ヘルマン・ヘッセ🖋
「この世の どんな書物も 君に幸福をもたらしてくれはしない けれども 書物は 密かに君を諭して 君自身の中へ 立ち返らせる そこには 太陽も星も月も 君の必要なものは みんなある 君が求めている光は 君自身の中に宿っているのだから そうすると 君が書物の中に 長い間 探し求めていた知恵が あらゆる頁から光って見える ー なぜなら 今その知恵は 君のものとなっているから」(『生きることについて』)
前回あらすじ
人の心に寄り添う「生命の名医」釈尊。その感化により、自らの意志で集う弟子たち。
そして、師の行動を模範に、弟子による布教も進んでいきました。
心を開く"対話"…
それは理屈や観念ではなく、目の前の一人を思いやる自己に芽生える「慈悲の心」であり、それこそが釈尊が弟子に伝えたいものでした。
「手塚治虫のブッダ」製作委員会
2011年 東映、Warnar Bro.
釈尊は友の苦悩や問題を直視し、ともかく、それを取り除くことに力を注ぎ、時には生活の指導もした。
ある時、拘薩羅(こーさら)国の波斯匿(はしのく)王がやって来た。彼は美食家で、大食漢でもあり、体は、はち切れんばかりであった。その姿を見ると、釈尊は詩をつくって朗詠した。
「常に 注意を怠らず 適量知って 食する人は 苦しみ少なく 老い遅く その命こそ守られる」
それを聞くと、王は家臣に、食事のたびに、この詩を諳んずるように命じた。王は、食事時に必ず詩を聞いて、釈尊の注意を守った。そして、肥満は解消され、健康を取り戻した。釈尊は、詩をもって友を励ます、「桂冠詩人」でもあったようだ。
また彼は、常に人々に質問の機会を与え、自由な語らいのなかで法を説いていった。
しばしば意地の悪い質問もあったが、当意即妙の譬喩や明快な道理をもって、敢然と切り返し、それに答え、納得させている。まさに、釈尊は坐団の達人であったといってよい。
ドイツの哲学者ヤスパースは、釈尊のことを、「言葉を自在に使う人」と表現しているが、釈尊の言葉は友への慈愛の一念から発する、魂の言葉であった。こうしたヒューマニズムにあふれた語らいと触発と和気こそが、釈尊の教団の大きな発展の源泉となっていたにちがいない。
しかし、破竹の勢いで発展する釈尊の教団を目の当たりにした、バラモンの指導者や新思想を唱える六師外道たちは、心穏やかではなかった。
彼らの心には、釈尊への嫉妬と憎悪が渦巻いていた。そして、排斥するための、さまざまな謀略が練られ、釈尊の迫害の人生が始まるのである。
祇園精舎が寄進された時には、外道たちが国王の波斯匿に、こう讒言している。
「瞿曇(くどん=釈尊)は、未熟な若僧にすぎず、なんの力もありません」
「彼が王族の生まれというのは偽りです」
「あの男は、幻術をもって人々を惑わす危険な人物です」
嫉妬と怨念による讒言である。
また、こんなこともあった。
ある日、釈尊が托鉢のために、舎衛城に入ると、一人のバラモンが罵りの声をあげた。
「止まれ、偽沙門め!賤しいやつめ!お前など、ここに来るな」
釈尊は悠然として切り返した。
「あなたは、『賤しいやつ』と言われたが、賤しいとはどういうことですか。また、何によって、人は賤しくなると思うのか」
バラモンという座に安住し、人を見下すことへの、本質的な問いであった。
男は答えなかった。いや、何も答えられなかったのである。彼は、ともかく、釈尊が憎く、侮蔑したかったにすぎない。当惑する男の額には、汗が噴き出していた。しばらく考え込んでいたが、答えは出せなかった。
男は意を決して言った。
「教えてください…」
釈尊は生命の因果の理法を説き、こう結論した。
「つまり、人間は生まれによって賤しくなるのではない。行為です。何をなすかによって、賤しくもなれば、尊くもなるのです」
釈尊は、人間の貴賎が、前世から定まった、「生まれ」によって決定するという、バラモンの運命論を打ち破ったのである。それは、過去に縛られて生きるのではなく、現在の行動、振る舞いをもって、未来を開いていくという、ヒューマニズムの哲学にほかならなかった。
バラモンの衝撃は大きかった。初めて耳にする斬新な、深い思想である。彼は、バラモン階級という社会的な立場を誇示し、威張っていた自分が、賤しくさえ思えた。
男は頰を紅潮させ、深く頭を垂れた。そして、釈尊の弟子になることを申し出たのである。
むしろ痛快なエピソードであるが、釈尊に対する嫌がらせは、数限りなかった。
彼の生涯のなかでも、大きな法難として伝えられているのが、いわゆる「九横の大難」であり、そのうちの二つは、女性をめぐるスキャンダル事件であった。
その一つが「旃遮(せんしゃ:チンチャー)女の謗」である。
釈尊が舎衛城の祇園精舎にいた時、人々が説法を聞いて帰るころ、艶やかな衣服に身を包んで、精舎に向かう女性がいた。美貌を誇る遍歴行者で、名前は旃遮といった。
翌日、人々が精舎にやって来るころ、彼女の帰って行く姿が見られた。それから一カ月ほど過ぎたころ、彼女は「私は釈尊の部屋に泊まった」と言い出したのである。
最初のうちは、皆、一笑に付し、本気にする者はいなかった。しかし、そのうちに旃遮の腹は、次第に大きくなっていった。すると、彼女は「釈尊の子どもを身籠もった」と吹聴して歩いた。人々のなかには、釈尊に疑いの目を向ける者も出始めた。
ある日、大きく腹を膨らませた旃遮が、釈尊の説法を聞きにやって来た。そして、皆の前で、瞳を潤ませ、大声で叫んだ。
「あなたは、私を弄んでおいて、おなかの子どもの面倒をみてくださろうとはしない!せめて、着る物と食べ物だけでも与えてください…」
集った人々は、驚いて旃遮を見た。彼女は声を上げて泣き崩れた。
釈尊は泰然自若として黙っていた。しかし、それは、見ようによっては、その場を取り繕っているかのようにも見えた。彼は大きな、落ち着いた声で言った。
「あなたの話が本当か嘘かは、私とあなたしか、わからないことだ」
旃遮は顔を上げると、怒りに燃えた目で釈尊を睨みつけた。
「そうです。知っているのは、私とあなたしかおりません。そして、二人しか知らないことによって、私は、こんな姿になってしまったのです」
腹をさする彼女の頬に、大粒の涙が流れた。誰もが絶句した。一座の沈黙のなかに、旃遮のすすり泣きが響いた。
近くにいた人々の反応はさまざまであった。横を向いて、舌打ちする者もいれば、旃遮に哀れみの目を向ける者もいた。
彼女は激しい口調で言った。
「おなかの子どもは、あなたの子ではありませんか。これ以上、騙すことは、おやめください」
その時、一陣の強風が吹いた。彼女の衣服が風に煽られ、腹に巻いていた紐が切れた。衣服の下に隠していた鉢が転げ落ちた。
「これがお前の子か!」
弟子の一人が鉢を指さして言った。爆笑が広がった。旃遮は、すごすごと逃げ帰るしかなかった。これは、外道の者たちによって、巧妙に仕組まれた罠であった。
国王をはじめ、長者や武士など、多くが釈尊に帰依し、自分たちに供養する者が少なくなりつつあったことから、釈尊への尊敬と名声を打ち砕くために仕組んだのである。
人々は、どこまでも民衆の救済のために生きる、釈尊の崇高にして純粋な無私の精神と行動に、深い尊敬と信頼を寄せていた。信仰によって結ばれた人間の絆は、利害によるものではなく、「信頼」を基本にした良心の結合である。
それゆえに、その絆は、最も美しい。しかし、ひとたび「信頼」が失われれば、心は離れ、絆は破壊されてしまうことになる。
したがって、教団を破滅に追い込むために、その指導者の異性や金銭をめぐるスキャンダルを捏造し、不信をいだかせるという手段が、古くから使われてきたのである。それは、今も同じである。
さらに、もう一つ、「孫陀利(そんだり:スンダリーの謗」という事件がある。
祇園精舎に日々通って来る、孫陀利という名の美しい女性がいた。やがて、彼女は、釈尊と情を通じたと吹聴するようになった。その孫陀利が、突然、姿を消したのである。
「このごろ孫陀利の姿が見えないが、どうしたのだろう」
舎衛城のあちこちで、そんな声が囁かれた。
孫陀利が行方不明になったと訴えがあり、国王が捜査を命じた。すると、祇園精舎から彼女の遺体が発見されたのである。
「釈尊の弟子たちが、師の悪行を隠そうとして殺したのだ!あいつらは、善行を口にしながら、平気で悪行をしていたのだ」
その流言に、多くの人々が同調し、釈尊の一門は非難の集中砲火を浴びた。
実は、この事件も、外道たちが孫陀利をたぶらかして仕組んだ罠であった。
しかし、やがて、真犯人が見つかり、彼らが人を使って、孫陀利を殺し、祇園精舎に捨てさせたことが判明する。そして、釈尊一門の無実が明らかになるのである。
自分たちが罪を犯し、それを聖者の犯行に仕立て上げる ー これは古来、弾圧に用いられてきた、常套手段といってよい。
もともと、釈尊には、社会的に罪となる行為など一切ないだけに、排斥するには、自分たちが事件を捏造して、讒言によって罪を被せるしか方法はない。そこに、冤罪による法難の構図がつくられていくのである。
ー 釈尊の「旃遮女の謗」と「孫陀利の謗」は、経典によって、内容も微妙に異なっているが、これに類する出来事は、実際にあったにちがいない。
ともあれ、釈尊の教団は、これらの試練を乗り越えて、信仰を深め、金剛不壊の団結を築き、発展していったのである。