、結託して、非道の暴走を開始したのである。
阿闍世は、父の頻婆娑羅を幽閉し、遂に餓死させ、王位を継いだ。一説には、頻婆娑羅がクーデターを事前に察知し、阿闍世を捕えるが、息子の気持ちを知って、王位を譲ったともいわれる。
提婆達多の謀略によって王位に就いた阿闍世は、彼の要請をことごとく聞き入れた。
そして、釈尊に、王の家来が刺客として放たれた。しかし、仏陀の姿を見た刺客はたじろぎ、行動に移すことはできず、暗殺は失敗に終わった。
だが、提婆達多は諦めなかった。
新王・阿闍世の権力を背景に、次々と釈尊殺害の陰謀を練り上げ、実行していった。
ある時、王舎城の町を歩いていた釈尊に、砂煙をあげて象が向かって来た。象は凶暴だった。いたく興奮し、気が立っていた。
幸い、事なきを得たが、これも、事故死に見せかけて、釈尊を殺そうとする陰謀であった。
釈尊は、霊鷲山(りょうじゅせん)でよく弟子たちに説法した。その山の山頂付近は、ゴツゴツとした巨岩が奇観をつくっていた。提婆達多は、今度はそこに目をつけ、殺害を計画した。
釈尊は弟子たちと連れ立って、霊鷲山の頂をめざして歩いていた。すると、山頂付近の大石がグラリと揺れ、斜面を転がり始めた。
「危ない!」
弟子が叫んだ。大石は速度を増して、樹木の枝をへし折りながら、釈尊を目がけて転がって来た。
とっさに、彼は身を翻した。大石は体を掠るように転がり落ちていった。弟子が駆け寄った。
「世尊!お怪我は!」
釈尊の足の指から血が出ていた。だが、それには構わず、釈尊は、じっと頂を見上げた。怪しげな人影が動くのが見えた。
彼は静かに言った。
「大丈夫だ…。案ずることはない」
弟子が傷口を布で縛り、手当てをすると、釈尊は、何ごともなかったかのように歩きだした。
岩陰に身を潜め、その様子をうかがっていた男が、憎々しげに舌打ちした。
提婆達多であった。
提婆達多は頭を抱え込んだ。企てた殺害の計略が、皆、失敗に終わってしまったのだ。
「次はいかなる方法をとるべきか…」
提婆達多は思案を重ねながら、"釈尊の命を狙うことは無理があるのかもしれない"と思った。
釈尊の周りにはいつも弟子たちがついているし、今後、警護も厳重になると考えられた。
それに、自分の犯行であることが、明らかにならないとも限らない。
そうなってしまえば、仮に釈尊を亡き者にしても、人々の非難は、自分に集まることは間違いない。
彼は作戦の変更を余儀なくされた。殺害計画はやめて、教団を分裂させることを考えたのである。そこで、目につけたのが戒律であった。
当時のインドでは、苦行など禁欲主義を尊ぶ伝統があり、修行者には、厳格な生活の規律が重んじられていた。しかし、それは、釈尊の考えとは相反するものであった。彼は、苦行にしても、悟りへの真実の道ではないと捨て去っていたのである。
確かに、釈尊の教団にも戒律はあったが、それは、集団生活を維持し、修行に専念しやすくするために設けられたものであり、かなり柔軟なものであった。したがって、それぞれの事情や状況において、例外も認められ、決して、人間を縛りつけるような絶対的なものではなかった。
戒律は修行のための手段であって、それ自体が目的ではない。しかし、その戒律が目的となり、人間を縛るようになれば、まさに本末転倒という以外にない。
釈尊の教えの根本は、何ものにも粉動されない自分をつくることであり、戒律はあくまでも、それを助けるものにすぎない。
釈尊には、厳格な戒律で人を縛るという発想はなかった。だからこそ、彼は、後に、死を間近にして、"自分の死後は細かい戒律は廃止してもよい"と、阿難(あなん)に言い残しているのである。
真の戒律とは、「自分の外」に設けられるものではなく、「自分の内」に育まれるものでなければならない。仏教の精神は、外からの強制による「他律」ではなく、「自律」にこそあるからだ。
だが、釈尊への反逆の意志を固めた瞬間から、提婆達多の思考は、既に常軌を逸していた。いや、思考だけでなく、人格も崩壊していた。
かつて、「智者」と讃えられていたころの、清純な理知の輝きは失せて、嫉妬と憎悪の怨念の炎が、「邪智」の妖火となって、その目を異様に燃え上がらせていったのである。
彼は教団を分裂させ、混乱に陥れるための周到な計画を練り上げた。