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日本国憲法
憲法9条というと、近年は共○党が「護憲」を訴えている印象があったりしますが、実際には、1946年に憲法9条が審議されている時に唯一反対したのが共○党です。
なんとも無節操な手のひら返しに、国民から失笑をかっていることに気づいているのか、自身で考えることなくトップの指示通りしか発言できないのか、まさに共○党体質。
そもそも、日本が戦争への坂道を転げ落ちるきっかけになった「治安維持法」は、共○主義思想拡大への警戒から生まれた法案でした。
次元は違いますが、わが町では共○党議員のセクハラ事件が発生![]()
さらに、隠蔽した共○党本部に他の共○党議員が憤慨し離脱
現在、市から共○党市議団が消滅しています。
一方、遥か大西洋に浮かぶ🇪🇸スペイン領カナリア諸島に、なんと日本の憲法9条の碑が立っています![]()
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共○党が憲法9条を選挙に勝つための道具にしているなか、平和を訴え、堅実な努力を長年に渡って積み重ねている人がいます。
以下、日本の地方新聞に掲載された記事です![]()
日本から1万2千キロ余りの異国で、広島市出身の中村寿美恵さんは、今は亡き父親から受け継いだ戦争の記憶を現地の子どもたちに伝承している。
自身は原爆投下の2日前に広島から山口県に疎開し無事だったものの、父と姉は被爆した。移住からほぼ半世紀。時空を超えて平和を願う語り部を訪ねた。
カナリア諸島のグランカナリア島南部にあるホセフィーナ高校。その講堂に16~18歳の生徒150人が集まり、彼女のスペイン語に耳を傾けた。
山口県川棚村(現下関市)に母親らと一緒に疎開していた2歳の中村さんに、原爆投下の記憶はない。
それでも「疎開していなければ、私は今ここにいないかもしれない。被爆した父と姉からは、あの時のことを幾度も聞かされてきた。『地獄という言葉でも表現できない惨状だった』と。今日はその話を伝えます」。
中村さんは6人きょうだいの末っ子として広島市で生を受けた。父は隣接する呉市の旧日本海軍の工場で働いていた。一番年長の姉は、父の身の回りの世話をするために広島市に残った。
父が原爆の閃光を見たのは、広島から列車で呉へ向かう途中だった。車両から出ると、鉄路は水あめのように曲りくねり、西の空にはきのこ雲。自宅は爆心地から5キロだった。
歩いてたどり着いた市街地には、男女の区別もつかないほど焼けただれた人々がさまよう。亡くなったわが子の手を引きながら歩く母親もいた。近くの川は無数の遺体で埋め尽くされていた。
自宅の台所で皿を洗っていた姉は「きれいな光」と窓の外を見た瞬間、顔に大やけどを負う。父も姉も生き永らえたが、後年は後遺症に苦しんだ。
1945年末までに広島で14万人の命を奪ったとされる原爆。生徒の一人は「広島の名前を知っていたけれど、実際に話を聞いて、核の恐怖を実感した」。
中村さんがグランカナリア島のラスパルマス市へ移住してきたのは72年。この島はかつて遠洋漁業の拠点として、多くの日本人が往来した。
ある日、スペイン人の高校教師、アデクセ・エルナンデス・レジェスさんから持ち掛けられた。「広島の歴史を知るあなたから、子どもたちに語ってほしい」と。
中村さんは父から「絶対に戦争は駄目だ」と言い聞かされて育った。日本を離れてから長い歳月が流れたが、あの言葉だけは今も色あせていない。
「私の話が平和のために少しでも役立てば」と快諾した。以来、カナリア諸島の高校を巡り、広島で起きた歴史を語り継いできた。
島の南東部テルデ市には、日本の憲法9条をスペイン語で刻んだ陶板の碑が立つ。
1996年に当時の市長、アウレリーノ・フランシスコ・サンティアゴさんが公園の一角を「ヒロシマ・ナガサキ広場」と名付け、そこに碑を設置する構想を提唱。議会も満場一致で賛成した。
サンティアゴさんは広場で説いた。「あくまでも9条は反戦や非核のステップ。その考えを世界の人々が共有して実践していかない限り、本当の平和は訪れません」
中村さんが学校で話した後、生徒からよく受ける質問がある。「あなたは米国を恨んでいないのですか?」。
そのたびに彼女はこう説いてきた。「私は戦争を憎んでいるけれど、米国を恨んではいません。日本も米国も犠牲者は同じ生身の人間だったのだから」。
東奥日報 2019年4月27日付













