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🇰🇷韓国&🇰🇵北朝鮮についての歴史です。
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「京城」とは、現在の韓国の首都「ソウル特別市」のこと。日本占領下で改名させられていました。
韓・朝鮮半島の歴史…それは鏡のように、日本という国の素顔を映し出します
日本が、韓・朝鮮半島の国々から受けた「文化の宝」の恩恵は、計り知れないものがある。
古くは、稲作も、青銅器も、鉄器も、この"隣人"によって伝えられた。土木・灌漑技術や漢字、医学、薬学、暦学もそうだ。
さらに、日本に"千年の都"となる京都盆地の開拓にも、渡来人が活躍している。
「洛中洛外図」(京都)
狩野永徳
こうした絶大なる恩恵のなかの「大恩」こそ、仏教の伝来であった。
仏教が、インドから西域を経て中国、朝鮮に入り、6世紀半ばまでに、東漸の終着駅ともいうべき日本に伝えられた。
韓・朝鮮半島では、既に4世紀には、仏教が入っており、日本への渡来人のなかにも、仏教徒は、かなりいたものと思われる。
最初は、これらの人々を通じて、次第に仏教が知られていったのであろう。
そして、いわゆる「仏教公伝」となるのである。
聖徳太子により取り入れられた仏教
『妙法蓮華経』(写本)
朝鮮の地は、まさに文化の先進地であった。
ここから、釈尊の仏法が日本に伝えられ、今日、仏法西還の時代を迎えたのである。
古来、韓・朝鮮半島は、『日本書紀』にも「眼炎(またた)く金・銀・彩色、多に其の国に在り」と謳われた、日本人の憧れの地であった。
日本最古の正史
『日本書紀』(写本)
ところが、一方で、同じ『日本書紀』には、朝鮮を見下し、蔑視する記述も現れている。
そこには、ようやく国家の体裁を整えた、新興の島国のナショナリズム(国家主義)ともいうべき競争心が働いていたのであろう。
だが、それは、恩恵を受けた国への、嫉妬と劣等感の裏返しでもある。
他者を蔑み、貶めることによって、自分を偉く見せようとするのが、心に劣等感を抱く人間の常であるからだ。
時移り、16世紀末、日本は、韓・朝鮮半島に、侵略の駒を進める。
豊臣秀吉による朝鮮侵攻である。
豊臣秀吉
【1534-1598】
1592年(文禄元年)、豊臣秀吉は朝鮮に大軍を送り、進撃を開始した。
明(中国)を攻めるため、朝鮮に"道案内"を求めるという奇妙な理由であった。
そして、2回に渡って、延べ約30万人の軍隊が韓・朝鮮半島を蹂躙した。
これが文禄・慶長の役である。
「佐藤清正軍配之圖」
歌川国綱
当初、豊臣軍は、奇襲攻撃によって、国土の大半を手中に収めるかに見えた。
朝鮮の国王も都を捨て、北方に避難した。
「最も奸悪狡猾」「諸道に散開して狂暴の限りを尽くした」(柳成竜『微毖録』)と糾弾された、暴虐非道な侵略であった。
しかし、救国の英雄・李舜臣(イ・スンシン)将軍の奮戦と、各地で勇敢に立ち上がった民衆、即ち「義兵」の戦いによって、豊臣軍は追い詰められていった。
1598年(慶長3年)、遂に、侵略は失敗に終わるのである。
だが、その間、民衆が多数殺され、日本に連れ去られた人も、5、6万人に上ったといわれる。
また、多くの文化財が消失し、木版や活版刷りの、貴重な朝鮮本などが略奪されたのである。
さらに19世紀の後半、近代化へ踏み出した日本は、「富国強兵」のスローガンを掲げ、"脱亜入欧"を叫び、アジアへの新たな侵略を開始していった。
風刺画「列強クラブの仲間入り」
🇫🇷ジョルジュ・ビゴー
日本が国力を付け、欧米列強の圧力によって失ったものを、今度はアジアから補うというのが、その基本にある考えであった。
そして、この国策の、最大の惨禍を被ることになるのが朝鮮であった。
日本は、1875年(明治8年)、江華島(カンファド)事件をきっかけに、朝鮮に開国を要求し、翌年、日朝修好条規を結んだのである。
これは、朝鮮を自主国と規定し、中国の宗主権を否定する一方、日本人の治外法権や半島沿岸の測量の自由をうたう、日本に都合のいい条約であった。
韓・朝鮮半島は、大陸進出を目指す日本が、何としても獲得したい領土であった。
やがて、日清・日露の戦争に突入していくが、そのころから、日本国内では、次第に「日鮮同祖論」が喧伝されるようになる。
それは、日朝両民族は、祖先を同じくし、いわば兄弟の関係にあり、本来、一体になるべきであるとの主張であった。
だが、兄弟といっても、日本を「兄」とする上下の関係であり、日本が朝鮮を保護すべきだとしているのである。
これによって、日本の侵略と支配を、正当化していったのである。
しかし、文化の恩恵という歴史的事実を見ても、もし、あえて兄弟の関係に置き換えるならば、「兄」は朝鮮といわねばなるまい。
にもかかわらず、日本は、大恩あるこの国の支配に踏み切っていったのだ。
日清戦争は日本と清(中国)との戦争であるが、その舞台は、韓・朝鮮半島であった。
「朝鮮國牙山 大日本陸軍大勝利之圖」
楊洲周延
日露戦争もまた、半島における利権の争いが引き金となっている。
なお、日清戦争後、朝鮮の国号は「大韓帝国」(韓国)に改められた。
日露戦争では、日本は開戦とともに、中立の立場を宣言していた韓国と日韓議定書を結んで、対日協力を取り付ける。
「勇列ナル我軍鴨緑江河畔ニ
露國コサック騎兵ヲ撃退之圖」
渡辺延一
日本の狙いは、韓国を政治的、軍事的に保護して実権を獲得し、経済的な利権を得て、大陸進出の拠点にすることにあった。
1904年(明治37年)8月、日露戦争のさなかに、第一次日韓協約を結んだ。
次いで、翌年9月、戦争終結後の日露講和条約では、日本は韓国の指導権を獲得した。
さらに、この年11月に第二次日韓協約を結び、日本は韓国の外交権を完全に奪うと、韓国統監府を設け、初代統監に伊藤博文を任命した。
伊藤博文
【1841-1909】
日本側は、この条約の交渉にあたって、首都圏に軍を配置して圧力をかけた。
さらに、韓国の閣僚と個別に談判するなどして、強引に賛成を取り付け、調印させるという、強圧的な対応に終始したことが明らかになっている。
当然、各地で激しい抗日運動が起こった。
しかし、日本は、1907年(同40年)7月の第三次日韓協約で、韓国の内政全般を掌握したのである。
1910年(同43年)の8月、遂に「韓国併合条約」の調印となった。
「保護」から「併合」へ ー それは、日本による韓国の、徹底した支配の確立であった。
「併合」といえば、聞こえはいいが、その意味するところは、韓国を「廃滅」させ、日本の植民地にすることにあった。
「韓国」の国号は廃され、日本の一地域としての「朝鮮」に変えられた。
そして、朝鮮総督府が設置された。
ここに、足かけ36年の、日本による暗黒の朝鮮支配が始まったのである。
しかし、この韓国併合が発表された時、多くの日本人は、それを当然のように受け入れた。
マスコミも、宗教界も、同様であった。
以後、韓・朝鮮半島は、日本の大陸侵略の基地として、過酷な搾取を強いられていくのである。
さらに、日中戦争が激化していくと、「内鮮一体」のスローガンのもと、韓民族の「皇民化」が進められていった。
学校では、皇民化教育が推進され、皇国臣民の誓詞暗唱、宮城遥拝などが強要され、日本語を学ぶように強制された。
また、「信教の自由」も否定されていった。京城を睥睨するかのように、南山に建てられた朝鮮神宮をはじめ、各地に神社が設置された。
そして、神社参拝や皇大神宮の神札の礼拝を強要したのである。
悪法・治安維持法は、朝鮮にも適用され、民族独立運動は、全て「国体変革」を目指すものとして、内地以上に、過酷な弾圧が猛威をふるった。
それは、民族文化を守ろうと、"朝鮮語辞典"を編纂していた学者たちにさえ及んだのである。
日本は、韓民族の文化や伝統、精神性を、徹底して否定していった。
そして、朝鮮の人々の姓名をも奪い、日本名に変えさせたのである。
いわゆる「創氏改名」である。
日本が韓・朝鮮半島を支配した歴史は、あまりにも暗く、長い夜であった。
だが、不屈の人々は、"魂の虐殺"に等しい、日本の蛮行に耐えに耐えた。
その間、幾千万の決死の勇者たちが、独立の炎を灯し続けた。
光なき痛哭の大地に、自由と希望の夜明けが到来することを絶対に信じて。
そして、その日は、遂に訪れた。
1945年(昭和20年)の8月15日 ー 。
日本の敗戦が決まり、韓・朝鮮半島の民衆に、解放の光が降り注いだ。
全土に「万歳」の声が轟いた。
この日は、日本の軍国主義の闇に決別した、"光復の日"となったのである。
しかし、悲劇は、まだ続いた。
戦争が終わると、日本に代わって、南と北から、それぞれアメリカ軍とソ連軍が進駐し、北緯38度線を境に、南北で別個の占領政策が進められた。
やがて、米ソの"冷戦"が表面化し、南北統一を求める民衆の願いとは逆に、民族の分断は固定されていった。
1948年の5月、国連の監視下に、独立政府をつくるための総選挙が南だけで行われた。
そして、初代大統領には、李承晩(イ・スンマン)が就任し、8月15日、大韓民国が誕生する。
一方、北も、同年9月9日、金日成(キム・イルソン)を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立する。
韓・朝鮮半島は、2つの国家に分断されてしまったのである。
それから2年後の、1950年6月25日、同じ民族が争う"朝鮮戦争"が勃発した。
「朝鮮の虐殺」
🇪🇸パブロ・ピカソ
戦後の東西両陣営の"冷戦"は、この韓・朝鮮半島において、同族同士が血で血を洗う、最も凄惨な激戦をもたらしたのである。
日本の支配から解放されても、祖国の平和の春は、いまだ遠かった。
完
『新・人間革命』第8巻
池田大作
림진강(イムジン河)
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