1939年9月、ドイツのポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発。ヒトラー率いるナチスに怯えたヨーロッパ。

🇬🇧ウィンザー公爵夫妻

ナチスに占領されたフランスでは、ヒトラーに迎合し、コラボラシオン(Collaboration:対独協力、通称コラボ)として保身・利益をあげた人が多数いました。

🇫🇷ペタン元帥

軍人、政治家、俳優、作家、ジャーナリスト、ワイン業界…コラボの中には、LANVIN、NINA RICCI、CHANELなど有名ブランドもありました。

🇫🇷ココ・シャネル

1944年のパリ解放後、コラボにはエピュラシオンÉpuration légale:法的追放)と呼ばれる粛清処罰が行われ、1万人以上が処刑されたといいます。


公的なフランス政府による裁判のほかに、コラボの女性は売国奴として丸刈りにされ、侮辱、暴行、拘禁、追放などの報復を受けました。

撮影:ロバート・キャパ

因みに、ココ・シャネルは占領中にナチスの軍人と交際し、戦後、コラボとして訴追されましたが処罰を逃れたそうです。

一方、激動のパリに住み、ヒトラーを否定し続け、ナチスと戦った魂の芸術家がいました。



🇪🇸パブロ・ピカソ
 (PABLO PICASSO)

ピカソ
「スペイン内戦は、スペイン人民と自由に対して、反動勢力が仕掛けた戦争である。私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。私が反動勢力すなわち死(殺戮)に対して賛成できるなどと誰が考えることができようか。私は『ゲルニカ』と名付ける現在制作中の作品において、スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する。(『ゲルニカ』制作時の声明より)


ピカソは、1881年10月25日に、スペインのマラガで生まれている。

🇪🇸アンダルシア州マラガ 

大作『ゲルニカ』を描いたのは、人民戦線(共和国)政府と、ドイツ、イタリアの支援を受けた反乱軍のフランコ将軍が戦った、スペイン市民戦争のさなかのことである。

スペイン内戦(1936 - 1939)

1937年の4月、フランコに味方するナチス・ドイツの爆撃機が、スペイン北部のバスク地方の街ゲルニカを爆破した。

なんと、自らの兵器の殺傷能力の実験を兼ねた、無差別爆撃であった。

これによって、罪もない多数の民衆が、その犠牲となったのである。

壊滅したゲルニカ

パリで、その報道に接したピカソは激怒した。彼は直ちに『ゲルニカ』の制作を始めた。

ちょうど、この年にパリで開かれる万国博覧会のスペイン政府館の壁画を依頼されていたのである。

ピカソは、極端に変形した技法を使い、黒と白とグレーで、爆撃にさらされた人間や家畜の断末魔の情景を描いた。


『GUERNICA』(1937)

その技法は、見事に功を奏し、爆撃への恐怖と苦痛と絶叫が、見る者の心に、強く、激しく迫ってくるかのようであった。

それは、彼の不正への怒りと、まばゆいヒューマニズムの結晶といってよいだろう。

ヒトラーとフランコ

スペイン市民戦争は、フランコ軍が勝ち、フランコの長い独裁が始まる。

ピカソは、フランコの独裁を憎み、第2次世界大戦でパリがドイツの占領下に置かれた時にも、パリに住み続けた。

ドイツ軍は、彼が作品を発表することを禁止したが、彼はパリから立ち去ろうとはしなかった。

熱いヒューマニズムの血が、彼の体に脈打っていたのだろう。




『新・人間革命』第5巻
池田大作


参考文献:
●『スペイン市民戦争』
H.トマス著、都築忠七訳
●『スペイン未完の現代史』
川成洋著
●『ピカソ〈ゲルニカ〉の誕生』
A.ブラント著、荒井信一訳
●『ピカソからゲルニカへ』
J.L.フェリエ著、根本美作子訳


フランスを占領したナチス

エピローグ
第2次世界大戦時のナチス占領下にあったパリにピカソが住んでいたとき、あるドイツ役人が訪ねてきた。

ピカソのアパートで『ゲルニカ』の写真を見たドイツ役人は質問した。

「これはお前が描いたのか?」

ピカソは答えた。

「ちがう、お前たちがやった」

1973年没。享年91歳。

🕊

r.i.p.