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ソクラテス✒︎

「言論嫌いを生む言葉への不信は、言葉への過信と"一つもの"の裏と表にすぎない。


その"一つもの"とは、対話と、対話による人間同士の結びつきに耐えられぬ弱い精神をいうのである。


そうした弱い精神は、何かにつけ人間への不信と過信の間を揺れ動き、分離の力の格好の餌食になってしまうだろう。


対話は最後まで貫徹してこそ対話といえるのであり、問答無用は、人間の弱さへの居直り、人間性の敗北宣言である。


さあ、若者よ、魂を強く鍛えよう。望みを捨てず、自制力をはたらかせながら、勇気をもって前進しよう。金銭よりも徳を、名声よりも真実を求めて」(『パイドン』より)



ウインク西洋において"人類の教師"といわれるソクラテスは、何よりも対話を重んじる人だったようです。


一方、東洋において"人類の教師"といわれるブッダも、壮絶な葛藤を乗り越え、対話を繰り広げていきました下矢印



「手塚治虫のブッダ」製作委員会

2011年 東映、Warnar  Bro.



聖者は林を出て、さっそうと歩き始めた。その時、まばゆい光が走り、空を、雲を、森を、川を、金色に染めた。


一陣の風が吹き、木々の葉が軽やかな音をたてた。それは、門出を祝う喝采の調べを思わせた。


釈尊は、この法を誰に説こうかと考えた。まず、恩義ある禅定の2人の師を思ったが、風の便りに、既に世を去っていることを聞いていた。


彼は一路、波羅奈(はらない:バーラーナシー、別名ベナレス)の近郊にある鹿野苑(ろくやおん:ミガダーヤ)をめざした。そこは、古来、多くの修行者が集まる聖地とされていた。

そして、この鹿野苑には、かつてのウルベーラーに村の苦行林で、一緒に苦行に励んだ5人の修行者もいることを耳にしていた。

"彼らに、最初に法を説こう"

釈尊は、その友人たちに、まず、自分の悟った「生命の法」を教えてやりたかった。それは、極めて自然な、真心と友情の発露であった。

鹿野苑への道程は、優に250㎞はあったにちがいない。しかし、彼は胸を高鳴らせながら、歩みを運んだ。

鹿野苑では、5人の友が修行に励んでいた。その一人が、遥か彼方に一つの人影を見つけた。釈尊であった。


「おい!あれは、瞿曇(くどん)じゃないか。何をしに、ここへ来たのだろう」

別の一人が吐き捨てるように言った。

「瞿曇だけは、激しい苦行に耐え、悟りを得ると思っていた。それが、突然、苦行を捨ててしまった。結局、贅沢を欲したのだ。瞿曇は脱落者だ。そんな男が何をしに来ようが、我々とは関係ないことだ。立って、礼儀を尽くして迎える必要などない」

5人の修行者は、近づいてくる釈尊に冷ややかな視線を向け、おし黙って座っていた。

釈尊は堂々としていた。彼が歩み寄り、笑みを浮かべて話しかけると、思わず5人は立ち上がっていた。無視することのできない、吸引力ともいうべき力が、その声にはあった。

釈尊は、自らが大悟を得たことを語った。そして、一緒に苦行に励んだ友に、まず、その大法を伝えようと、ここまでやって来たことを伝えた。

だが、彼らは信じなかった。瞿曇は、苦行を捨てた人間である。そんな人物が大悟を得るわけがないと思ったからだ。



不信の眼を向ける5人に、釈尊は悠然として、偉大なる確信を語っていった。しかし、話は平行線をたどった。

釈尊は言った。

「私の話を信じようと信じまいと、それは構わない。しかし、かつて、これほど輝き、溌剌とした私を見たことがあるか。この輝きこそ、大悟を得た歓喜によるものなのだ」

確かに、釈尊は以前とは全く異なっていた。目には大確信の光がみなぎり、その姿は、威厳と自信と誇りにあふれていた。

人々の不信と迷いの雲を打ち破るものは、人間自身の光彩であり、それ自体が、一つの厳たる実証といえる。

釈尊の「人間の輝き」を前にして、遂に5人の修行者は苦行を捨て、仏陀の教えを求める決心をしたのである。


それから、釈尊は鹿野苑にとどまり、5人に法を説くために共同生活を始めた。

彼が悟った法は、あまりにも偉大である。それを、この5人がわかるように、いかに説くかに、彼は苦慮した。

釈尊は根気強く、論理を組み立て、平易な実践論とし、彼らの機根に即して、具体的に法を語っていった。

それゆえに、この時の教えは、多分に随他意的であった。



釈尊の説法は、来る日も来る日も続けられた。

彼は快楽主義と苦行・禁欲主義という両極端を排し、「中道」に生きることを教えていった。そのための修行法を説き、基本となる思想を説いた。

そして、遂にある日、修行者の一人、憍陣如(きょうじんにょ:コンダンニャ)がその教えを領解し、悟りを開いた。

釈尊が悟った法は、彼一人に限らず、万人が悟ることのできる法であることが実証されたのだ。それは、自利にとどまらない、慈悲の行としての仏教の誕生を意味していた。

ある時、鹿野苑で釈尊が休息していると、一人の若者が「苦しい…」「辛い…」と、溜め息まじりに呟きながら歩いていた。

彼は長者の息子で、耶舎(やしゃ:ヤサ)という若者であった。耶舎は、たくさんの侍女に傅かれ、何不自由ない豪奢な暮らしをしていた。

しかし、彼の心は満たされなかった。耶舎は、その華やかな生活に、むしろ、儚さを感じ、まるで墓場のようにさえ思えるのであった。そして、家を飛び出して来たのである。

釈尊は、耶舎を呼び止めて言った。

「あなたは、何を悩んでいるのですか。私のいる所には、何も煩わしいことはない。さあ、こちらにいらっしゃい」

釈尊は、自分が座っていた敷布に耶舎を招いた。だが、すぐには「生命の法」を説かなかった。

彼を包み込むように、人間の生き方について語っていった。そして、欲望に翻弄されて生きることの愚かさを教えるのだった。



話を聞くうちに、耶舎は心が洗われる思いがした。

若者が穏やかな心を取り戻したことを見て取ると、釈尊は、彼の会得した法の一分を説いた。頰を紅潮させ、教えに耳を傾けていた耶舎の胸に、帰依の心が芽生えた。

釈尊は、この時、憂いに沈んだ耶舎を、励まし、勇気づけることから始めている。悩める人に、一個の人間として、いかなる言葉をかけるか  ー  その慈愛のなかに、布教の原点があるといってよいだろう。

さて、耶舎の家出を知った屋敷は、大騒ぎになっていた。

父の長者は、八方に使いを走らせ、捜索にあたらせた。しかし、それでもいたたまれず、自ら捜しに歩き、鹿野苑にやって来たのである。そこで、息子を教化した釈尊と出会った。

釈尊は、父にも法を説いていった。



父も、その教えに、強く心を打たれた。富と名声だけが人生ではないとを、自覚したのである。

そして、人間の永遠なる道に目覚め、釈尊に帰依しようと思った。

しかし、家業を捨てて出家するわけにはいかなかった。彼は在家信者として、仏道を志すことになった。さらに、父は耶舎の出家も許したのである。

釈尊は、長者の家に招かれた。仏陀に会った長者の妻と耶舎の妻も、ともに帰依することになる。

一人の発心は、とどまらない。一波が十波、百波となって広がっていくように、そこに連なる幾多の人間へと波動していく。

耶舎は人柄のよい青年であった。その彼の出家は、瞬く間に、友人から友人へと伝えられた。

彼らは、耶舎がそこまで魅力された釈尊とは、いかなる人か、また、その法とはどのような教えかと、強い関心を寄せ、釈尊を尋ねた。



そして、青年たちは相次ぎ出家し、その数は50余人に達したのである。

一人を大切にし、一人を育てるところに、広宣流布の永遠不変の方程式があるといえよう。

これによって、釈尊を師と仰ぐ、60人の出家者が、鹿野苑に集まったことになる。それは小さいながらも、一つの教団を成していた。

釈尊は、ある日、弟子たちに言った。

「比丘たちよ、さあ、弘教の旅に出よう!人々の幸福のため、世の平和のために、諸国を巡って、法を説くのだ」


皆、驚いて釈尊を見た。誰も予想していなかったことであった。

釈尊は弟子たちの決意を促すように、強い口調で言葉を継いだ。

「その弘法の旅は、二人で連れ立って行くのではなく、それぞれ、一人で行かねばならない。そして、道理正しく、明瞭に法を説き、高潔な振る舞いを示しながら、布教にあたってほしい」

皆の驚きは増したが、釈尊の射抜くような視線を浴びると、いよいよ自分たちが、巣立つべき時が来たことを自覚した。

最後に、彼は告げた。

「私も法を説くために、悟りを開いたあのウルベーラーの村へ行く」

彼は、弟子たちを一人で布教に旅立たせることに、ためらいも感じていた。

しかし、仏法は、単なる哲学や、瞑想の世界に閉じこもることではない。法を求めて、その理を得たならば、法の流布を自己の使命とし、衆生を教化、救済する実践のなかに、真実の仏法がある。

また、釈尊は弟子が一人で法を説くことで、受動的な受け止め方を排し、自立した信仰を身につけさせようとしたのかもしれない。

布教の責任をもってこそ、信仰も磨かれ、深められるからだ。

ともあれ、一人一人に独自で法を説かせ、民衆のなかへ入ることを促した釈尊の育成の方法には、実践を第一義とする仏法の特色が鮮明に示されている。

弟子たちは布教の決意に燃えて、鹿野苑から、各地へと散っていった。

釈尊も一人、成道の地であるウルベーラーへと歩みを運んだ。

摩訶陀國の首都である王舎城には、著名な宗教家、思想家が多く、新しい文化の都でもあった。

その王舎城に近いウルベーラーは、広宣の旗を掲げる弘教の天地としては、最もふさわしかった。

釈尊の布教は、道中から既に始まっていた。

とある森の中で、彼が座していると、血眼になって誰かを追っている何人もの男女に出会った。

そのうちの一人の若者が釈尊に尋ねた。

「女が一人、逃げて来るのを見ませんでしたか」

彼らは妻を伴い、森に遊びに来ていたが、独身の仲間の青年は遊女を連れて来た。

ところが、皆が遊びに熱中しているうちに、その遊女が金品を盗んで逃げてしまった。


そこで、遊女を探しているというのだ。

話を聞くと、釈尊は質問には答えず、静かに青年たちに聞いた。

「あなたたちは、逃げた遊女を捜すことと、真の自分を探すことと、人間としてどちらが大切だと思いますか」

意外な問いであった。

釈尊は青年たちを黙って見据えた。


彼らは、穏やかな中にも、凛然とした聖者の前に立つと、享楽ばかりを、追い求めている自分たちが惨めで、恥ずかしく思えてきた。

青年の一人が答えた。

「…それは、当然、本当の自分を探すことの方が大切だと思います」

釈尊は頷いた。

「それならば、私が、真の自己自身を探す方法を教えよう」

彼は、快楽を追い求める人生から、永遠の幸福を築く人生の在り方に目を向けさせようと、親身になって話していった。

それは、慈愛と触発の対話であった。

この語らいで、青年たちは全員、釈尊に帰依することになった。

彼は、ちょっとした機会も逃さずに法を説いた。全ての衆生に「生命の法」を教えようとする彼にとって、人との出会いは、そのまま弘教の対話となった。

釈尊は、久しぶりに、尼連禅河のほとりに立った。あの成道の朝と同じように、木々の緑は、鮮やかに太陽の光に映えていた。

いよいよここで、彼の本格的な弘教の戦いが始まるのだ。

ウルベーラーにやって来た釈尊は、最初に、著名な3人の宗教家に法を説くことにした。


3人は兄弟で、バラモンの指導者であり、それぞれ500人、300人、200人の弟子をもっていた。

釈尊は、いわば当時の宗教界の権威に法論を挑んだのである。

最も強い敵と戦い、勝ってこそ、法の真実と正義は証明される。

釈尊は法のために、何者をも恐れぬ、戦う勇者であった。

3兄弟の長兄の優樓頻螺迦葉(うるびんらかしょう:ウルベーラ・カッサパ)は、法論を通して、釈尊の正しさに気づいた。


しかし、その教えを受け入れようとはしなかった。

彼には、多くの弟子を従える身である自分が、釈尊に屈服したとなれば、沽券にかかわるとの思いがあった。

釈尊への話し方もぞんざいで、見下したような態度を取り続けていた。

だが、釈尊はどこまでも礼を尽くし、確信を込め、理路整然と、そして、誠心誠意、法を説いていった。

語り合ううちに、釈尊の人格、人柄に、迦葉は傾倒していった。そして、立場や体面にばかりに拘る自分の卑しさが浮き彫りにされる思いがした。

とうとう彼は、釈尊に帰依を誓う。まさに人格の勝負であった。


布教は単なる理論の闘争ではない。人格を通しての生命と生命の打ち合いである。

釈尊は迦葉の弟子たちのことを考えて、こう言った。

「あなたは500人の弟子の指導者です。あなたの考えを弟子たちに伝え、彼らには、それぞれの思い通りに行動させるべきです」

信仰は強制ではない。どこまでも自発である。

迦葉は、弟子たちと協議を重ねた。


釈尊から聞いた話を、彼が伝えると、500人の弟子は、皆、釈尊に帰依する意思を固めた。


彼は自ら、バラモンの祭祀の道具などを、全て水に流してしまった。

さらに、長兄が釈尊に帰依したことを聞き、二人の弟も、それぞれ弟子を連れて帰依した。

これによって、一時に千人余の弟子が誕生したのである。釈尊は、それらの弟子とともに、王舎城に向かった。


つづく


『新・人間革命』第3巻
池田大作

参考文献:
⚫︎『国訳一切経 印度撰述部』
⚫︎『南伝大蔵経』
⚫︎『ブッダのことば』、『ブッダの真理のことば』、『ブッダ最後の旅』他 
中村元訳
⚫︎『原始仏典』全10巻 
梶山雄一・桜部建他編集
⚫︎『仏教聖典選』
岩本裕訳
⚫︎『大乗仏典』
原実訳
⚫︎『インド仏教史』
平川彰著
⚫︎『釈尊の生涯』
水野弘元著
⚫︎『仏陀』、『この人を見よ』、『ブッダ・ゴーダマの弟子たち』他 
増谷文雄著
⚫︎『釈尊をめぐる女性たち』
渡辺照宏著
⚫︎『仏陀と竜樹』
K.ヤスパース著、峰島旭雄役
⚫︎『ゴータマ・ブッダ』
早島鏡正著
⚫︎『インド古代史』
D.D.コーサンビー著、山崎利男訳
⚫︎『ウパニシャッド』
辻直四郎著

挿絵:
⚫︎『ブッダ』全12巻(潮出版)
手塚治虫著