アメリカ占領軍は、当面の占領政策を実施してみて、日本民族からの抵抗が、全く起きないことを不審に思ったことでしょう。


あの太平洋上の島々での凄惨な玉砕、フィリピンや沖縄での徹底的な抗戦、神風特攻隊の想像を絶した死闘  ー


神風特攻隊


このような執拗で強力なエネルギーは、日本本土では、いったいどこへ行ってしまったのか。


彼らの常識的予想では、占領政策は抜き難い抵抗に遭うものと覚悟していたはずです。


ところが、何の抵抗もない。民衆は打ち萎れて貧しく、ただ従順で、一切に全く無関心のように見えました。


アメリカ軍は、一種の自信を持つようになり、そして大胆になっていきます。


連合国軍最高司令官

🇺🇸 ダグラス・マッカーサー


1945年の10月から12月までの僅か2カ月間に、占領目的の基本政策を、矢継ぎ早に指令していきました。


これほどの短期間に、一国の政治が大変革されたのは、世界でも稀なことです。


ただ残念なことは、自国の民衆の自発的な力で遂行した政治革命ではなく、ことごとくが、他国の指導者によってなされた革命だということでした。


GHQ本部(第一生命館)


ともあれ、その最中の12月15日、GHQから軍国日本の核心を突く指令が下されました。


「神道を国家より分離する」と。


指令が発表されるや、神官や神道の信奉者たちは、大きなショックを受けました。


一方、この喜ぶべき快事に、一般の民衆は、ほとんど無関心でした。


日本の国が、敗戦の道を突き進んでいった足跡を一つ一つ辿ってみると、神道が、明治初年の王政復古に際して、国家建設の礎石として利用されたことが、はっきりと確認できます。



神社



明治政権は、天皇に主権を持たせる必要上、国民に天皇を信ぜしめるため「神」を持ち出した。


天皇の神格化を最良の方法と考えたのである。


また、都合のよいことに、神道の唯一の教義は、古事記、日本書紀などで、古来から国民の間に流布していた。


「斎庭(ゆにわ)の稲穂」

今野可啓

神宮農業館所蔵


ー  豊葦原瑞穂ノ國男ハ、我子孫ノ君タルベキ地ナリ。汝皇孫征イテ治メヨ。皇祚の栄エマサンコト、天壌ト倶ニ窮リ無カルベシ。


これが、天照大神の神勅である。


天皇による国家統一の原理として、これ以上の武器はない。天皇は、生まれながらにして、神の子だというのである。


この天照大神の神勅の中には、もともと日本民族の撥溂たる息吹きが込められていた。


しかし、これが天皇を絶対とする、国家統治の原理として使われた時に、既に挫折への第一歩が始まったといってよい。


明治憲法は、この神勅から「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」という第一条を条文化した。


大日本帝国憲法

(1889年年公布、1890年施行)

国立公文書所蔵


国家統治の大権の一切を天皇の名に帰することによって、国家の安泰を計ったのである。


それには、神道と称する我が国古来の原始宗教を、まず天皇が信じ、その天皇を神の子孫として、国民が崇めることが必要であった。


こうして、天皇という一人の人格において、政治と宗教は完全に一致してしまった。


つまり神道は、天皇崇拝から、いつのまにか「天皇教」になっていたのである。


「新皇居正殿ニ於テ憲法発布式之図」(1889年)

安達吟光

🇺🇸 メトロポリタン美術館所蔵


ところが一方、近代国家として列強に伍するためには、先進国の憲法にならって、明治憲法には、信仰の自由を明瞭にうたわなければならなかった。


それは第28条に「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及国民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信仰ノ自由ヲ有ス」と規定された。


この結果、徳川時代のキリスト教禁圧や、封建的な数々の宗教政策などが撤廃された。


しかるに、新国家統治の必要上から、政府は神道だけに特別な保護政策をとった。


「靖国神社大祭之図」(1895年)

真斎清興

🇺🇸 ボストン美術館所蔵


例えば、文部省に宗教局を設け、宗教一般を統括していた。だが、神社だけは、内務省の神社局の管轄下に置いた。


そして、神社にだけは国家予算によって保護を与え、官幣大社とか、国幣中社とか、県社、郷社とかの格付けをしていた。さらに公法人とし、神官・神職を官吏とした。


官中の儀式は、ことごとく神社的儀式であり、これに参列することが、一般官吏の義務であった。


このような制度から、一般民衆に対しても、程度の差こそあれ、神社参拝は国家的な強制を帯びていた。


こうして神道は、明治政権以来、次第に国教的地位を確立していった。


靖国神社


国家が、一宗教を特別待遇することは、憲法違反であることは明らかであった。


しかし、この神社国教制は、維新直後から既に実施されていた。


憲法の制定は、その後、明治22年(1889年)であったから、この間の時間的隔たりが、国教制を既得権のように思わせていた。


ところが、「神道の国教的地位」と「信教の自由」の不調和を、いつまでも不問に付しておくことはできなかった。


そのため、政府は問題が起きるたびに「神社は宗教に非ず」と、苦しい答弁を議会で繰り返していた。


靖国神社


大正、昭和となっても、この矛盾は、しばしば鋭く追及された。


ー 「神社が宗教でないとしたら、いったいなんだ?」


ー 「神社は普通の宗教と違った性質を持っておりますので…なんと申しましょうか…まあ、宗教以上のものと考えておりますような次第です」


国会議場では、こんなおかしな答弁が、代々の政府委員からなされていた。


軍部政府の時代になると、この問題は日本国民のタブーとなった。


皇軍


少しでも疑点を抱く人文科学者たちは、反逆者として非道な弾圧を被らなければならなかった。


仏教もまた、弾圧を恐れて、神道との融和を謀ろうとした。


当時の仏教界は、明治維新の王政復古の際に行われた、排仏毀釈運動の打撃から立ち直ったものの、なんら神道を糾弾すべき勇気を持っていなかった。


「排仏毀釈」挿絵(1874年)

長谷川貞信

『開化乃入口』横河秋濤(松村文海堂)


こうした実情の中で、田中智学を中心とする国柱会の日蓮主義が、完全に神道宣揚の結果を導くこととなった。


智学の一派は、法華経の絶対性から、天皇の神格を説明しようとした。


ー  天皇が唯一絶対であることは、法華経が唯一絶対であることに通ずる、と。


彼らは神道の前に、あえなく屈服したのである。


昭和天皇


他の既成宗教界も、これと大同小異で、天照大神の下に糾合されていった。


政府は、この機に乗じて昭和14年(1939年)に宗教団体法を制定し、一切の宗教を、大日本帝国の国民的支柱である神道の下に、強制的に結合させるという暴挙に出た。


宗教界は、こぞって政府と神道の掲げる報国運動へと同調していった。


そこには、宗教には欠かすことのできない信念の片鱗すらもうかがわれなかった。


また、民衆も、それに何の疑問も差し挟まなかった。


皇軍


出陣学徒壮行会(神宮外苑競技場)


遂に、神道を中心とした政治形態は、祭政一致の古代を手本として、神がかり的な全体主義の権力を、国民の上に振るい始めた。


しかも、こうした狂信が、無謀な侵略戦争に一国を駆り立てていった時、挫折をきたすのは当然のことである。


国民は、敗戦という冷厳な現実に直面せざるをえなかったのである。





『人間革命』池田大作

より抜粋



12月21日になって、GHQは、日本民主化に関する基本的指令が、一段落したと発表しました。


「国家神道の廃止にともなって、天皇制の支柱になっていたものの最後の邪悪の根が引き出され、それが破毀されるに至った…」


日本国民にとって、未経験なことばかりが重なりました。


右に動き、左に揺れ、混迷の中で戸惑い、疲労と暗澹のうちに、昭和21年の新年を迎えたのでした。


1月1日、天皇の詔書が発表されます。



「…朕※ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神※トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ…」


朕、現御神ニ非ズ

※朕(ちん)=天子の自称

※現御神(あきつ み かみ)=現人神(あらひとかみ)、この世に人間の姿で現れた神


幣原首相が起草したといわれる詔書です。


これは「天皇人間宣言」として、今日では歴史的文献となっています。


神道を国家より分離する、マッカーサー指令の最初の具体化といえるでしょう。


こうして、天皇の神格化は、天皇自ら否定しました。


しかし、神道の否定にまで行き着くことはありませんでした。


そして、人間宣言の書に、相変わらず「朕」という代名詞が使われていました。


「朕」…

 


伊勢神宮


靖国神社

明治神宮

靖国神社