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今日のお勉強虫めがねは、僕の苦手な(笑い泣き

🇰🇷韓国&🇰🇵北朝鮮についての歴史です。


まずは坂本龍一入魂の一曲、YMO「京城音楽/SOEUL MUSIC」(1980)を、Chick Normanさんのリミックスキラキラ下矢印


うーん「京城」とは、現在の韓国の首都「ソウル特別市」のこと。日本占領下で改名させられていました。


韓・朝鮮半島の歴史…それは鏡のように、日本という国の素顔を映し出します下矢印




日本が、韓・朝鮮半島の国々から受けた「文化の宝」の恩恵は、計り知れないものがある。


古くは、稲作も、青銅器も、鉄器も、この"隣人"によって伝えられた。土木・灌漑技術や漢字、医学、薬学、暦学もそうだ。


さらに、日本に"千年の都"となる京都盆地の開拓にも、渡来人が活躍している。


「洛中洛外図」(京都)

狩野永徳


こうした絶大なる恩恵のなかの「大恩」こそ、仏教の伝来であった。


仏教が、インドから西域を経て中国、朝鮮に入り、6世紀半ばまでに、東漸の終着駅ともいうべき日本に伝えられた。


韓・朝鮮半島では、既に4世紀には、仏教が入っており、日本への渡来人のなかにも、仏教徒は、かなりいたものと思われる。


最初は、これらの人々を通じて、次第に仏教が知られていったのであろう。


そして、いわゆる「仏教公伝」となるのである。


聖徳太子により取り入れられた仏教

『妙法蓮華経』(写本)


朝鮮の地は、まさに文化の先進地であった。


ここから、釈尊の仏法が日本に伝えられ、今日、仏法西還の時代を迎えたのである。


古来、韓・朝鮮半島は、『日本書紀』にも「眼炎(またた)く金・銀・彩色、多に其の国に在り」と謳われた、日本人の憧れの地であった。


日本最古の正史

『日本書紀』(写本)


ところが、一方で、同じ『日本書紀』には、朝鮮を見下し、蔑視する記述も現れている。


そこには、ようやく国家の体裁を整えた、新興の島国のナショナリズム(国家主義)ともいうべき競争心が働いていたのであろう。


だが、それは、恩恵を受けた国への、嫉妬と劣等感の裏返しでもある。


他者を蔑み、貶めることによって、自分を偉く見せようとするのが、心に劣等感を抱く人間の常であるからだ。


時移り、16世紀末、日本は、韓・朝鮮半島に、侵略の駒を進める。


豊臣秀吉による朝鮮侵攻である。


豊臣秀吉

【1534-1598】


1592年(文禄元年)、豊臣秀吉は朝鮮に大軍を送り、進撃を開始した。


明(中国)を攻めるため、朝鮮に"道案内"を求めるという奇妙な理由であった。


そして、2回に渡って、延べ約30万人の軍隊が韓・朝鮮半島を蹂躙した。


これが文禄・慶長の役である。


「佐藤清正軍配之圖」

歌川国綱


当初、豊臣軍は、奇襲攻撃によって、国土の大半を手中に収めるかに見えた。


朝鮮の国王も都を捨て、北方に避難した。


「最も奸悪狡猾」「諸道に散開して狂暴の限りを尽くした」(柳成竜『微毖録』)と糾弾された、暴虐非道な侵略であった。


しかし、救国の英雄・李舜臣(イ・スンシン)将軍の奮戦と、各地で勇敢に立ち上がった民衆、即ち「義兵」の戦いによって、豊臣軍は追い詰められていった。


1598年(慶長3年)、遂に、侵略は失敗に終わるのである。



だが、その間、民衆が多数殺され、日本に連れ去られた人も、5、6万人に上ったといわれる。


また、多くの文化財が消失し、木版や活版刷りの、貴重な朝鮮本などが略奪されたのである。


さらに19世紀の後半、近代化へ踏み出した日本は、「富国強兵」のスローガンを掲げ、"脱亜入欧"を叫び、アジアへの新たな侵略を開始していった。


風刺画「列強クラブの仲間入り」

🇫🇷ジョルジュ・ビゴー


日本が国力を付け、欧米列強の圧力によって失ったものを、今度はアジアから補うというのが、その基本にある考えであった。


そして、この国策の、最大の惨禍を被ることになるのが朝鮮であった。


日本は、1875年(明治8年)、江華島(カンファド)事件をきっかけに、朝鮮に開国を要求し、翌年、日朝修好条規を結んだのである。


これは、朝鮮を自主国と規定し、中国の宗主権を否定する一方、日本人の治外法権や半島沿岸の測量の自由をうたう、日本に都合のいい条約であった。


韓・朝鮮半島は、大陸進出を目指す日本が、何としても獲得したい領土であった。


やがて、日清・日露の戦争に突入していくが、そのころから、日本国内では、次第に「日鮮同祖論」が喧伝されるようになる。


それは、日朝両民族は、祖先を同じくし、いわば兄弟の関係にあり、本来、一体になるべきであるとの主張であった。


だが、兄弟といっても、日本を「兄」とする上下の関係であり、日本が朝鮮を保護すべきだとしているのである。


これによって、日本の侵略と支配を、正当化していったのである。


しかし、文化の恩恵という歴史的事実を見ても、もし、あえて兄弟の関係に置き換えるならば、「兄」は朝鮮といわねばなるまい。


にもかかわらず、日本は、大恩あるこの国の支配に踏み切っていったのだ。


日清戦争は日本と清(中国)との戦争であるが、その舞台は、韓・朝鮮半島であった。


「朝鮮國牙山 大日本陸軍大勝利之圖」

楊洲周延


日露戦争もまた、半島における利権の争いが引き金となっている。


なお、日清戦争後、朝鮮の国号は「大韓帝国」(韓国)に改められた。


日露戦争では、日本は開戦とともに、中立の立場を宣言していた韓国と日韓議定書を結んで、対日協力を取り付ける。


「勇列ナル我軍鴨緑江河畔ニ

露國コサック騎兵ヲ撃退之圖」

渡辺延一


日本の狙いは、韓国を政治的、軍事的に保護して実権を獲得し、経済的な利権を得て、大陸進出の拠点にすることにあった。


1904年(明治37年)8月、日露戦争のさなかに、第一次日韓協約を結んだ。


次いで、翌年9月、戦争終結後の日露講和条約では、日本は韓国の指導権を獲得した。


さらに、この年11月に第二次日韓協約を結び、日本は韓国の外交権を完全に奪うと、韓国統監府を設け、初代統監に伊藤博文を任命した。


伊藤博文

【1841-1909】

(いとう・ひろぶみ)…山口県生まれ、松下村塾出身の革命家・政治家。明治時代の初代、5代、7代、10代の内閣総理大臣。帝政ロシア統治下の北満州ハルビン駅で暗殺された。

日本側は、この条約の交渉にあたって、首都圏に軍を配置して圧力をかけた。


さらに、韓国の閣僚と個別に談判するなどして、強引に賛成を取り付け、調印させるという、強圧的な対応に終始したことが明らかになっている。


当然、各地で激しい抗日運動が起こった。


しかし、日本は、1907年(同40年)7月の第三次日韓協約で、韓国の内政全般を掌握したのである。


1910年(同43年)の8月、遂に「韓国併合条約」の調印となった。



「保護」から「併合」へ  ー   それは、日本による韓国の、徹底した支配の確立であった。


「併合」といえば、聞こえはいいが、その意味するところは、韓国を「廃滅」させ、日本の植民地にすることにあった。


「韓国」の国号は廃され、日本の一地域としての「朝鮮」に変えられた。


そして、朝鮮総督府が設置された。


ここに、足かけ36年の、日本による暗黒の朝鮮支配が始まったのである。


しかし、この韓国併合が発表された時、多くの日本人は、それを当然のように受け入れた。


マスコミも、宗教界も、同様であった。



以後、韓・朝鮮半島は、日本の大陸侵略の基地として、過酷な搾取を強いられていくのである。


さらに、日中戦争が激化していくと、「内鮮一体」のスローガンのもと、韓民族の「皇民化」が進められていった。


学校では、皇民化教育が推進され、皇国臣民の誓詞暗唱、宮城遥拝などが強要され、日本語を学ぶように強制された。



また、「信教の自由」も否定されていった。京城を睥睨するかのように、南山に建てられた朝鮮神宮をはじめ、各地に神社が設置された。



そして、神社参拝や皇大神宮の神札の礼拝を強要したのである。


悪法・治安維持法は、朝鮮にも適用され、民族独立運動は、全て「国体変革」を目指すものとして、内地以上に、過酷な弾圧が猛威をふるった。


それは、民族文化を守ろうと、"朝鮮語辞典"を編纂していた学者たちにさえ及んだのである。


日本は、韓民族の文化や伝統、精神性を、徹底して否定していった。


そして、朝鮮の人々の姓名をも奪い、日本名に変えさせたのである。


いわゆる「創氏改名」である。



日本が韓・朝鮮半島を支配した歴史は、あまりにも暗く、長い夜であった。


だが、不屈の人々は、"魂の虐殺"に等しい、日本の蛮行に耐えに耐えた。


その間、幾千万の決死の勇者たちが、独立の炎を灯し続けた。


光なき痛哭の大地に、自由と希望の夜明けが到来することを絶対に信じて。


そして、その日は、遂に訪れた。


1945年(昭和20年)の8月15日  ー  。



日本の敗戦が決まり、韓・朝鮮半島の民衆に、解放の光が降り注いだ。


全土に「万歳」の声が轟いた。


この日は、日本の軍国主義の闇に決別した、"光復の日"となったのである。


しかし、悲劇は、まだ続いた。


戦争が終わると、日本に代わって、南と北から、それぞれアメリカ軍とソ連軍が進駐し、北緯38度線を境に、南北で別個の占領政策が進められた。



やがて、米ソの"冷戦"が表面化し、南北統一を求める民衆の願いとは逆に、民族の分断は固定されていった。


1948年の5月、国連の監視下に、独立政府をつくるための総選挙が南だけで行われた。


そして、初代大統領には、李承晩(イ・スンマン)が就任し、8月15日、大韓民国が誕生する。


一方、北も、同年9月9日、金日成(キム・イルソン)を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立する。


韓・朝鮮半島は、2つの国家に分断されてしまったのである。


それから2年後の、1950年6月25日、同じ民族が争う"朝鮮戦争"が勃発した。


「朝鮮の虐殺」

🇪🇸パブロ・ピカソ


戦後の東西両陣営の"冷戦"は、この韓・朝鮮半島において、同族同士が血で血を洗う、最も凄惨な激戦をもたらしたのである。


日本の支配から解放されても、祖国の平和の春は、いまだ遠かった。





『新・人間革命』第8巻

池田大作





림진강(イムジン河)




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