🇩🇪フリードヴィヒ・ヴァン・
ベートーヴェン
(Ludwig van Beethoven
Joseph Karl Stieler

文豪ロマン・ロラン
「思想もしくは力によって勝った人々を私は英雄とは呼ばない。私が英雄と呼ぶのは心によって偉大であった人々だけである」

およそ、ベートーヴェンほど、多くの苦悩と戦い、壮大な精神の勝利を収めた音楽家はいないだろう。

ベートーヴェンは、1770年、ドイツのボンに生まれた。

ベートーヴェンの生家

父親は、宮廷楽団のテノール歌手をしていたが、貧しく、ひどい飲んだくれであった。息子を"神童"に仕立てて食い物にするために、幼少期から力ずくで音楽を教えた。

ベートーヴェンは、10才で劇場のオーケストラの一員となり、早くも、生活費を稼ぐようになる。

さらに、16歳の時に、最愛の母親が亡くなると、2人の弟の教育も含め、一家の生活のいっさいを担わねばならなかった。

21歳で、彼はウィーンに出て、ハイドンに師事する。ここで、鍵盤楽器の演奏者として、また、作曲家として、脚光を浴びていくのである。

しかし、やがて、過酷な運命の扉は、強く、激しく叩かれることになる。


ベートーヴェンは、20代の後半から耳鳴りや腹痛に襲われ、次第に聴覚が衰えていった。

音を失うこと - それは、音楽家として死を意味するに等しいといえよう。

次第に、音が聞こえなくなる恐怖 - 。

生来、快活な気性だったベートーヴェンも、孤独に陥り、悶々とする日が続く。彼の苦悩は、いかばかりであったか。

「運命の喉元をつかまえてやる」とまで言い切り、運命に対抗していた彼にして、自殺を考えた時期もあったようだ。
 
1802年10月に書かれた、いわゆる『ハイリゲンシュタットの遺書』には、耳の病気の苦しみが切々と綴られ、「僕はほとんど絶望し、もう少しのことで自殺するところだった」と記されている。

『ハイリゲンシュタットの遺書』

しかし、彼は負けなかった。絶望の闇のなかに、使命の光を見いだしていく。

「僕には自分に課せられていると感ぜられる創造を、全部やり遂げずにこの世を去ることはできない」と、残酷な運命に耐え、創造的な、新しき人生への出発を、決断するのである。

この「遺書」は、いわば過去の自分に対する"決別(死)の宣告"であり、同時に、新たな人生を開始する"新生の宣言"であったのかもしれない。

それ以後、彼は作曲に挑戦の炎を燃やし、次々と傑作を世に送り出し、名声を博す。

交響曲第3番"英雄"も、第5番"運命"も、また、第6番"田園"も、「遺書」から5、6年のうちに完成させている。

しかし、生活上の苦労は絶えなかった。

ベートーヴェンは、王侯・貴族にへつらうことを嫌った。彼らの庇護に縛られない、自立した生活を望んでいた。また、自分の芸術は、貧しい人々に捧げられなくてはならないとも考えていたのである。

それは、当時の音楽家としては、革新的な思想であった。だが、そうした生き方は半面、経済的な苦闘を強いられることにもなったのである。


1810年代に入ると、苦しみは、さらに怒涛のように彼を襲った。

恋愛の破局もあった。名声が最高潮になる一方で、数年間にわたる創作活動の沈滞もあった。ベートーヴェンほどの天才と努力の人にして、スランプの苦悩を避けられなかった。

それだけではない。1815年には、最愛の弟が、病死している。

ベートーヴェンは、悲嘆にくれながらも、弟の息子であるカールの後見人になろうとした。ところが、事態はもつれ、この少年の実母と裁判で争わねばならなかった。

それでも、彼は、カールに愛情を注ぎ、高い教育を受けさせようとした。

甥にあたるカールは、ベートーヴェンの期待に反して放蕩を重ねた。そして、後には、自殺未遂までしてしまう。その心労は、確実にベートーヴェンの寿命を縮めたといわれている。

さらに、耳の病は悪化し、会話帳を使った筆談に頼るしかなくなっていた。

そうした苦悩に次ぐ苦悩の激浪を身に受けながら、彼は大詩人シラーの頌詩『歓喜に寄す』の合唱を伴う、交響曲第9番の作曲に取り組んでいくのである。


つづく


『新・人間革命』池田大作


参考文献:
⚫︎『新編ベートーヴェンの手紙』小松雄一郎編訳
⚫︎『ベートーヴェン 音楽ノート』小松雄一郎訳編
⚫︎『セイヤー ベートーヴェンの生涯』E.フォーブズ校訂、大築邦雄訳
⚫︎『ベートーヴェンの生涯』〈ロマン・ロラン全集 14〉片山敏彦訳
⚫︎『第九交響曲』R.ロラン著、蛯原徳夫・北沢方邦訳
⚫︎『ベートーヴェン第九』小松雄一郎著
⚫︎『ベートーヴェンの生涯』A.シントラア著、柿沼太郎訳


(Herbert von Karajan)
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団