苦悩 - それは、ベートーヴェンの多くの肖像画にも刻まれている。だが、その苦悩の雲も、彼の内面の大空を覆うことはできなかった。
地上の喧騒にも、万波と寄せ来る避難中傷にも、病気や経済苦にも、彼は微動だにすることなく、"苦悩"から"歓喜"を鍛え出していった。
シラーが『歓喜に寄す』の詩をつくったのは1785年。ベートーヴェンが15歳のころのことであった。人間の自由や人類愛の勝利を謳い上げたこの詩は、ドイツの人々に熱狂的に歓迎された。
🇩🇪フリードリヒ・フォン・シラー
(Friedrich von Schiller)
【1759-1805】
ベートーヴェンが、この詩をいつ知ったかは定かではない。しかし、終生消えることのない鮮烈な感動を覚え、早くも22歳のころには、この詩に曲をつけようとしていたことがわかっている。そして、後の"歓喜の歌"のメロディーの着想も得ている。
しかし、詩とメロディーが結びつき、この詩の合唱を終曲(フィナーレ)とした交響曲第9番が完成するまでには、さらに30余年の歳月を要したのである。
交響曲に合唱を組み込むことは、技術的にも極めて難しかったにちがいない。しかし、ベートーヴェンは、あえて艱難辛苦の道に挑み、"歓喜"の調べをつくりあげていったのだ。
「第9」- それは、ベートーヴェンの嵐の生涯を集大成した精神の凱歌であり、人間の聖なる魂の讃歌である。
その第4楽章の冒頭、過酷な運命のごとく、嵐の乱調が襲い、たて続けに、第1、第2、第3楽章の調べが現れては、打ち消されていく。これは"歓喜"の響きではないのだ、と。
一瞬、神秘な静寂があたりを包む。そして、どこからか優しいメロディーが、小川のせせらぎのように、赤子をあやす母の声のように流れてくる。"歓喜"のメロディーである。
その調べは聴く者の苦悩を癒し、心に生気を注ぎ、歓喜を呼び覚ましながら、次第に音量を増し、全管弦楽の演奏となって響く。
管弦楽の奏でる"歓喜"のメロディーは、再び嵐のような乱調で中断する。その時、断固たる強さで、男声が響き渡る。
「おお、友よ、この音ではなく!我々に好ましい、歓びに満ちた音を歌い始めしめよ」
これはシラーの原詩にはなく、ベートーヴェンが挿入した言葉である。
友よ、古い歌ではなく、新しい歌を! - それは、音楽による革命の宣言といってよい。
新しい歌声が湧き起こり、やがて、全員による合唱になる。生命力みなぎる声は、歓喜が苦悩を打ち砕くかのように、激しく、強く、"歓喜"のテーマを歌い上げる。
続いて、行進曲風の調べに乗り、先導者の「喜べ、喜べ」という歌声に励まされ、皆が一体となって、英雄のように勝利への歩みを進める。
勝利の凱旋門をめざして胸を張り進みゆく大衆の声 - まさに、それが"歓喜の歌"であった。
その快活な歌声は、いつしか人々を荘厳な聖なる空間へと運ぶ。
「抱き合え、百万の人々よ!この接吻を全世界に!」- 歓喜に包まれて、いっさいの差別は消え、万人が友愛のもとに、兄弟として結ばれる。
そして、一つに溶け合った民衆は、にぎやかな祝祭を繰り広げ、天に昇るような歓喜の渦のなかで、クライマックスを迎えるのだ。
ベートーヴェンは、このラストに、まったく庶民的な音楽を用いている。それは、「民衆こそ偉大」「民衆こそ神聖」という洞察ではなかったか。
また、それは、主役となった民衆が、重苦しい地上の束縛を断ち切り、精神の大空へ飛翔する、"民衆の境涯の革命"を象徴しているのかもしれない。
当時のウィーンは、ナポレオン戦争の反動から、反自由、反民主の空気が漂っていた。あちこちに警察の目が光り、共和主義者として知られたベートーヴェンには、当局の監視もついていたようである。
まさに、「第9」は、時代の闇を突き抜けた、自由と民主の光彩であった。
精神の英雄の凱歌であり、"人類の交響曲"であった。未来に永遠の響きを放つ、"希望の曲"であった。
無理解、無認識によるベートーヴェンへの攻撃も、後を絶たなかった。だが、彼は、黙々と働き続けた。最後の最後まで、ただ自らの使命を果たすために。
1827年の早春、彼は56才で生涯を閉じた。それは、ある書簡に記された彼の言葉そのものの生涯であったといえよう。
すなわち
「苦悩を突き抜けて歓喜へ」- 。
完
『新・人間革命』池田大作
参考文献:
⚫︎『新編ベートーヴェンの手紙』小松雄一郎編訳
⚫︎『ベートーヴェン 音楽ノート』小松雄一郎訳編
⚫︎『セイヤー ベートーヴェンの生涯』E.フォーブズ校訂、大築邦雄訳
⚫︎『ベートーヴェンの生涯』〈ロマン・ロラン全集 14〉片山敏彦訳
⚫︎『第九交響曲』R.ロラン著、蛯原徳夫・北沢方邦訳
⚫︎『ベートーヴェン第九』小松雄一郎著
⚫︎『ベートーヴェンの生涯』A.シントラア著、柿沼太郎訳
交響曲第9番 第4楽章
歓喜の歌(An die Freude)
作曲:フリードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)
作詞:フリードリヒ・フォン・シラー
(Friedrich von Schiller)
1942年
(Wilhelm Furtwängler)
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
合唱:ブルーノ・キッテル合唱団
1951年
演奏:バイロイト祝祭管弦楽団
合唱:バイロイト祝祭合唱団
1986年
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
(Herbert von Karajan)
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
合唱:ウィーン楽友協会合唱団