ヴェトナム戦争
Chiến tranh Việt Nam)
「The Terror of War ナパーム弾から逃げる少女」
Huynh Cong Út(AP)

…果てしない泥沼のような様相を呈してしまったヴェトナム戦争である。

1966年(昭和41年)の7月17日、ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)大統領のホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh)は、アメリカの北爆拡大に対して、ハノイ放送を通して、国民に徹底抗戦を呼びかけた。

彼は叫んだ。


「戦争は5年、10年、20年、あるいは、それ以上長引くかもしれないし、ハノイ(Hà Nội)、ハイフォン(Hải Phòng)その他、幾つかの都市、企業は破壊されるかもしれない。しかし、ヴェトナム人民は絶対に脅かされはしない。独立と自由ほど、尊いものは他にはない。勝利の日が来た時、我が国民は、より壮大な、より素晴らしい自らの祖国を再び建設するであろう!」

米軍が北ヴェトナムのドンホイ(Đồng Hới)を攻撃し、「北爆」を開始したのは、前年の65年2月のことであった。

アメリカの、この本格的なヴェトナムへの直接介入以来、事態は混迷の一途をたどっていったのである。

世界自然遺産「ハロン湾」

ー  ヴェトナムは、美しい緑の天地である。

過去には、漢帝国の遠征軍の侵攻以来、1000年にわたって他国の支配を受けたが、10世紀半ばに独立。

これ以後、北部ヴェトナムを中心に、幾つかの王朝が興亡し、一時期を除いて、北方勢力の侵入を撃退し続け、独立を保ってきた。

世界文化遺産  「フエの建造物群」

ところが19世紀後半に、フランスによって、植民地とされてしまった。さらに、1940年(昭和15年)には日本軍の進駐が始まったのである。

これによって、ヴェトナムは、日本とフランスの二重支配という構造のなかで、塗炭の苦しみに喘ぐことになるのである。

だが、45年の8月、太平洋戦争が終わると、ホー・チ・ミン率いるヴェトミン(Việt Minh:ヴェトナム独立同盟)が立ち上がり、ハノイで、ヴェトナム民主共和国臨時政府が樹立される。

ヴェトミンは、41年に、インドシナ共産党の指導のもとに、独立を目的に組織された民族統一戦線である。

翌46年1月、ハノイ政府は、全国で総選挙を実施。3月、国会が開かれ、ホー・チ・ミンを、大統領兼首相に選出し、独立国家としての歩みを開始した。


しかし、植民地支配の再確立を狙うフランスは、3カ月後の6月、かつて直轄植民地であった南ヴェトナムに、コーチシナ自治共和国の独立を宣言したのである。

"北から南までヴェトナムは一つ"と主張するヴェトナム民主共和国に対して、フランスは武力行使に出た。

対立は激しさを増した。

そして、年末の12月、ホー・チ・ミンは、フランスへの全面抗戦をヴェトナム人民に呼びかけ、遂に、第一次インドシナ戦争(第一次ヴェトナム戦争)が始まったのである。

この戦争には、仏領インドシナを構成していたラオス、カンボジアも巻き込まれ、8年にわたって、戦いが続くことになる。

1949年(昭和24年)6月、フランスは国家としての内実のともわないコーチシナ共和国に変わって、前ヴェトナム皇帝バオ・ダイ(Bảo Đại)を擁立、南部にヴェトナム国を建国させる。


戦いはフランス軍が優勢であったが、ヴェトナム軍のゲリラ戦が功を奏し、やがて戦況は変わっていった。また、世界情勢も、大きく動いていた。

49年の中国大陸における共産軍の勝利、中・ソによるヴェトナム民主共和国の承認という事態のなかで、アメリカは、共産勢力の伸長を警戒し始めた。

そして、バオ・ダイ政権を承認し、フランス軍への軍事経済的援助に踏み切ったのである。

だが、ヴェトナム軍も、必死だった。ハノイの北西に位置し、周囲を高い山に囲まれた盆地である、ディエンビエンフー(Điện Biên Phủ)での戦いが、攻防戦の最後を決した。


ヴェトミン軍は、1954年(昭和29年)の5月、ここでフランス軍を撃破する。そして、スイスのジュネーヴで休戦会議が開かれたのである。

これには、紛争当時国のフランス、ヴェトナム民主共和国、ヴェトナム国(バオ・ダイ政権)、ラオス、カンボジアのほか、次の4カ国が参加した。

すなわち、フランスを援助してきたアメリカ、第二次世界大戦直後に連合国軍としてヴェトナム南部を管理したイギリス、ヴェトナム民主共和国を支援した中国、ソ連である。

会議の結果、7月21日にジュネーヴ協定が結ばれ、暫定的に北緯17度線を軍事境界線として南北に分け、その両側に最大限5㌔にわたって非武装地帯を設け、両軍は撤収することが定められた。

また、ヴェトナムは、2年後の1956年(昭和31年)に国際監視のもとで統一選挙を行うことが決まった。

さらに、関係諸国は、ヴェトナム、カンボジア、ラオスの独立と主権を尊重し、仏領インドシナという植民地の歴史に終止符が打たれたのである。

このジュネーヴ会議では、アメリカは統一選挙を明記した最終宣言への参加を拒否した。

また、バオ・ダイ政権は休戦協定自体にも反対し、やはり最終宣言の調印を拒んだのである。

もし統一選挙を行えば、ホー・チ・ミンが圧倒的勝利を収めることが、明らかであったからだ。

その後、南部のヴェトナム国では、バオ・ダイのもとで首相だったゴ・ジン・ジェム(Ngô Ðình Diệm)が、権力の独占に成功する。


1955年(昭和30年)10月、国家の元首を決める国民投票でバオ・ダイが破れると、政体はヴェトナム共和国(南ヴェトナム)に改められ、ゴ・ジン・ジェムが大統領に就任した。

これによって、ヴェトナムの南北分断が、固定化されていったのである。

休戦協定後、ヴェトナムから撤兵したフランスにかわって、アメリカがヴェトナム国の支援にあたってきたが、アイゼンハワー大統領は、このゴ・ジン・ジェム政権を支持し、引き続き、軍事支援を約束した。


このアメリカの対応は、いわゆる「ドミノ理論」の思想からである。

ある国が共産化すれば、ドミノ倒しのように隣国も次いで共産化する。さらに広がって、やがて全体が共産化していくという考え方である。

ソ連、中国、そして北ヴェトナムと広がった共産主義の流れを、ヴェトナムでくい止めようとしたのである。

しかし、アメリカが支援したゴ・ジン・ジェムは、独裁者と化していった。

露骨な縁故による人事で一族支配の体制を固め、自らの政権に反対する者は、ことごとく共産主義者とみなし、徹底的に弾圧した。

ヴェトミンへの苛烈な弾圧はむろんのこと、共産主義者と疑われた一般大衆も犠牲になった。

投獄されたり、拷問を受け、死に至る者が続出した。さらに、自分が信ずるカトリックの信者を優遇し、仏教僧侶・仏教徒は徹底して迫害した。

また、1956年(昭和31年)に実施することになっていた、南北統一のための選挙も無視したのである。

裏切られた北ヴェトナムは自力の解放をめざした。

そして、60年の12月に、ヴェトナム労働党(51年、インドシナ共産党から改称)の南部中央局の指導のもと、南ヴェトナム解放民族戦線が結成される。

これは、南ヴェトナムの反米、反ゴ・ジン・ジェム勢力が結集した統一戦線であり、農民、労働者をはじめ、青年、婦人、学生、作家・芸術家、仏教徒など、広範な大衆団体が加わっていた。

南ヴェトナム解放民族戦線は、ゴ・ジン・ジェム政権やアメリカの側からは、ソ連や中国の手先だと非難され、「ヴェトコン」(ヴェトナムの共産主義者の意)と呼ばれた。

だが、実際には、共産主義者だけではなく、広く民衆の支持を得ていたのである。


解放民族戦線は、ゲリラ戦を展開していった。

ゲリラ戦には、敵から奪った銃などの武器をはじめ、排水管から組み立てた手製のショットガンや弓、槍、竹槍など、あらゆる武器が使われた。

ゲリラは神出鬼没であり、戦いはしたたかであった。それが、南ヴェトナム政府軍を疲弊させていった。

また、テロ攻撃も行われ、政府軍支援のために、アメリカから派遣された軍事顧問が死傷する事件などが頻発した。

これに対して、アメリカは軍事顧問の増員を図り、対ゲリラ訓練のための特殊部隊(グリーンベレー)を送ったのである。

だが、解放勢力の勢いは止められなかった。加えて、ゴ・ジン・ジェム大統領の圧政はとどまるところを知らず、それを支援するアメリカへの反発も高まっていった。

1963年(昭和38年)6月には、一人の老僧(Thích Quảng Đức:ティック・クアン・ドック)が仏教徒弾圧に抗議し、サイゴン(Sài Gòn:現ホーチミン市)の中心街で焼身自殺するという、衝撃的な事件が起きている。

それでも、圧政は激化するばかりであった。しかし、11月、密かにアメリカが関与したといわれる、軍部によるクーデターが発生し、ゴ・ジン・ジェムは捕らえられて、殺されてしまう。

クーデター以後、南ヴェトナムの政権は、ますます不安定なものとなり、人々の苦悩、不安は、さらに増していく一方であった。

1964年(昭和39年)8月 ー 。

アメリカは、北ヴェトナムのトンキン(Đông Kinh:バグボ Bắc Bộ)湾沖で、米駆逐艦が北ヴェトナムの魚雷艇に2度にわたって攻撃を受けたと発表した。

いわゆる「トンキン湾事件」である。この事件については、2度目の攻撃はなかったとの証言もあり、今なお不明な点も多いが、ともあれ、これを契機にアメリカの報復攻撃が始まるのである。


翌65年2月7日、米軍の本格的な北ヴェトナムへの継続的な爆撃が始まった。「ローリング・サンダー作戦」と呼ばれる「北爆」である。

こうして始まった攻撃で、北ヴェトナムに落とし続けた爆弾は、第二次世界大戦で仕様された爆弾の総量を上回ったといわれる。

同年3月には、アメリカは海兵隊をヴェトナムに投入し、以後、米兵の派遣は増大し続けていく。

そして、南ヴェトナム政府軍を米軍が支援するという段階をはるかに超え、アメリカが完全に戦いの主役となっていった。

ヴェトナム戦争の「アメリカ化」である。


アメリカの「北爆」に対する、北ヴェトナム・南ヴェトナム解放民族戦線の「ゲリラ戦」ー  というこの戦争は、長期化の一途をたどっていった。

66年になると、ヴェトナム戦争は、まさに"泥沼"の深みに陥っていた。

65年末には約18万人であったヴェトナム派遣の米軍は、66年の10月末には34万5000人に上った。

これが、最高時(69年)には、54万人を超えるまでに膨れ上がるのである。

また、アメリカの要請により、自由主義陣営から、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの軍隊が参戦していたが、66年には、フィリピン、タイの軍隊も参加し、米軍とともに戦うようになった。


66年の10月24日、25日の両日は、これらの自由主義陣営のヴェトナム戦争参戦国が一堂に会し、フィリピンのマニラで首脳会議を開催した。

この会議は「平和会議」と称されたが、和平に向かう新しい局面は開かれず、参戦国間の結束を固め合う場となった。

北ヴェトナム側も、ソ連、中国の支援を受け、まさにヴェトナムは、冷戦状態にある東西両陣営が激突する、熱戦場となったのである。

ヴェトナム戦争はますますエスカレートしていった。

1967年(昭和42年)になると、北爆もさらに激しくなり、8月には、アメリカのジョンソン大統領は、南ヴェトナム駐留米軍を、最大限52万5000人とする増強計画を明らかにしている。


ヴェトナム戦争の戦況が大きく変化したのは、68年1月30日、解放勢力が展開した「テト攻勢」からであった。

「テト」とは、ヴェトナムの旧正月のことである。この戦いで、北ヴェトナム側は勢いにのった。

旧正月を迎える前、北ヴェトナムの指導者ホー・チ・ミンは、全国民に向かって恒例の新年のメッセージとして、詩を贈った。

"今年の春は過ぎ行きし春より どんなにか素晴らしいものとなるだろう 疾風怒濤の嵐の勝利の嬉しい知らせを我が祖国は待ち望んでいる 南も北も競ってアメリカの侵略主義者と戦おう 突撃せよ 完璧な勝利を私たちのものとしよう"


この詩は、解放をめざすヴェトナムの人々の魂を揺さぶった。民衆とともに生きる指導者の詩は、「勇気」を爆発させる号砲となったのである。

解放戦線軍は、首都サイゴンをはじめ、約40の都市を攻撃した。

サイゴンでは、31日、アメリカ大使館、大統領官邸、南ヴェトナム政府軍の統合参謀本部、サイゴン空港、サイゴン国営放送局などが攻撃の的となった。

アメリカは、わすが20人ほどの解放戦線の兵士の奇襲攻撃によって、その一部が6時間にわたって占拠された。これが世界に伝えられた「テト攻勢」である。

また、解放戦線軍は、南ヴェトナム政府軍兵士への説得活動も行っていた。メガホンで、人民の幸福と祖国の解放のために、ともに戦おうと呼びかけたのである。

最初、返って来るのは、たいてい一斉射撃であった。しかし、「ヴェトナム人同士が、なぜ殺し合わなければならないのだ」と、粘り強く訴え続けるなかで、政府軍から解放戦線軍に加わる兵士が増えていったのである。

「テト攻勢」によって、威信を砕かれ、焦るアメリカ軍は、町を、村を無差別的に爆撃していった。

そして、1968年(昭和43年)の3月には、南ヴェトナム沿岸のソンミ(Sơn Mỹ)村で、アメリカ軍が、女性、老人、子どもを含む100人余り(500人以上とする説もある)の、無抵抗な村民を虐殺するという事件も起こった。


1年8カ月後、新聞報道によって発覚する「ソンミ虐殺事件」である。

また、解放戦線軍が立てこもる密林の木を枯らすために、毒性の高い、枯れ葉剤の散布も激しくなった。

これによって、数多くの障がい児が生まれただけでなく、生態系にも大きな異常が生じたのである。



ヴェトナム戦争の模様は、テレビ放送をはじめとするマスメディアを通じて、世界に伝えられた。

その酷さに、こんな悲惨な戦争をいつまで続けるのかという非難が、アメリカ国内にも、また世界にも高まっていった。

日本でも、「ヴェ平連」(ヴェトナムに平和を!市民連合の略称)など、ヴェトナム戦争反対を訴える市民団体の運動が活発化した。

さらに、アメリカでは、戦争による莫大な出費も問題化し、ジョンソン政権も、次第に、北ヴェトナムとの話し合いを模索せざるをえなくなった。

1968年(昭和43年)1月の「テト攻勢」開始から2カ月後、ジョンソン大統領は、北爆の部分的停止と和平交渉の開始を提案した。

そして5月、パリにアメリカと北ヴェトナムの代表が集って、ヴェトナム和平交渉が始まった。

交渉は難航したが、この年の秋には、ジョンソンは北爆停止を発表。

翌69年の1月には、アメリカ、北ヴェトナムの両国のほか、南ヴェトナムと、南ヴェトナム解放民族戦線を加え、第1回の拡大和平会議が開かれるに至った。

この1月、米大統領はジョンソンからニクソンに代わり、ニクソンは6月、アメリカ軍の一部撤退を発表した。


これは、南ヴェトナム軍を強化し、戦争をヴェトナム人同士の戦いにする、いわゆる戦争の「アメリカ化」から「ヴェトナム化」への政策の転換であった。

撤退が進み始めていた9月2日、「ホーおじさん」の愛称で人々から親しまれ、尊敬されてきた、北ヴェトナムのホー・チ・ミン大統領が79歳で、心臓発作のため死去した。

「我が祖国は再統一されるであろう。北と南の同胞が再び、一つの屋根の下に暮らせる日が来るだろう」との遺書を残して。


1970年(昭和45年)の5月になると、米軍と南ヴェトナム政府軍は、カンボジア内の解放勢力を一掃するため、カンボジアへの侵攻を開始した。

さらに71年2月8日、南ヴェトナム大統領は、北ヴェトナムと解放戦線軍との補給路を断つため、ラオス侵攻を命令。米軍の支援のもと、作戦が展開されたのである。

72年3月、北ヴェトナムと解放戦線軍は、総力を尽くして、春季大攻勢を開始した。

一方、アメリカ軍は北爆を再開。ハイフォン、ハノイを猛攻撃するとともに、北ヴェトナムの港湾を機雷封鎖したのである。

72年7月、和平交渉が再開され、北爆は部分的に停止されるが、12月になって交渉が行き詰まると、アメリカは、過去最大といわれる北爆を行い、絨毯爆撃を開始したのだ。

新聞には、その悲惨な模様が報じられた。


当時、ニクソン政権の国家安全保障問題担当の特別補佐官キッシンジャーは、69年から、和平交渉の北ヴェトナム代表団のレ・ドゥクト(Lê Ðức Thọ)特別顧問との間で、ヴェトナム和平への秘密会談を行っていた。

まさに、彼こそ和平のキーパーソンの一人であった。

73年1月23日、キッシンジャーとレ・ドゥクトが「ヴェトナムにおける戦争の終結と平和回復に関する協定」(ヴェトナム平和協定、パリ協定)に仮調印している。


そして、27日には、南北両ヴェトナム、南ヴェトナム共和臨時革命政府(69年6月樹立)の3外相、アメリカの国務長官がこれに調印。この協定が正式に成立し、翌日、停戦となったのである。

アメリカの北爆開始から10年、フランスと戦った第一次インドシナ戦争の勃発からは実に足かけ30年  ー  戦火の絶えなかったヴェトナムに、遂に平和が訪れたのだ。

1976年(昭和51年)7月、ヴェトナムは悲願の統一を成し遂げ、ヴェトナム社会主義共和国が誕生する。

米国防総省は、この戦争で米軍の戦死者・事故死者は約6万人、戦費は約1,390億㌦と発表した。

また、ヴェトナムの死者は北ヴェトナム・解放戦線軍は約100万人、南ヴェトナム政府軍が約24万人、さらに民間人の犠牲者も約50万人に上ったといわれる。

いったい、なんのための戦争であったのか。

いかに大義名分をつけようが、いかに「正義」を装っても、戦争は、人間の魔性の心がもたらした、最大の蛮行であり、最大の愚行以外の何ものでもない。




『新・人間革命』第11巻
池田大作


参考文献:
『資料・ヴェトナム戦争』陸井三郎編
『ホー・チ・ミン 獄中記』ホー・チ・ミン著
『ニクソン回顧録』リチャード・ニクソン著
『キッシンジャー秘録』ヘンリー・A・キッシンジャー著
『平和と人生と哲学を語る』ヘンリー・A・キッシンジャー × 池田大作共著