「手塚治虫のブッダ」製作委員会

2011年 東映、Warnar  Bro.



釈尊の生きた年代については定かではない。入滅についても、古くから、中国の『周書異記』による紀元前949年説や、『春秋』による紀元前609年説があった。

しかし、近代に入ると、入滅を紀元前4、5世紀とする説が有力になってきているが、それにも諸説がある。


釈尊は、釈迦族の王子として生まれた。姓は瞿曇(くどん:ゴータマ)、名は悉達多(しっだるた:シッダールタ)である。

長じて悟りを得ると、瞿曇仏陀(くどんぶっだ:ゴータマ・ブッダ)、あるいは、釈迦族出身の聖者(=牟尼 むに)の意味で、釈迦牟尼(しゃかむに:シャーキャムニ)と呼ばれることになる。「釈尊」とは、その訳語である。

釈尊の父は浄飯王(じょうぼんのう:スッドーダナ)、母は王妃の摩耶(まや:マーヤー)である。

摩耶夫人は迦毘羅城(かびらじょう:カピラヴァットゥ)から里帰りする途中で産気づいて、藍毘尼(らんびに:ルンビニー)で、釈尊を出産したようだ。あるいは早産であったのかもしれない。


そして、母は、釈尊が生まれると、わずか1週間で亡くなってしまった。そのため、彼は叔母の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい:マハーパジャーパティー)によって育てられたという。

まさに釈尊の波瀾の生涯の幕開けであった。

当時のインドは、仏伝などによれば、摩訶陀(まかだ:マガダ)国や拘薩羅(こさら:コーサラ)国など、16の大国が互いに覇を競い合っていたようだ。

しかし、釈迦族の国は、この16の大国には入らず、小国にすぎなかった。だが、自らを「太陽の末裔」と名乗る、誇り高き一族であった。

小国であっても、釈尊は、一国の王子として、何不自由ない生活を送り、文武両道にわたる教育を受けて育った。季節ごとに彼のための宮殿があり、また、炎暑などにさらされることがないよう、侍者は常に彼に傘蓋を差した。さらに雨期ともなれば、女性だけの伎楽団が用意され、外に出ることもない、安楽な暮らしがあった。


しかし、彼の心の底には、いつも満たされぬ心の渇きがあった。澱のように、深くわだかまる思いがあった。

それは、生後まもなく母を亡くしたことからくる、癒されない寂しさであったかもしれない。

"なぜ、母はいないのか。いや、母は、私の命と引き換えに死んでしまったのではないか。では、私はなんのために生まれてきたのだろうか。いったい、生とは、死とは、なんなのだろう…"


感受性の豊かな彼には、深刻な悩みであった。彼は、王宮の池のほとりを歩きながら、哲学的な思索を重ねた。思索は日ごとに深まっていった。

"人間は、いかに若く、健康であっても、やがて老い、病み、死んでいく。これは、誰も免れることのできない定めだ"

彼は、老・病・死を、自身の中に見出し、凝視していた。

"しかし、世間の人は、他人の老・病・死を見て、厭い、嘲っている。なぜなのだろう。愚かなことだ。それは、決して、正しい人生の態度ではない"

こう考えると、彼は青春の喜びも、健康であることの誇りも、音を立てて崩れていくのを覚えた。そして、それを他人事としか見ない、人間の本質に潜む差別の心、傲慢さを痛感するのであった。



釈尊は、万人が避けることのできない、この老・病・死の問題を解決せずしては、人生の幸福はあり得ないと思うようになる。彼の深き葛藤が始まったのである。

"自分は世継ぎとして王となり、社会の指導者とならねばならない。しかし、出家して聖者となって、この問題を解決し、精神の大道を開くべきではないか"


伝説では、釈尊の出家の動機に「四門遊観(四門出遊)」のエピソードがあげられている。

ー  釈尊が城から遊びに出ようとする。東の門から出ると、そこに、老人の姿を見る。南の門から出ると病人を見る。西の門では死人を見る。ところが、北の門では、出家した者が歩いている姿に出会い、それに心を打たれて、出家を決意したというのである。

「四門遊観」の挿話は、後の時代に加えられたものと考えられている。だが、仏教の内容からすれば、釈尊の出家の動機には、老・病・死という人間の根源的な苦悩を、いかに乗り越えるかが深くかかわっていたことは間違いない。

父の浄飯王は、王子の釈尊が、出家を考えていることを感じていた。一説によれば、父王は、彼を引き止める策として、耶輸多羅(やしゅたら:ヤソーダラー)を釈尊の妃に迎えたともいう。やがて二人は一子をもうける。それが、後に釈尊の弟子となり、蜜行第一といわれた羅睺羅(らごら:ラーフラ、障碍)である。


周囲の目には、世継ぎも生まれ、釈尊は安定した人生を歩むかに見えた。しかし、釈尊の葛藤は続いていた。むしろ、王となる自己の責任を思えば思うほど、彼の苦悩は深まるばかりであった。

"人は争い、殺し合い、武力によって他を支配しようとする。しかし、栄耀栄華を極める権威権力も、また、いつの日か武力によって滅ぼされてしまう。さらに誰人たりとも、老・病・死の苦しみから逃れることはできない。その苦しみから脱する道を求めることこそ大切ではないか"

釈尊は、武力主義の覇道の世界に生きることより、人間主義の正道を求めた。そして、永遠なる精神の世界の探究のために、出家を決意したのである。彼は、父の浄飯王に、その意志を打ち明けた。父王の衝撃は大きかった。

"遂に予期していた事態になってしまった。大事な跡取りだというのに。わしは、王子には何不自由ない暮らしをさせてきたではないか。いったい何が不服だというのか!"

浄飯王は、戸惑い、おののき、憤った。ともかく、息子の出家をやめさせなければならないと思った。以前にも増して豪奢な環境を与え、臣下に、王子をもてなすように命じたが、釈尊の決意は変わらなかった。そこで、王は、遂に釈尊が城を出ることを、いっさい禁じたのである。


しかし、釈尊の求道の炎は、何をもってしても、消すことはできなかった。

ある夜、彼は愛馬に乗ると、一人の従者を連れて、厳重な警戒の網の目をくぐり抜け、迦毘羅城をあとにした。時に19歳とも、29歳ともいわれている。

恩ある父を、また、愛する妻子を捨てて旅立つ彼の胸は苦しかった。しかし、それをも焼き尽くす激しい炎が、彼の胸には燃え盛っていた。

城を出た釈尊は、拘利(くり:コーリヤ)国などを通って南へ進み、阿奴摩(あぬま:アノーマー)川を渡った。

そこで、彼は身に着けていた、王子であることを示すいっさいの装身具と愛馬を、従者に託した。そして、自ら、刀で髪を切り、こう告げた。


「ここからは、私一人で行く。お前は城に帰って、父と妻に伝えてほしい。私は出家の目的を果たすまでは、決して迦毘羅城には戻らぬと…」

そこからは托鉢をしながらの旅である。王家に生まれ育った王子が、この先、一人で、どんな旅を続けていくのかと思うと、従者の目頭は潤んだ。

「さあ、帰って、私の言ったように伝えるのだ」

釈尊は強い語調で命じると、それから優しい笑みを浮かべた。やむなく従者は、後ろ髪を引かれる思いで、王子と別れた。

釈尊は摩訶陀国の首都・王舎城(おうしゃじょう:ラージャガハ)をめざした。迦毘羅城から王舎城までは、およそ600kmの道のりといわれる。

摩訶陀国は、強大国であり、新しい文化の中心地である。当時は、時代の変革期であった。


それまでは、バラモン教の聖典ベーダをもとに、祭祀儀礼を行う司祭階級のバラモンが大きな権威と権力をもって、社会を支配してきたが、それが揺らぎ始めていたのである。

その原因の一つは、バラモン自体の腐敗、堕落であった。さらに、領土の拡大という戦いを通して、軍事・政治を担う王族・武士(クシャトリア)と、貿易などによって富を蓄えた商工業者(バイシャ)が勢力を持ち始めたことである。

王族や武士、商工業者たちは、人間の運命が神や祭祀によって決定づけられるとする、伝統的なバラモンの思想に否定的であっただけでなく、バラモンの権威そのものに批判の目を向け始めていた。

また、バラモンの中にも、人間の運命は行為の善悪によって決定されるという、新たな思想も出始めていたのである。

時代が変動する時には、必ず新しい思想、哲学の勃興がある。

バラモンの教えを否定する新しい自由思想家たちの台頭も目立ち始めていた。彼らは、バラモンと区別され、沙門(しゃもん:サマナ)と呼ばれていた。沙門とは、「道のために精進努力する人」の意味である。

仏典では、この沙門の代表的な6人の指導者を「六師外道」と記している。彼らは、祭祀を司り絶対神聖とされたバラモンの権威をはぎ取っていた。

ある人は、善悪は人間が決めたものであるとして、道徳否定論を説き、ある人は、徹底的な宿命論を唱えた。また、ある人は、人間は死によって無に帰すとして、唯物論を説いていた。

それまでのバラモンの教えを否定するものだけに、彼らの主張は極端に先鋭的であり、概して、虚無的な「否定の哲学」の要素が強かったといってよい。

釈尊は、その極端な思想には、どうしても馴染めなかった。摩訶陀国の首都・王舎城に着いた彼は、誰を師として、老・病・死という根本の苦悩を解決する悟りを得ればよいのか、考え続けていたにちがいない。


ある日、摩訶陀国王の頻婆娑羅(びんばしゃら:ビンビサーラ)は、城下を托鉢に歩いている一人の青年を目撃した。青年の顔は、柔和で気品をたたえているが、眼光は鋭く、英知と勇気が輝き、全身に威風が満ちていた。

国王は、その青年に魅せられ、彼がいるという白善山(びゃくぜんせん:パンダバ山)を訪ねた。この青年こそ釈尊であった。王は丁重に、礼儀を尽くして釈尊に言った。

「あなたは、高貴な王族の方とお見受けしました。実はあなたのような方に、わが軍の指揮をとって頂きたいと思い、お訪ねした次第です。ところで、あなたは、どのような生まれの方なのでしょうか」

当時のインドを代表する摩訶陀国の、たっての要請である。しかし、釈尊は毅然として答えた。

「私は、雪山(せっせん:ヒマラヤ)の下にいる太陽の末裔の種族・釈迦族の出身ですが、出家した身でございます。世間的な栄誉は捨てておりますので、申し訳ございませんが、お引き受けするわけにはまいりません」

そして、釈尊は、人生の無常が生み出す苦悩の解決のために、法を得ることが自分の目的であることを語った。

頻婆娑羅王は、釈尊の決意を聞くと、諦めざるを得なかった。



釈尊は思案した末に、禅定の大家といわれるバラモンの仙人を訪ねた。禅定とは、瞑想によって清浄な精神を、物質の束縛から解放する修行である。

釈尊が最初に師事したのは、「無所有処」、つまり、所有を離れた、自身の執着に縛られない境地を得た仙人であった。彼は、修行に励み、ほどなく、その境地に至ることができた。しかし、それだけでは、人間の生死の問題の本源的な解決にはならないことを感じた。

彼は新たな師を求めた。次に師事したのは、「非想非非想所」、いわば無念無想を体得した仙人であった。彼はその境地も得ることができた。だが、それも、彼の出家の目的を満足させるものではなかった。


老いも、病も、死も、人間をさいなむ現実の苦悩である。しかし、禅定自体を目的とするような禅定家の悟りは、生死という問題の根本的な解決のためには、あまりにも無力であることを、釈尊は痛感した。

"私の求める悟りは、こんなものではない。老・病・死の苦しみから人間を解き放つ、真実の悟りを得たいのだ"

釈尊は禅定家のもとを去り、真の悟りを求め、静寂の地を探して旅した。

やがて、彼は王舎城の西方を流れる尼連禅河に沿った、ウルベーラーという土地にやって来た。

その村落には、緑したたる美しい林があった。そこには、多くの修行者が苦行に励んでいた。彼は、この林を修行の地と定め、苦行をはじめたのである。


当時のインドには、肉体は不浄なものであり、精神こそ清浄なものであるとする思想があった。そして、苦行によって精神を束縛する肉体を苦しめ、その力を弱めることによって、精神の自由が獲得できるとされていたのである。

苦行は何年にもわたり、極限まで続けられた。しかし、悟達することはなかった。彼は思う。

"官能のおもむくままに欲望の快楽にふける。もとより、それは、卑しく、愚かで、無益なことだ。しかし、激しい苦行をし、自分を苦しめることに夢中になっても、本当の悟りを得ることはなかった。それも、ただ苦しむばかりで、下等で無益なことだった…"


極端な苦行修行からは、自分の求める悟りは得られぬことを自覚した釈尊は、ある日、忽然と苦行をやめた。

彼と共に修行に励んでいた人々は、苦行に徹し抜いた釈尊は、間もなく悟りを得るものと思っていた。その釈尊が、突然、苦行をやめてしまったのである。周囲の驚きは大きかった。

「瞿曇(くどん:ゴータマ=釈尊の姓)は堕落した!」

周囲の信望と尊敬は、失望と侮蔑に変わった。苦行を捨てた釈尊は、尼連禅河のほとりに立った。太陽の光に、木々の緑が鮮やかに映え、金波銀波が躍っていた。

彼は、沐浴するため、足を引き摺るようにして、よろめきながら川に入った。川の水が、疲れ果てて、朦朧とした彼の意識を蘇らせた。釈尊は苦行の垢を清めた。それは、彼の新しい出発であった。


つづく


『新・人間革命』第3巻
池田大作

参考文献:
⚫︎『国訳一切経 印度撰述部』
⚫︎『南伝大蔵経』
⚫︎『ブッダのことば』、『ブッダの真理のことば』、『ブッダ最後の旅』他 
中村元訳
⚫︎『原始仏典』全10巻 
梶山雄一・桜部建他編集
⚫︎『仏教聖典選』
岩本裕訳
⚫︎『大乗仏典』
原実訳
⚫︎『インド仏教史』
平川彰著
⚫︎『釈尊の生涯』
水野弘元著
⚫︎『仏陀』、『この人を見よ』、『ブッダ・ゴーダマの弟子たち』他 
増谷文雄著
⚫︎『釈尊をめぐる女性たち』
渡辺照宏著
⚫︎『仏陀と竜樹』
K.ヤスパース著、峰島旭雄役
⚫︎『ゴータマ・ブッダ』
早島鏡正著
⚫︎『インド古代史』
D.D.コーサンビー著、山崎利男訳
⚫︎『ウパニシャッド』
辻直四郎著

挿絵:
⚫︎『ブッダ』全12巻(潮出版)
手塚治虫著