


【ニューヨーク共同】
核兵器禁止条約に反対する米国が、複数の条約批准国に、批准を取り下げるよう求める書簡を送っていたことが分かった。AP通信が21日伝えた。
禁止条約が発効に必要な批准数50まであと3カ国・地域に迫る中、条約発効の影響を懸念した米国が批准国に圧力を加えた形だ。
条約を推進するICANのフィン事務局長はAPに対し、条約発効が近づく中で「一部の保有国、特にトランプ米政権が神経質になり、恐らくパニックに陥っている」と指摘。
「保有国は、核兵器が間もなく国際法で禁じられることが現実になると理解しているようだ」と語った。




【共同通信】
公明党の山口那津男代表は21日、茂木敏充外相と外務省で面会し、核兵器禁止条約に関して、締約国会議へのオブザーバー(傍聴者)参加検討を求める要望書を渡した。

もちろん日米関係、世界のバランス(日本はNPTには76年に批准済み)などの現状がありますから、性急さは禁物です。
しかし、来年の発効が実現すれば、大きな変化が起こせるチャンスがくるのではないでしょうか。

今一度、沖縄戦という悲惨な歴史を振り返り、未来を生きる教訓を学びたいと思います。
🕊ひめゆりの塔
1945年(昭和20年)3月23日、フィリピン、硫黄島を攻略したアメリカ軍は、沖縄諸島への攻撃を開始した。
沖縄には、南西諸島の防衛のために第32軍が守備隊として配置されたが、既にその任務は、沖縄を守ることではなかった。
戦いを持久戦に持ち込み、本土決戦のための時間を稼ぐことにあった。
つまり、犠牲をものともせずに戦い、米軍の戦力を消耗させ、本土の捨て石となって玉砕することを余儀なくされていたのである。
そのため、沖縄県民もまた多大な犠牲を強いられることになる。
3月26日、遂に米軍は、那覇沖合の慶良間(けらま)諸島に上陸した。
守備隊は、米軍が上陸すると、住民の乏しい食糧を供給させた。しかも、彼らは、ガマと呼ばれる自然壕に身を潜めたが、住民が一緒に逃げ込むことを認めなかった。
身を隠す場所さえなく、米軍に包囲され、追い詰められた住民に残された最後の道は"集団自決"しかなかった。
手榴弾を使って爆死する人もいた。鍬、鎌、ナイフ等で互いの首や手首を切る家族もいた。凄惨な光景であった。
守備隊は、軍人ばかりでなく、住民にも皇民として"自決"を強いてきたのである。
また「鬼畜米英」と教えられてきただけに、米軍に投降することなど思いもよらなかった。
米軍が沖縄本島に上陸したのは4月1日であった。米軍は、約1500隻の艦船と、延べにして54万8000人の兵員をこの沖縄に投入した。
米軍は、1週間で沖縄本島の西北部をほぼ制圧し、宜野湾、浦添、首里へと進撃を開始した。
約2カ月にわたる戦いで、守備隊は6万人を超す死者を出し、5月末、首里は米軍の手に落ちた。
しかし、それでも、まだ沖縄戦は終結しなかった。玉砕のための、血で血を洗う凄惨な戦いが続けられたのである。
生き残った守備隊の兵士は、南部の喜屋武(きやん)半島に撤退し、持久戦に入った。
これに対して、米軍は、空と海と陸からの総攻撃を続けた。
"鉄の暴風"と呼ばれた砲爆撃によって、丘は削られ、大地は波のようにうねっていった。
また、守備隊が潜んでいそうな所を、火炎放射器で焼き尽くしたり、人々が逃げ込んだ自然壕の出入り口を占領し、ガス弾などを投入する、"馬乗り攻撃"といわれる戦法がとられたのである。
6月11日、米軍司令官バックナー中将は攻撃を中止し、日本側に降伏を呼びかけたが、第32軍の牛島満司令官は、それを拒否した。
18日、戦況視察中のバックナー中将が戦死すると、米軍の攻撃はさらに激しさを増した。
ここに至って、牛島司令官らの首脳が自決し、沖縄での組織的な戦闘は終結することになる。
米軍が包囲するなか、学徒隊の解散命令が出された。
県立第一高等学校と師範学校女子部の生徒・職員は自然壕で看護を続けていた。
勝つと信じ込まされて戦ってきた乙女たちにとって、寝耳に水のような命令だった。皆、茫然としていた。壕を脱出しても、敵の砲撃のなかに身を投じるしかなかった。
彼女たちのある一団は、戦場をさまよい、荒崎海岸に辿り着いたが、そこで目にしたものは、海に浮かぶ無数の敵艦だった。
岩穴にじっと身を潜めていると、近くで米兵の発砲が始まった。
一緒に逃げていた教師は手榴弾を取り出すと、そこにいた9人の生徒を道連れに自決した。
爆発音とともに珊瑚礁は鮮血に染まった。
また、別の壕にいた乙女たちは、壕から脱出しようとした時、投降を勧める米軍の声を聞いた。
しかし、誰も壕からは出なかった。ほどなく黄燐弾が投げ込まれ、続いてガス弾が炸裂した。
一瞬にして、そこにいた46人の乙女らの命が奪われ、生き残ったのはわずか5人にすぎなかった。
その後も掃討作戦などが続き、一切の戦いが終わるのは、終戦の8月15日から20余日過ぎた、9月7日のことであった。
沖縄戦がとりわけ悲惨な戦いとなったのは、持久戦に持ち込み、時間を稼ぐために、住民を巻き込んだ戦闘が行われたことにあった。
こうして、沖縄県民の戦没者は、軍人軍属2万8000余人、一般住民約9万4000人という、膨大な犠牲を払うことになったのである。
この犠牲者のなかには、守備隊にスパイとして殺された住民もいた。
沖縄の方言や外国語を話したというだけでスパイとされた人もいれば、守備隊が食糧を略奪するために、スパイの汚名を着せて処刑するケースもあった。
また、食糧がなくなり、飢餓のために死んだり、山に逃げ込んでマラリアに罹り、命を失う人も続出したのである。
『新・人間革命』第2巻
池田大作
参考文献
『総史 沖縄戦』大田昌秀
『改訂版 沖縄戦』大城将保
『沖縄戦を考える』嶋津与志
『愛と鮮血の記録』金城和彦
『近代沖縄の歩み』新里金福・大城立裕著、琉球新報社編
『沖縄入門』比嘉康文・岩垂弘編著
沖縄県国頭郡恩納村
"変毒為薬"…毒を変じて薬と為す
1977年、恩師は、米軍が作った「核ミサイルメースB基地」跡地に平和祈念施設を作りました。その敷地内に取り壊されずに残っていたミサイル発射台は1984年に6体のブロンズ像が建つ「世界平和の碑」へと生まれ変わっています。
🎓恩師
「沖縄は、平和を考える原点の場所として、ひめゆりの塔もある。※健児の塔もある。それとは別の意味で、日本はもちろん世界の平和を考える原点の場所としよう」
※健児の塔…男子生徒(15〜19歳)の学徒で編成された「鉄血勤皇隊」の慰霊塔。


たとえ道は長く険しくても、なんくるないさー

Def Tech

@宜野湾海浜公園野外劇場・沖縄

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