🇺🇸トルーマン大統領

「我々は、史上最大の科学的投機に20億ドルを賭け、そして勝った。我々は、いまや日本人が地上に持っている生産的企業を、迅速かつ完全に抹殺することができる。もし、彼らが我々の条件を受理しないなら、彼らの頭上には崩壊の雨が降るだろう」


広島に原爆が投下された8月6日、ラジオでトルーマンは、このように演説しました。これを黙殺した日本政府に対して、アメリカは9日、長崎にも原爆を投下。

同日未明、ソ連の宣戦布告を以って、ようやく日本政府は『ポツダム宣言』を真剣に検討へと動き出したのでした。


翌10日、日本は『ポツダム宣言』受諾の発表を行い、14日、無条件降伏の詔書が発布されました。ここで日本政府が固執したのは"国体の護持"であり、つまり"天皇・皇室の存続"でした。

それに対して連合国の回答は、「降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高指揮官に従属するものとする」と、アメリカ国務長官バーンズの名において通告してきたのでした。 

今日は、戦後76年…日本の敗戦を振り返りながら、その悲劇に至った根本の原因に迫ってみたいと思います


1945年8月15日

終戦の一切の経緯は、大多数の国民は知る由もなかった。ただ、15日の正午に、天皇による重大放送があると聞かされていた。

この放送で、いよいよ最後の決戦の激励があるものと期待していたのだ。

ところが、重々しい、陰にこもった天皇の声を耳にした時、難解な漢語の意味は取りかねたが、それでも「耐え難きを耐え」などの片言隻句を総合して、戦い敗れたことを直感したのであった。

開戦も、寝耳に水であった。終戦も、同じく突如として、国民の前に幕が降りた。しかも、両度とも天皇の名において行われたのである。


終戦のこの時、内地、外地における日本陸海軍の兵力は、総数720万に達していた。除隊者などを含めると、動員された兵力は、実に1000万を超える計算になる。

これは、当時の日本人の、男子総数の1/4にあたる。2世帯に1人強の出征兵士を送ったのである。これは、ドイツの動員比率と、ほぼ同じであった。すなわち、日本の歴史始まって以来の動員数であったわけだ。


1941年以降の太平洋戦争による死亡は、陸海軍属を合計すると、185万4千有余名であった。負傷者、行方不明は、67万8千余名である。

この他、空襲や原爆の犠牲者、また沖縄、満州などで戦火を浴びた、非戦闘員の死亡者を加えると、軍・民合わせて約300万の尊い人命が失われたことになる。

ほぼ5世帯に1人の割り合いで、国民は肉親を失ったのである。日露戦争の死亡10万とは、全く桁が違っていた。


以上が、第二次世界大戦によって失われた、我が国の人命の総決算であった。からくも生き残った国民は、これからの時代に、この戦争によってもたらされた、深刻な被害を担わなければならなかった。

その国民の中でも、戦災ならびに強制疎開にあった家310万戸、約1500万人であった。300万の人が、企業整備にかかり、職業を失った。

そしてまた、350万の学生・学徒が、勤労動員として狩り出されていった。さらに300万人の若い女性が、工場や農村に動員され、家庭を離れていた。まさしく国家総動員であった。


国民一人一人は、戦況の推移には深い関心を持っていた。しかし、真相は全く分からなかった。そこへ、いきなり「戦争は終わった。負けた」と聞かされたのである。

そのショックは深刻であった。と同時に、予想される外国軍隊の占領などの新事態に、前途の不安は大きく募るばかりであった。

15日の夕刻から、皇居前広場の砂利に額く人々が、三々五々と集まった。


この夜、阿南陸相が自決した。

16日に大西海軍中将、22日に杉山元帥夫妻、24日に田中陸軍大将などが自決した。

なお、技術士官、看護婦などにも自決者が出た。そして、終戦処理にあたり、陸海軍関係者の中で、敗戦の責任を感じ自決した数、527名という数字が残っている。

これらの軍関係者とは別に、民間の極右翼の集団自決があった。彼らは、その信念とした思想の破綻から、自らを自決に追いやったといえる。

極右翼の行動は、いずれも神道の理念に基づくものであった。彼らは、いわば惟神(かんながら)の道の信者だったのである。

軍部は、その神道の理念を使って、大東亜共栄圏の野望を達成しようとした。哀れにも、青年は、そのような軍部に利用された果てに、神道に殉じたのである。

彼らは死に先だって、日本を破滅させた指導階層と、権力者たちの責任を追求した。敗戦は国民全体の罪であると説き、一億総懺悔などと唱える指導階層に、強く反発したのである。

最高の権力者も、無力な一臣下も、同等の罪があるとは何ごとであるか、と彼らは憤激した。そして、権力者たちに対する、最も激しい抗議として、憤死の道を選んだ。


しかし、彼らの取る道は、それ以外になかったのだろうか。

確かに人間は、自らの主義主張のためには、死ぬことさえできる動物だ。人間から思想を奪ってしまえば、根無し草のような肉体が、儚く生存を続けるにすぎないからである。

思想ほど恐ろしいものはない。一片の思想が、人々を死に追いやることもある。いわば思想は、魔力を備えているのかもしれない。

しかも、さらに怖るべきことは、人々は自己の死ぬべき思想の正邪、善悪、浅深について、あまりにも無関心であり過ぎた。

今、戦争の指導理念に仕立てられた神道は、その無力を余すことなく露呈して、ついに悲惨な結果をもたらしてしまったのである。




『人間革命』池田大作
より抜粋


この後、8月30日の午後、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官ダグラス・マッカーサーが日本占領のため、厚木飛行場に降り立ちました。

無敵を誇った日本軍隊も、事ここに至っては醜態を露呈し、脆くも崩壊する以外ありませんでした。建軍の思想などは、無きに等しかったのです。

それも、天皇絶対主義(実は天皇利用主義でしたが)という封建思想を根本に置いたところに、既に最初から誤りがありました。

9月2日
降伏文書調印

9月27日
マッカーサーと天皇が会見

GHQは、10月から12月までの僅か2カ月間に、占領目的の基本政策を、矢継ぎ早に指令。

そして12月15日、「神道を国家より分離する」との指令を発しました。これで伊勢神宮も、靖国神社も、国家の保護を断たれ、私的な一宗教団体にすぎなくなりました。日本国民の大半が気づかなかったことを、GHQが先に気づいて手を打ったのでした。

GHQは、この神道の問題、すなわち惟神の道が明治以来、国家的保護のもとに、日本の政治体制の根本原理となっていた事実を突きとめたのでした。これが、今後の日本の民主化にとって、最大の障害であることを知ったのでした。

物事は、常にその本質を論じ、見極めることが大事だと思います。GHQは、よく本質を見極めていたといえるでしょう。